中編
その日から、レオンは言葉どおりブランシュに尽くし始めた。ヴェルナと会うことは一切なくなり、毎日決まった時間にブランシュの部屋を訪れる。
とはいえ、婚約から十年の間──結婚してからすらよそよそしかった二人である。共通の話題がない。部屋で共に過ごしていても、互いに微妙に居心地が悪い。
ここは年長の自分が手を差し伸べるべきか、それともレオンの挽回を待つべきか。ブランシュが考えあぐねていると、レオンが行動に出た。
「週に一度、試験をしてほしい」
「試験、ですか」
「俺が君のことをどのくらい知っているか、試してほしいんだ」
「……それって、わたくしの隠したいことも露わになるのではございません……?」
例えば、初恋はレオンだとか。いや、これは別に隠さなくてもいいことだが、何となく気恥ずかしい。
「君に関する問いに、俺が答えられなかったら失点一。答えられたら加点一。相殺していって、加点が十点になったら」
「なりましたら?」
「……名前を、呼んでほしい。殿下ではなくレオンと」
目尻を仄かに紅く染めて、そっぽを向いて告げられた。その稚い様子さえ愛しいほどには、ブランシュはレオンが好きだ。名前を呼ぶくらい、今ここで呼んでもいいのだが、レオンには譲れない何かがあるらしい。
「俺は、その、君の夫として不出来だから……呼びたくない気持ちはわかるが。ヴェルナ嬢の思い通りにはしたくない」
ここでそういうことを言わなければいいのに、と内心溜息をついた。ブランシュが好きだから名前で呼ばれたい。嘘でもそう言ってくれたら、すぐにでも「レオンさま」と呼ぶのに。
ただ、それをしないことがレオンなりのブランシュへの誠意だと思っているらしい。それも受け入れるのが妻の務めだろうかと、ブランシュはやわらかな笑みを刷いた。
「わかりました。お受けいたします」
「すまない」
「皇太子ともあろう御方が、気安く謝罪なさってはなりません」
作法の教師を意識しながらそう言うと、レオンはバツが悪そうに視線を逸らした。
「目を逸らさないでくださいませ。子どもっぽいと侮られます」
「……俺の妻は、か弱くたおやかな女性だと言われていたんだがな……」
男爵令嬢に寵愛を奪われた、放置された皇太子妃と哀れまれていたのは事実だ。奪われるも何も、ブランシュはレオンの寵を受けたことはない。
「では、早速ですがわたくしから質問です」
「ああ」
「わたくしの好きな色は?」
「ドレスは、寒色も暖色も着ていたな。季節や流行に合わせているから、君の趣味でなくても受け入れたはずだ」
「ええ」
宮廷の流行は貴族が決める。特に衣装に詳しいのは、今はガーランド公爵夫人だ。だが、そのすべてをブランシュが受け入れるわけではない。流行と、自分に似合うもの。その両方を兼ねたものだけを身に付ける。
「手がかりを差し上げます。わたくしの好きな色は、身につけることが難しい色ですわ」
「難しい色? 君が?」
着こなせない色なのかと言外に問うレオンに、ブランシュはにっこりと微笑んだ。好きな色と似合う色は必ずしも一致しない。
「宿題になさってもよろしいですわよ」
「……そうだな、一旦持ち帰る。リーズ以外の女官達に聞き込みしてもかまわないか?」
「ええ。リーズだけは駄目ですけれど」
当のリーズは知らん顔でブランシュの後方に控えている。ブランシュ直属の女官は他にもいるが、腹心といえるのはリーズ一人だ。
「もう一つ。わたくしの衣装棚をご覧になってもわからない色ですわ」
これ以上は手がかりを与えすぎだろう。微笑んだブランシュに、レオンも微苦笑した。
レオンがブランシュのことを少しでも知っていれば、好きな色は黒と金だと察せられる。が、今まで殆ど交流のなかった夫婦だから、彼は自分が妻から好意を寄せられていることを知らない。
「それでは、話をしようか」
「え?」
一旦持ち帰ると言ったから、これで終わりだと思っていたブランシュは、レオンの言葉に驚いた。が、レオンの方も目を瞬かせている。
「君とは、話したことがあまりないから……迷惑でなければ、時間をもらいたい」
話したことがないのはレオンが放置していたからで、ラツェン男爵令嬢の登場前から夫婦の会話すら迷惑だと思われていたのはブランシュの方である。よって、会話したことがあまりないのはレオンの責任だ。
「今更、都合がいいとは自分でも思っている。だが、俺はヴェルナ嬢を阻止したい」
「それはわかります」
彼女の思い通りにしたら、次世代でローゼンシュティールが滅びかねない。皇太子妃として、ブランシュもその事態は避けたい。国政に携わることはない身であっても、皇族としての義務は弁えている。
「だから、もっと君のことを知りたいし、俺のことも知ってほしい」
「わたくしは、殿下のことは存じ上げておりますけれど」
好きな色は銀と青、趣味は剣の鍛錬、嫌いなものは守役のアーダレナ公爵ゴッドフリート卿のお説教。同時に、アーダレナ公爵をとても尊敬していることも知っている。
「けれど、今俺が何を考えているかまではわからないだろう?」
「……ええ」
それは確かにそのとおりなので頷いた。レオンは直情型の傾向があるが、さすがに思考まではわからない。
「今、俺は君との会話を楽しいと思っている」
「試験ですから、集中なさっているだけでは?」
「試験なのに、だ。君の好きな色は何色だろうと考えながら、駆け引きのように言葉を重ねることは結構楽しい」
カインやユリウスと過ごしている時のようだと言われ、ブランシュは苦笑を禁じ得ない。幼馴染の男友達と同様に気安いと思われるのは、妻としては忸怩たるものがある。だが、そのくらいには親しみを持ってもらえたことは嬉しいとも思う。
「わたくしも、少し楽しいですわ」
「俺は会話が上手くないから、君が少しでも楽しいなら僥倖だ」
そう微笑んだレオンに、ブランシュはまた惹かれてしまう。今まで優しさの欠片もなかった彼だから、やわらかな微笑み一つで絆されるのは仕方ない。
「ですけれど、好きな色はお教えしませんわ」
「君が纏ったことのない色というのは、重要な手がかりだ」
「わたくしの装いなど、覚えていらっしゃらないでしょう?」
少し意地悪な問いに、レオンはぐっと言葉に詰まった。
「……派手な色は嫌いだと言った記憶がある。君は、それ以降は淡い色彩を纏ってくれていたことは知っている」
ブランシュは内心で驚いた。婚約して一年が過ぎた頃、ジークリンデから贈られた鮮やかな緋色のドレスを纏ったブランシュに、レオンが「派手な色は嫌いだ」と吐き捨てたことがある。難しい年頃の少年らしい潔癖さだろうとは思ったが、ブランシュもまだ十代半ばの少女だったから傷つきはした。が、レオンが嫌いだと言った以上、そういう色味は控えるよう気をつけてきた。
「本当は、よく似合っていると思っていた」
「え」
「君の髪色に映えて、綺麗だと思った。気恥ずかしくて言えなかったが」
「……今更ですわ」
そう、今更だ。なのに、とても嬉しい。
「それに、わたくし、淡い色も好きですわ。嫌々纏っていたわけではありませんもの」
「そうだろうな。君は何を着てもよく似合う」
他愛ない相槌が、上辺だけの言葉ではなく本心から言っているとわかるのは、一切の照れを見せずに淡々と言われたからだ。十三歳のレオンが気恥ずかしくて言えなかった言葉を、二十一歳になったらすらすら言えるほど気質が変わるわけでもないだろう。
「ブランシュ」
「はい」
「俺が君に近づこうとするのが迷惑なら、はっきり言ってくれていい。それだけのことを、俺は君にしてきた」
「……」
「ヴェルナ嬢のことも、俺が自分で何とかするべきだとも思う」
真摯な眼差しで告げられた言葉に、今度はブランシュが言葉をなくした。相手を知ろうとする会話、それを楽しいと思うのは事実だ。同時に、幼子のような自分が「今更だ」と泣き喚いている。
「今は、もう何も。殿下がお心を寄せてくださるのは嬉しいですわ」
恐らく求められているだろう答えを返して、ブランシュは完璧な笑みを形作った。
***
マリー・ブランシュ・ルア・シャントールは、完璧な容姿と教養を具えた、未来の皇后として何ら不足ない皇太子妃だ。
その完璧さに気圧されて、殊更に距離を取っていたのは自分が幼稚だったのだと今のレオンは理解している。儚げでたおやかな少女が、微かに王国訛りのある皇国語で名乗った時、レオンは恋に落ちた。十一歳の初恋だった。
未来の妃として紹介された十三歳のブランシュは、少しだけレオンより背が高かった。皇后ジークリンデに手を取られ、王国風のドレスで飾り立てられていながら、どこか淋しそうな微笑みに一目惚れした。
だが、生来の勝ち気な性質から、好意を伝えることはできなかった。自尊心がどうこうというわけではなく、年下であることが常に気に障った。想いのままに振る舞ったら、子どもっぽいと思われるのではないか。そんな不安から、常に歳より背伸びした態度を取るうちに、ブランシュはあまり笑わなくなった。
初めて逢った時の淋しげな微笑みすら浮かべることはなくなり、その代わり、公式の場では皇太子の婚約者としての無機質な笑顔だけ見せるようになった。笑ってほしくても、レオンにはその方法がわからなかった。ブランシュの好きなものも、嫌いなものも、何一つ知らないままの婚約だったから。
そうするうちに成年が近づき、挙式の話が聞かれるようになった頃には、レオンはブランシュに嫌われていると思っていた。せめて、ブランシュが嫌いな相手と結婚しなくても済むように婚約破棄も画策したが、耳敏い母后ジークリンデに叩き潰された。
その後は、白い結婚ならブランシュを離縁してやれると思って、「運命の番」に憧れる夢見がちな皇子のふりをし続けて──気づいたら、ラツェン男爵令嬢ヴェルナの餌食になるところだった。ブランシュの為ならそのままにしてもよかったが、レオンからの離婚宣告はブランシュに傷がつく。そう思って婚姻の破棄宣言を躊躇った時、「前世の記憶」が甦った。そしてレオンは考えを改めた。一夜どころか一瞬にして生まれ変わった気分である。
自分達の関係は、ブランシュの意思を確かめることが何より大切だ。彼女が今の生活を嫌だと思っているなら、白い結婚を理由に離縁されるように動く。だが、もし今の境遇を受け入れているのなら──全力で、レオンを好いてもらえるように努める。
「でーんか」
幸い、会話することは厭われていない。対話を繰り返すうちに、僅かながらも微笑んでくれるようになった。微笑が笑顔になったら、どれほど美しいだろうか。
「殿下」
その為にも、第一問である「好きな色」は当てたい。総計で十点になる為に何問あるかを問わなかったブランシュの善良さに、少し申し訳なくなる。十点になるまで、延々と繰り返すつもりである。だから第一問は当たらなくてもいいが、幸先はいいに越したことはない。
「殿下。それ以上無視するなら、俺、ヴェルナ嬢に明日の予定を吐きますからね」
「そう逸るなカイン」
ずっと纏わりつくのを無視していた近衛騎士に返事をして、向かいに立つことを許した。敬礼した後、カインが様子を窺うように榛色の目を向けてくる。
「俺だって、ヴェルナ嬢に狙われてた『攻略対象』なんですからね。あんまり粗雑に扱うなら、殿下の情報売るくらいはしますからね?」
「おまえはそれでよく近衛騎士になれたな」
皇族を守る為の騎士なのに、と呆れを滲ませたレオンに、カインは「まあ俺はコネ採用なんで」と言った。騎士団長にチラッと釘を刺すべきかもしれない。
「今日も妃殿下への日参お疲れさまです。これ、ユーリから預かった書類です」
後はサインするだけに整理された書類を数枚渡された。ユリウスは有能な文官だが、まだ若い彼が直接関わる書類は少ないし、皇帝ではなく皇太子の裁可が必要なものはもっと少ない。父帝カークライトも同様で、基本的に文官達から挙げられる書類は目を通したら署名するだけだ。問題点は、大臣達が潰してある。だからレオンの執務というのは、書類面ではそう多くはない。
多いのは慰問だ。父母が気軽に行幸できない分、皇太子夫妻に廻ってくるものはそこそこある。今までは仏頂面で臨んでいた公務だが、これからはブランシュの負担にならないように務めたい。
「慰問は行く。孤児院は避けろ。病人の相手ならしてもいい」
「どーして孤児院を避けるんですか」
「世継ぎがどうのと論ってくる貴族達がいる。しばらくは『子ども』絡みのことは避けたい」
「ですよね、することしてねーのに子どもなんてできないですもんね」
睨みつけたいのを堪えて沈黙すると、カインは頭の後ろで両手を組んでいた。完全に護衛を放棄した態度である。
「お話しから始めましょって、とっくに成人した夫婦が何やってんだって話ですよ。お人形遊びでもした方が仲良くなれるんじゃないですか?」
「うるさい」
「お節介ですけどね、言うことは言っときますよ。殿下がご即位するには、お世継ぎが必要なんですよ。国法第三条、皇太子の即位に必要な条件、お忘れじゃないですよね?」
ローゼンシュティール皇国では、皇太子の即位には直系子孫が必要だ。安定した皇位継承の為、絶対とされている。つまり、ブランシュが子どもを産んでいない現状、レオンは即位できない。
「養子を迎えるにも、まだお二人は三十路になってませんし」
国法で、皇族が養子を取れるのは妃が三十歳を過ぎてからとされている。子どもが望めなければ養子を認められるが、言い換えれば、三十歳までは養子を取れない。また、養子を取った後に実子が生まれた場合は、実子が継承者とされる。
「で、そんなこと言ってたらあと七年はお二人は子ども絡み──孤児院や学校、教会の慰問ができなくなるってことです。無理ですそれは。ユーリも言ってましたでしょ、何事も均衡が大事って」
「……」
皇帝派とされるアーダレナ公爵を中心とする派閥にも、議会派と呼ばれるカプリウス侯爵派にも、学校や孤児院、教会はある。が、どちらかといえばカプリウス侯爵の派閥に教育機関が多い。アーダレナ公爵派は病院や教会といった救済機関が多く属している。
「皇帝派ばっか視察して、議会派には殆ど行かない、なんてことになりかねないですよ」
「わかった、学校と教会は行く。だが孤児院は駄目だ」
「仲の悪い夫婦が子どもと触れ合ってるのを見た貴族達から、養子案が提起されるからですか?」
「仲は悪くない」
「そこ、いま宮廷で一番の話題ですよ。殿下がヴェルナ嬢を放置して、妃殿下に取り入ってるってのが」
「妻と語らって何がおかしい」
「同意なく与えられた妻より、運命の番がいいって言ってたの、誰でしたっけ」
本心ではないことを喧伝してしまったレオンが馬鹿だし、ラツェン男爵令嬢を連れ歩いた事実は愚の骨頂だ。ブランシュに見捨てられていないのが奇跡な気がしてきた。
「初恋拗らせて、どうしていいかわからないから冷たくするなんて、十代でやめとけって俺は言いましたよね、何回も」
「うるさい」
「それを、白い結婚だから離縁して妃殿下を自由にしてやりたいとか、脳天気なこと言ってたのは殿下ですよ。妃殿下のお気持ちも知らないくせに」
カインがずばずばと切りつけてくる。耳が痛い。が、最後の言葉に引っかかる。
「ブランシュの気持ちを、おまえは知っているのか?」
「知りませんよ。ただ、お心の寛容な方だとは思いますよ、殿下のあの態度に愛想を尽かさずにいてくださるんですから。言うだけ無駄だと諦めておられるのかもしれませんが」
「知らないなら、思わせぶりな発言はするな。それでなくても俺は余裕がない」
「妃殿下絡みで、殿下が余裕あったことなんて一回もないじゃないですか」
「カイン」
「はい」
「俺はおまえは大切な幼馴染だと思っているが、生来、それほど優しい方ではない。不愉快なことは嫌いだ」
「でもその『耳に痛い諫言』をするのが俺とユーリの務めだと、ゴッドフリート卿から叩き込まれてますしー」
皇太子とその文武の側近二人にとって、守役のアーダレナ公爵は第二の父ともいえる。彼の発言は、私的な場では皇帝に次ぐ重みがあるのだ。
「取りあえず、名前を呼んでもらえるといいですね」
「……」
「……真っ赤になって俯くのは悪手ですからね? 普通に返事するんですよ、レオン殿下」
「おまえやユーリに名前を呼ばれても何ともないのにな」
「……そこで俺らを比較対象にするのが、殿下の駄目なとこだと思いますよ……」
脱力したらしいカインは、言葉とは裏腹に姿勢を正して扉の側に立った。毅然としたその態度は、近衛騎士の名に相応しい。
「女官への聞き込み、頼んでもいいか?」
「どうして俺なんですか」
「そうだな、口下手な俺よりはと思ったが、おまえに女性相手は酷だったな……」
「そりゃ、女官への聞き込みならユーリの方が向いてますけどね! 俺は姉上達みたいな女性でなければ大丈夫なんですよ!」
気の強い姉三人に囲まれて育ったカインは、やや女性恐怖症である。
「おまえの姉上達は結婚前は母上付きの女官だっただろうが。その女官相手の聞き込みはむごいと思ったんだが」
「その半端な優しさが俺の心を抉ってるんですよ!」
「まあいい。ユーリが来たら説明して頼んでおいてくれ」
「丸投げですか。その間殿下は何なさるんですか」
「アーダレナの爺のところに行って、精神を叩き直してくる」
「おおう……意外と自分に厳しい……」
「ブランシュが気を許してくれる前に襲うようなクズにはなりたくないからな」
「まあ、そりゃ最低ですもんね」
うんうんと頷くカインの肩を軽く叩いて、署名した書類を手渡した。
「行ってくる」
最敬礼で見送るカインを残し、レオンはアーダレナ公爵が皇宮に与えられている居室に向かった。




