寝る間を惜しんで働いていたら取り調べを受けることになりました
「またお願いできるかしら?」
扉をノックする音がした。カレン様の声だ。アイナは慌てて寝具から飛び出て、自室の扉を開けた。今日も仕事があるようだ。良かった。
カレン様は貴族の出身で、平民のアイナにも親切なお方だ。ほとんど毎日聖女の仕事を回してくれる。この療養所は二十四時間勤務。貴族出身のカレン様たちの治療を受けたい人は多く、平民のアイナの治療を望む人は少ない。
平民出身の聖女でも良いと言ってくれた人がいたら仕事ができる。待機時間は長いが、ご飯を貰うためには仕方がない。
仕事をしない聖女への風当たりは強く、合言葉は『働かざる者食べるべからず』
そんな中でもアイナに親切な人はあと二人。部屋で待機をしているアイナに食事を運んできてくれるベルタ様、たまにお菓子をくれるデボラ様。お三人はご友人同士なのだそうだ。一度過労で寝込んだからか、最近はアイナの健康状態まで気にしてくれている。
三人とも貴族の出身。苗字は聞いても分からないのでアイナは知らない。治療室と自分の部屋との往復をする毎日。食べて寝て働くだけの日々。
それでもアイナは幸せだった。この療養所に来る前はゴミ箱から食べ物を拾ったり、屋根のあるところを奪い合ったり、心が休まることがなかった。聖女の力を持っていなかったら死んでいたと思う。
今は自分の部屋があって、ベッドがあって、仕事も食べ物もある。娯楽は無いけれど、食べて寝られるだけで幸せだった。ただ一つの欲は『もっと眠りたい』
最近治療希望者が増えて、治療に時間がかかるようになってしまった。カレン様たちのようにテキパキと治療ができたら良かったのに。もっと頑張らなくては、とアイナは寝る間を惜しんで働いた。
きっとその寝不足がいけなかった。治療室の前の廊下で、アイナは転んでしまった。目の前を白い蛇が横切ったような気がして、避けようとしたら足がもつれてしまった。
勢いよく飛んでいったベール。聖女はベールで顔を隠す。そのルールを守っているのは、アイナとアイナに親切な三人のみ。
他の聖女がベールをしていないことをアイナは知らない。カレン様に教えてもらった通り、治療中もずっとベールを被っていた。
飛んでいったベールを掴んですぐに被り直した。不幸なことに廊下には結構な人数が並んで待っていた。アイナの顔を見た人は好き勝手に話し始めた。
「あれは誰だ?」
「見たことがない」
「可愛い」
「ずっとベールを被っているから変だと思ってた」
「偽物?」
「え。他の聖女様が治せなかった傷を治してもらったけど?あの人だったと思うわ」
「じゃあ、本物か」
「だったら私もあの聖女様に治してもらいたいわ」
「名前が分からないと指名できないぞ」
立ち上がったものの、打った膝が痛い。いつもの癖ですぐに聖女の力を使って治す。まずい。顔を見られてしまった。カレン様から聖女は顔を見られると危ないと聞いていた。でも、他の聖女もベールを被っているはずなのに、なぜ顔を見たことがないとか言うのだろう。
「そこの君、ちょっと待ちなさい」
急いで自分の部屋へ戻ろうと歩き始めたアイナに声をかける人がいた。アイナは自分が呼ばれたとは思わず部屋へと急いだ。それがいけなかった。逃げたように見えたのか、グイッと肩を掴まれた。
「ひぃっ」
「待ちなさい。見慣れない顔だね。ちょっと別室で話を聞かせてもらおうか」
療養所の職員だった。初めて会った。怖い顔をしている。どうしよう。
連れてこられたのは明るくて綺麗な部屋。療養所にもこんな豪華な部屋があったのか。自室は暗く窓もない。
ソファに座らされたアイナは、三人の腕組みをした職員に怖い顔で睨みつけられている。その職員を背に目の前のソファに座っているのは少し年配の温厚そうな男の人。
アイナは知っていた。こういう人が一番怖い。何かを踏み抜くと急に怒るので危ない。慎重にならねば。
「お名前を教えてもらえる?」
温厚そうな危険人物が笑顔で言った。
「アイナです」
後ろの職員がパラパラと名簿を捲る。
「施設長、思った通り登録がありません」
「そう。でも君が見た時は廊下で足を治したんだよね?」
「はい」
「聖女なのは間違いないわけだ」
「恐らく」
「例の機械は試した?」
「いいえ、まだです」
「そう。じゃあ、まずはそれからだね」
「はい」
ソファの後ろの男性が目配せをし合うと、一人が部屋を出て行き、何かの機械を持って帰ってきた。
待っている間、アイナのお腹が大きな音を立てた。転びさえしなかったら、今頃は食事の時間だったのだ。転びさえしなければ……
「あらら。お腹がすいたの?何か持ってこさせようね」
施設長が残っていた職員に目配せをした。その人は小さく頷いて部屋から出て行った。すぐに帰ってきたその手には食べ物。アイナは嬉しくて施設長を見た。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「ありがとうございます!うわー、いつものごはんよりずっと豪華で嬉しいです!ありがとうございます!いただきます!んー!美味しい!」
「ゆっくりお食べなさい。誰も盗らないよ」
「はい!」
もぐもぐとよく噛んで食べ続けるアイナ。
「どこに君の部屋があるのか教えてくれる?」
もぐもぐと食べ続けながらも部屋への道順を伝えた。残りの職員が施設長に向かって軽く頷いて、部屋から出て行く。入れ違いに機械を持った職員が入ってきた。
「お待たせしました」
職員はアイナと施設長の間にあるテーブルに機械を置いた。アイナは食べ物を自分に引き寄せた。
「じゃあ、この機械の上に手を置いてくれる?そう、そこね。じゃあ、この機械を治そうと思って力を込めてみて」
「はい」
アイナは素直に力を込めた。この機械を治す!と気合を入れる。白く眩しい光が機械を包んだ。
「おぉぉ!」
「こんなに光るものなのか」
「すごい」
「はい、もういいよ。ありがとう。手を戻していいよ。なかなかの力だ」
「恐れ入ります」
アイナは服に手を塗りつけて拭いた。緊張したのかとても汗ばんでいた。
「君は野良聖女だね。どうやってここに来て、何をしていたのか教えてくれる?」
「野良聖女、ですか?」
「聖女保護協会に登録がない聖女をそう呼ぶんだ」
「そうなんですね。知りませんでした」
「登録時に説明されることだからね。では、他に質問がなかったら、教えてもらえる?」
「はい。街で暮らしていた時、怪我を治したところを見た、という人に連れられてここに来ました。部屋に案内してもらって、寝る場所と仕事を貰いました。私としては、ここで働いていたつもりだったのですが」
アイナの部屋を見に行っていた職員が戻って来た。多くはない彼女の荷物を全部持っている。ああ、追い出されるのか、とアイナは思った。今までも無断で寝るなと怒られたことがあった。
「君は自分が何歳か分かる?」
「いいえ」
「街で暮らしていた時、君はずっと一人だったの?」
「はい」
「ご両親や、親戚の方は」
「分かりません」
アイナは慎重に神妙に丁寧に答えた。
「部屋を貰った後、どうしていたのか教えてくれる?」
「ここでは働いたらご飯が貰えると聞きました。治療をしてほしいと言われないと治療ができず、ご飯が貰えないと聞き困っていました。平民の聖女だと治療を希望する人がほぼいないのです。でも親切なカレン様がお仕事を、ベルタ様がお食事を、デボラ様がお菓子をくださいました。あのお三人がいらっしゃらなかったら今頃どうなっていたか……お三人には感謝しています」
「あー、なるほどね。三人を別室へ。拘束してね」
施設長は嫌そうな顔で職員に目配せをした。一人が小さく頷くと部屋から出て行った。
「それで?三人からは何か言われなかった?」
「特にはなかったと思います」
「そう。じゃあ、朝起きてから寝るまで、一日をどう過ごしていたか、教えてもらえる?」
「はい。部屋で休んでいると、カレン様が声をかけてくれます。カレン様に案内していただいて治療室に入ります。平民の私の治療でも良いと言ってくれた人たちを治します。終わったら部屋へ戻ってベルタ様から食事を貰います。一度過労で倒れてからはデボラ様がお菓子をくださるようになりました」
「なるほど。どのくらいの期間ここで働いていたか分かる?初めての患者さんがどんな人だったとか?」
「えっと、期間は分かりませんが最初は確か、腕にぶつぶつができて困っていた女性だったと思います」
「あー、なるほどね。そうすると三ヶ月前だね。伝染病を食い止めた聖女は君だね」
「伝染病、ですか?」
「うん。隣国で猛威を振るったんだけど、この国では患者が少なくておかしいと言われていたんだ。一般的な力の聖女だと治せなくてね。他にも同じような症状の人を治したでしょ?」
「そう、です、ね。意識していなかったので分かりませんが」
「報酬は受け取った?」
「ほうしゅう、ですか?」
「お金」
「いえ。療養所は無料なのでは?」
「一部の人はそうだけど、ちゃんと支払われているよ?君はそこの不正には関わっていなさそうだね」
「食べ物が報酬なのだと思っていました」
「なるほど。ああ、あと、これは推測なんだけど、君はもしかして記憶がないんじゃない?」
「そうなんです。気づいたら貧民街と呼ばれるところで、食べ物を奪い合っていました」
「話し方がね。あと、聖女の力を持つ平民は少なくて、そもそも全員僕の知り合いでね。つまり君は貴族のお嬢さんだという可能性が高い。でも君は自分を平民だと思っているようだし、年齢も分からないようだから記憶がないんじゃないかと思ってね。それに聖女の力は幼少期に蛇神様のご加護を受けないと発現しない力なんだ。加護を受けられる人は珍しいから、記録がしっかりと残っているんだよ。ただ、もう一つ考えられるのは、何かのご縁で直接蛇神様からご加護を受けられた場合。そちらも問い合わせたら分かることだけれど少し時間がかかる。もっと時間がかかるのが貴族の方の照会でね。人数が多いから仕方ないんだけど。でもまあ、記憶がないと言うのなら記憶を回復する治療を受けてみる?」
「そう、です、ね。戻ったからといって、良いのか悪いのか分かりませんが、何か分かるかもしれないのなら治療を受けてみたいです」
「おや、前向きだね。すごく嫌な事を思い出すとしてもかい?人が記憶を失う理由には、辛いことがあって自らを守るために記憶を封印するということもあるよ?」
「そうですね。まあ、でも今の自分だったら受け止められる気がします。お願いします。自分が何者か知りたいです」
「分かった。では手配しよう。今日はこれから案内する部屋で休むといい。鍵をしっかりとかけて、明日僕が行くまで決して扉を開けてはいけないよ?トイレもちゃんと部屋の中にあるからね」
「分かりました」
「はい。これ君の荷物。では部屋へ案内するよ」
「お願いします」
そうして案内されたのは、今までの部屋は何だったのかと思うほど綺麗な部屋だった。
「こんなに良いお部屋を使わせてもらって良いのですか?」
「聖女は皆こういう部屋で過ごしているんだよ。しっかり休まないと力が減るからね。今まで君がいたのは今は使われなくなった倉庫だ。ちょうど不要になったベッドを置いていたらしい」
「倉庫……」
やはり『部屋』ではなかった。
「では、明日僕が迎えにくるまでは絶対に鍵を開けてはいけないよ?君が内側から開けない限り開かないように魔法を外からかけておくからね」
「分かり、ました。あの、一体何が起こると言うのですか?」
「念のため、だよ?」
扉が閉まり、ガチャリと音がして、外は静かになった。
不安でいっぱいになったアイナは窓の方を見た。心配になって確認すると鍵はかかっていた。大きな窓からは庭が見える。なんだか懐かしいような景色。記憶が戻れば、この感情が何からくるのか分かるようになるのかもしれない。
暖房器具もあり、広いのに寒くない。アイナは部屋の中にある扉を開けた。綺麗なトイレ、浴室、鏡が付いた洗面台。今まで過ごしていた部屋にはどれもなかった。なぜか使い方が分かるそれらの設備を使って、心身を整えた。湯船に浸かるのはいつ以来だろう。
ふかふかのベッドに横たわると、今までの疲れがドッと出たのか、まだ外は明るいというのに眠ってしまった。変な時間から眠ったせいかスッキリした気持ちで目が覚めたのに外はまだ暗い。
それにしても体が痛くない。以前のベッドでは体が充分休まっていなかったのかもしれない。いつ呼び出されるか分からない緊張感もあったとは思う。
なぜあの状況に感謝して暮らしていたのか。いや、当然だ。その前が凄惨だったから。でももう知ってしまった。ずっとカレン様たち三人はこの生活だったのだ。アイナがあんな生活で喜ぶ様を見て笑っていたに違いない。親切などではなかったのだ。
トントン。
アイナが悲しい気持ちでいっぱいだったその時、扉をノックする音が聞こえた。
「また、お願いできるかしら?今日はこちらのお部屋なんでしょう?」
カレンの声だ。彼女は拘束されたのではないのか。怖い。なぜこの部屋を知っているのか。アイナは布団の中で震えた。
トントン。
「アイナ?いるんでしょう?治療をお願いしたいの。お願い、起きて?あなたが転んだからこんな大事になったんでしょう?みんな困ってるのよ?」
「こら!そこで何をしている!」
職員の怒声が聞こえた。
「こいつを連れて行け!アイナさん、もう大丈夫です。扉を開けてもらえますか?ご無事かどうか確認したいのですが」
「施設長が来るまで開けるなと言われています」
「大丈夫、開けてください。施設長の代理の者です」
「では合言葉をお願いします」
「ちっ。周到な。くそっ。開かない」
扉がガタガタ、ガチャガチャと音を立てる。
「めんどくせーなー!開けろよ!」
ドンドン!ドンドン!
バタバタバタバタ、ドタン!
「いてっ」
外では何が起きているのだろう。見てみたい気もしたが扉を開けるわけにはいかない。扉の外が静かになったのでアイナは布団に包まった。
トントン。
次は窓を叩く音がした。
「もう!なんなの?」
アイナは見に行くのをやめた。カーテンを開いて誰かがいたら恐ろしい。丈夫そうな窓だったからきっと大丈夫。でも見に行ったほうがいいかもしれない。
逡巡しているうちに窓をノックする音は止んだ。ホッとする。体から力が抜ける。すぐには眠ることができず、恐怖で涙が溢れた。そのまま泣き疲れたのか、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。眩しくて目が覚めた。朝日を浴びるのもいつ以来だろう。
洗面で顔を洗い、腫れてしまった目を鏡で見ながら聖女の力で治した。用意されていた服に着替えて大人しく待っていると、扉をノックする音が聞こえた。
「おはよう。僕だよ。よく眠れた?」
「おはようございます。合言葉をお願いします」
「そんなの決めてないよね。ああ、なるほど、そうやって昨夜は見破ったんだね。大変だったね。警備が行き届かず、すまなかった。おかげで君への疑いは晴れたから安心して」
アイナは扉を開けた。そう。合言葉など無い、それが合言葉だった。
「扉をノックした人は本当にカレン様だったのでしょうか?私が転んだせいで皆さん困ってると」
「ああ。カレンはそんな風に言ったのか。本当に困っているのはカレンたち三人だけだよ」
「あの、拘束されていたのではなかったのですか?」
「協力者がいたんだ。警備員の男が一人。その男が黒幕だったようだよ。この扉の前で暴れていた所を拘束した。彼は今警察署にいるから安心してほしい」
「あの、カレン様たちはご無事なのですか?」
「まずは朝食を食べよう。入室してもかまわない?」
「はい。もちろんです」
施設長が指を鳴らすと食事がテーブルに現れた。
「僕が得意なのは空間魔法なんだ」
と言ってニコッと笑った。
「遠慮なくいただきます」
二人は食事を始めた。
昨夜の出来事を一つずつ説明しながら、アイナは思い出した。
「そう言えば、窓もノックされたのです」
「窓も?見てみよう」
施設長はそう言って大きな窓へと歩いて行った。
「この窓?」
「はい。そうです」
施設長が窓を開けると、窓の外には一匹の白い蛇がいた。白い蛇はシュルシュルと部屋の中に入り、暖房器具に近付いた。施設長は自分の空間収納庫から毛布を取り出し、白蛇にかけてあげた。
「今のうちに食事を済ませてしまおう!」
施設長に言われて、彼のペースに合わせて急いで食事を済ませた。早食いは凄惨な暮らしを思い出させる。横から奪われたこともあった。
「ひどいよ。中に入れてくれないなんて」
部屋の中に子どもが一人。
「え?」
アイナは驚いて子どもを見た。
「ごめんよ。変な奴がいたから、とばっちりだね」
施設長は平然と答えている。
「はい。蛇神様からのお手紙。ここって施設長のお部屋だよね?」
「残念。僕のはもう一つ上だ」
「そういうこと?ボクまた間違えたの?何か目印を置いておいてくれたら間違わないのに」
拗ねたような口で文句を言っている。
「ごめんね。今度は何か置いてから手紙を書くね」
「それなら安心だ。ではご褒美をくれ」
「はいはい。これが蛇神様へのお礼のお酒。で、これがご褒美のお菓子。どうぞお納めください」
「はい。確かに。ではねー」
子どもはシュルシュルと蛇に戻り、窓から出て行った。施設長は手紙を読み始めた。頷きながら読んでいる。アイナは開かれていた窓を閉めた。
「君がなぜ聖女の力を使えるのか分かるかもしれないよ」
「え?」
「やっぱり記憶を取り戻すのが一番良いと思う。治療師は午後になったらここに来てくれるから、その前に、これまでの事とこれからの事を話そう」
「分かりました。今日は治療はどうしましょう?」
「申し訳ないが君はこの療養所に登録がある聖女ではないから、治療を任せるわけにはいかないんだ。野良聖女であることには違いないからね。それと、君がこれまでに治療した人はざっと千人。一人一人適切に治療されていたか調査が必要になってね。関係各所を巻き込んで大規模な調査が始まったんだ。前代未聞の事件だからね。君には僕の取り調べを受けてもらうことになった」
「そうでしたか。私が転んだばっかりにこんな大事に……」
「いやいやいや、君は犯罪の被害者だよ。少なくとも僕はそう考えている。まあ、まだ証拠が揃っていないけれどね。軟禁、給与不払い、過酷労働の強要。言葉にすると実感が湧くかな?」
「正直なところ、ここに来る前の生活が凄惨過ぎて、充分幸せだったのです」
「うんうん。きっと記憶が戻ったら変わると思うよ」
「そうでしょうか?」
「まあ、変わっても変わらなくても君がここまで生き抜いたことに変わりはないし、聖女の力を持っていることにも変わりはない。蛇神様からのお手紙によると、君くらいの年齢の女の子に加護を与えた覚えはあるそうだ。ただ、名前は覚えていない、会えば分かるとのことだった。君の記憶が戻れば全てが分かると思うよ。そうだ、言い忘れていたけど、治療の時には治療師に君の過去を見られてしまうけど、良い?もちろん守秘義務は守られるよ」
「分かりました。治療の過程というのなら仕方ありません。でも、自分が何者か、知りたいような、恐ろしいような……」
「ずっとモヤモヤしているよりも良いと思うよ。今すぐに今後どうするのか決めるのは難しいとは思うけど、今のところどんな選択肢があるのかを一応伝えるね」
「はい。よろしくお願いします」
「一つ目、このままここで働く、もちろん登録をしてもらう必要がある。二つ目は、ここではない場所で働く。場所を変えて心機一転というところだね。君がどこの誰なのか分かったらその領地に行くのも良いと思うよ。ここは王都の療養所だからね。三つ目は、もしそうだったら、の話だけど直接加護を頂いた稀有な存在だった場合、最近できた蛇神様の療養所で働くこともできる。あと、できれば最後のは選ばないでほしいけど、聖女の力をお返しする、というのもある。じゃあ、僕は準備をしてくるから、しばらく一人で考えてみて」
施設長はそう言うと、お茶のセットを残して他は全て収納した。美味しそうなお菓子。淹れたての紅茶。なんだか懐かしい。施設長を見送って、アイナはお茶を楽しむことにした。
お茶をどう楽しむのか、体は覚えている。本当に自分は貴族家の出身なのかもしれない。だとしても、一度貧民街で生きた自分が貴族社会に戻るのは難しいだろうと思う。
困っている人や、辛い思いをした人に寄り添いたい。怪我をした人を治したり、幸せに暮らせるお手伝いがしたい。自分が寝床や食べ物を奪った後の罪悪感、生きるためだと言い訳して閉じ込めた嫌悪感。人に尽くすことで償っていきたい。多分これが自分の本音。可能な限り聖女として生きていこう、とアイナは心に決めた。
扉がノックされて、施設長が迎えに来てくれた。移動しながら施設長が嬉しそうに言った。
「なんだか、スッキリしたような顔をしているね」
「そうですか?自分では分かりませんが、聖女として皆様に尽くしたい、と心を決めたからかもしれません。もちろん受け入れていただけたら、ですが」
「君ほどの力を持った聖女は稀有だから、どこに行っても歓迎されるよ」
「そうでしょうか」
「さあ、どうぞ」
施設長が談話室の扉を開けた。
「失礼します」
部屋で待っていたのは施設長くらいの年配の女性と、白い装束の子どもだった。
「蛇神様、いらっしゃるのでしたら諸々ご用意いたしましたものを」
「よい。気にするな。わしの加護を受けた者に会いたくてな。聞けば、記憶を失っているそうじゃな。わしの加護と術式が絡まっておると解除が難しいでの。わしも手伝ってやろうと思ったのじゃ」
「蛇神様にお手伝いいただけるのなら、それに越した事はございません。心強い限りで御座います」
年配の女性は蛇神様にお辞儀をした。
「蛇神様、コトブキ様、こちらがアイナです。どうぞよろしくお願いします」
施設長が頭を下げたので、慌ててアイナもお辞儀をした。
「ああ、蛇神様のご心配通り絡まっていますね」
「そうじゃろう?だいたいそういうものじゃ」
「不思議なものですね」
二人はうんうんと頷いてアイナを見ている。
「どうでしょうか?」
心配そうな施設長。
「問題ない。確かに呪われてはおるが解呪は簡単じゃ。しかし強い念じゃのう。勝手な男じゃ」
「若いんでしょうね。良く言えば情熱的、悪く言えば自分勝手。とんだ苦労を背負わされましたね」
「早速の解呪をお願いいたします」
「うむ。眠くなったら抗わず眠るがいい」
「はい。よろしくお願いします」
アイナは危ないからとソファに横になった。目を閉じる。
「天と地の狭間、時の此方と彼方、魂の器、器に宿りしもの、排除すべき魂の異質、流れるべき記憶の大河。堰き止める呪を放ち、その呪を主に還せ。そは彼の者のもの。還るべきは彼の者の下。唵!」
アイナは波に揺蕩う小舟になったように感じた。自分を縛っていた何かから解放されて自由になる。閉じていた記憶の扉が開き、情報の洪水がアイナを飲み込んだ。アイナはそのまま眠ってしまった。
「これで良し。今は負荷を軽減するために眠っておる。落ち着いたら目覚めるじゃろう。布団をかけてやるといい」
施設長が空間収納庫から布を出してアイナにかけた。
「記憶を失った一因はわしにもあったようじゃ」
「蛇神様がですか?」
「うむ。わしが脱皮をしていた時にハンターに襲われてな、知っとるか?わしの皮は狙われておるんじゃ。薬に使うとか言っとったな。脱皮した皮で良いのに本体を狙われての。矢で打たれてしもうた。その森にたまたまおったのがあの娘でな?何か長い名前じゃったと思うが覚えておらん。誘拐されて森に捨てられたのじゃ。恨みによる犯行じゃ。可哀想にの。素質があったんで加護を与えたんじゃ。こればっかりは素質がないとどうにもならんからの。わしが加護を与えるのもこれで最後か、とも思ったんじゃ。酷い傷での。いくら加護を与えてもわしの傷を治すには足りぬと諦めていた。ところがこの者は一気に才能を開花させてな、あっという間にわしを治してしもうた。まあ、負荷が大きかったのか熱を出してしまってな。ギルドに預けたんじゃ。ついでに例のハンターへの苦情も言っといたわ。脱皮したら提供するからもう買い取らんように、とな。その収益でその子を育てるように言っといたんじゃが、何があってこんなことになったんじゃろうな。無事再会できてホッとしたわ。ほんじゃ、わしは帰る。またな」
蛇神様は話し終えると森に帰って行った。
「コトブキ様、ギルドと言うと例の不正があったあの?」
「はい。蛇神様の皮の件の。アイナさんの話を聞いてみないと分かりませんが、間違い無いでしょう。その流れで記憶を失うように呪いをかけられて貧民街に捨てられたのではないでしょうか」
「うーん。カレンとはどう知り合ったんだろう?」
「そうですねぇ。聖女は貧民街には行きませんものね」
「目覚めるまで待つしかないね」
「ええ」
二人はお茶をして待つことにした。
「記憶を失っていた時の記憶は残るものなの?」
「様々ですが、アイナさんの場合は残ると思われます」
「貧民街での諸々、耐えられるかな?」
「そうですねぇ、彼女は聖女ですから邪な者は浄化しますし、何を食べても危険はありません。垣間見えた記憶の中では特に酷い目には遭っていないようでしたから大丈夫だとは思います。あとはご本人がどこまでご自分を許容できるか、ですが」
「そうかぁ。本人次第ではあるね」
「それよりも気になったのがギルドです。彼女に呪をかけた犯人は男です。色恋絡みですね。この療養所で警備員をしていたようですよ?記憶の中に同じ顔がありました。アイナさんは気づいていませんでしたけど」
「変なのに好かれたのか……」
「ええ。聖女にはよくあります。博愛が自分にだけ向けられていると思ってしまうんでしょうね」
「ふむ。どこのお嬢さんなのか分かった?」
「諸々の情報を加味すると、アイナレヒト辺境伯ですね」
「よりによって……そこか……ん?アイナってもしかして名前ではない?」
「一族の名前、ですね」
「どうりで見つからないはずだ。そう言えば誘拐事件があったね。侍女が嫉妬してその家の娘さんを連れ去ったと言う」
「ええ。自分の娘との待遇の違いに我慢できなくなったと言って連れ去ったあの事件です。愛人なんじゃないか、と噂が出ましたけど、完全に逆恨みだったと言うあの理不尽な事件です。確かどこに放置したか言わずに獄中死したと思います」
「なるほどね」
施設長はアイナの頭を撫でた。
「おと……さ…ま……」
眠っているアイナの目から涙が零れた。
「辛かったねぇ。これからは幸せしかないよ。きっと」
施設長が何度か頭を撫でていると、アイナは目覚めた。
「気分はどう?」
「なんだかぼんやりします」
「では、ゆっくりと起き上がってください」
コトブキが起き上がるのを手伝う。
「白湯をどうぞ」
両手でカップを受け取ったアイナはゆっくりと白湯を飲み干した。その間、施設長とコトブキは何も言わないで待っていた。
「お名前と年齢は分かりますか?」
「はい。アイナレヒト辺境伯の娘、エミリア・アイナレヒトです。多分十七歳です」
「アイナは一族の名だったようだね」
「そのようですね。ギルドにお世話になり始めた頃にはすでに自分はアイナだと思っていました」
「蛇神様にいただいた力がかなり大きかったんだろうね。一気に能力が開花して発熱もしたそうだよ。その時に記憶が曖昧になったんだろうねぇ。あと、ギルドで変な男に言い寄られたりした?」
「はい。蛇神様にギルドで育てるように言っていただいたそうで、そこで受付として働かせてもらっていたのですが、そこで目をつけられたようで」
「交際を断られた逆恨みで呪をかけられて、貧民街へ……そのう、大丈夫?」
「アイナさん、いえ、エミリアさん、あなたは聖女として恥じるような行いはしていません。ご安心ください。あなたが奪って食べた物は、傷んでいて聖女であるあなただから大丈夫だった食べ物です。あなたが奪った寝床はあなただったから凍えずに生き延びた寝床です」
「お気遣いありがとうございます。今すぐには受け入れられませんが、あなたがそう言ってくださったこと、大切に心にしまっておきます」
その時扉が突然開いた。
「アイナ!一度ならず二度までも俺を裏切りやがって!」
刃物を持った男が襲いかかってきた。エミリアは素早く刃物を躱しながら男に近づいて行き、右頬を抉るように拳を繰り出した。
一撃で意識を失った男。エミリアは刃物を持ち上げて消滅させた。
「あらやだ、体が勝手に」
「さすが辺境伯のお嬢さん、ということでいいのだろうか?」
「そう、ですね。確かに護身術を習ってはいたようです」
コトブキは目を瞬かせた。
「まだ協力者が療養所内にいるようだなぁ」
施設長は療養所から誰も出られないように空間魔法を使った。
「施設長!不審者が!」
職員が部屋へ飛び込んできた。
「そこに寝てる彼ね。拘束しておいて。今療養所を閉じたから、不審な動きをした人を集めて、いや、職員を全員集めよう」
「承知しました」
「どちらの名前で生きていくかすぐには決めなくてもいいよ。アイナもエミリアもどちらも君の名だ。取り急ぎどちらの名で呼ばれたい?」
「アイナでお願いします。聖女としての私はずっとアイナでしたから」
「分かった。こんな時に何なんだけど、いや、こんな時だからと言うべきか。実は君ほどの力がある聖女には初めて会ったから、試してみたいことがあるんだけど、お付き合い願える?」
「私でよろしければ。何をしたら良いのでしょうか」
「まずは一緒に来てくれる?コトブキ様にもお手伝いをお願いしたい」
「分かりました」
施設長、コトブキ、アイナの三人は職員が集められた部屋に入った。施設長は小声でアイナに話しかけた。
「では、聖女アイナ、僕からの依頼だ。ここにいる人たちを嘘をつけないようにしてほしい。ずっとだと困るから十分くらいが良いかな」
「分かりました。十分間嘘をつけないように、ですね。承りました」
魔法は想像力だ。アイナは目を閉じてゆっくりと職員全員に行き渡るように魔力を流し始めた。頃合いを見て施設長が話し始める。
「この療養所で使途不明金の問題に関わっている人は前へ出てくれる?治療費のかさ増し、給与の不払い、職場放棄、これに関連することを知っている人も前へ出て」
五名の男性が前へ歩み出て泣いていた。コトブキが念のため前に進み出なかった職員の記憶を覗いて、関係者がいるかどうか確認をした。彼女は施設長の方を向いて首を横に振った。
「残りの方々は申し訳なかった。職場に戻ってほしい。実は、治療費や実績を水増しして不当に利益を得た者がいたのでその調査だ。この五人は「知っている」というだけの五人なので誤解の無いよう頼むね。では解散!ご協力感謝する!」
「では別室へ行こうか。アイナはまだ魔力を流せる?」
「大丈夫です。不思議なことに以前より楽に魔力が使えています」
施設長直属の職員が疑惑の五人を連れて行った。
結論から言うと、五人のうち三人は情報提供者だった。誰かは分からないが良からぬ噂を聞いた、誘われたが断った、怪しい動きをしているカレンを見た。
残りの二人は真っ黒だった。経理と受付を担当していた二人。飲み屋で「美味しい話」だと、アイナの拳をもらった彼、ハンスに持ちかけられたと供述した。
アイナに交際を断られたハンスはアイナを自分のものにしようと貧民街に連れ出した。犯罪の温床になっている街で、ちょうど良いと思ったのだそう。結局失敗して、もしものために持っていた呪を使ってアイナの記憶を消した。これは飲み屋で知り合ったデボラに作ってもらったのだそうだ。
時々デボラがアイナにくれたお菓子にも呪が込められていて、記憶が戻るのを防いでいたのだそう。デボラの家はカレンの家に借金があり、その縁でいいように使われて鬱憤が溜まっていた。その立場を逆転させるきっかけがアイナだった。
デボラはハンスを自分に引き付けておくためにお金を必要としていた。邪な感情が増えるにつれ聖女としての力を失い始めたデボラはハンスから話を聞いて、アイナを使って儲けることを思いついた。
アイナに執心していたハンスを警備員として療養所に入り込ませ、その見返りに、ハンスが蛇神様の皮の横流しで儲けた金を分けてもらったデボラ。貧民街で見つけたアイナを軟禁。治療はアイナにさせて実績はデボラのものにしようと準備していた。羽振のいいデボラにたかろうとしたカレンとベルタも仲間に誘い込んだ。
さらに、デボラとハンスは言葉巧みに職員二人を勧誘。聖女三人と職員の二人、そしてデボラが惚れたハンスの六人で、聖女アイナが生み出す甘い汁を吸っていたのだそう。裁判で有罪となった六人はそれぞれ別の場所で労役に就いた。
アイナが貧民街から救われてから三年の月日が流れた。
「それでは開廷します」
アイナは裁判所にいた。聖女の力を使って捜査の手伝いをしている。コトブキも協力者の一人だ。
もちろんアイナだけで犯人を決めるわけではない。証拠を積み上げ、自白を促す手法に変わりはない。それに嘘を言えなくする聖女の力はギリギリまで使わない。
被害者の身体的、精神的な治療は勿論、再犯の抑制や二次的被害者の救済など、アイナの活躍は多岐にわたる。
裁判関連の仕事がない日は故郷のアイナレヒト辺境伯領に両親を訪ねる。一人娘のエミリアが理不尽な理由で誘拐された後、心に大きな傷を負った両親は弟夫婦に辺境伯の地位を譲り、自給自足の隠遁生活をしていた。
約五年振りの再会。両親は温かく聖女アイナを迎え入れてくれた。アイナによる治療の甲斐もあり、元気になった両親は他の人も治療したい、と私財を投げ打って宿泊型の療養施設を作った。
医療や聖女関連事業、蛇神様のお社建設や奉納行事、ギルドへの援助など、アイナが関わったもの全てに恩返しをすると張り切って、今はイキイキとしている。
アイナは施設長に転移魔法を教えてもらったので、王都、両親の家、蛇神様のお社などなど、様々な場所を飛び回って充実した忙しい毎日を送っている。
完