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短編集『成長』

虚構に燃えろ

作者: 佐伯 修二郎

 短編小説第二弾です。変わらず成長の大切さや本当の強さとは何かを考えながら、心を込めて書きました。

 この物語が、誰かの心に少しでも響いてくれたら嬉しいです。

 





 ――第1話『勝てない相手』――




 リングの上では、すべてがシンプルだった。殴るか、殴られるか。それだけの世界。しかし、そのシンプルな世界で、俺は一度たりともお前に勝てなかった。



 ***



 高校に入学した春、俺――相沢あいざわ直人なおとは、ボクシング部の門を叩いた。


 ボクシングを始めた理由は、強くなりたかったから。それだけだった。中学時代は何をやっても中途半端で、特に自信を持てるものもなかった。けれど、ボクシングならば努力次第で強くなれると聞いた。殴って、避けて、また殴る。ただそれだけの競技なら、俺にも向いているかもしれない。


 だが、俺の前には最初から絶対に勝てない相手がいた。


「お前、結構センスあるな。でも、俺には勝てねぇよ」


 そう言って笑ったのは、永山ながやまれんだった。俺と同じ一年生だったが、すでに中学時代からボクシング経験があり、その実力は群を抜いていた。パンチのキレ、フットワーク、距離の取り方、すべてが俺より上。最初のスパーリングで手も足も出ずに倒された俺は、心底思い知らされた。


 こいつには勝てないと思った。


 だが、不思議と悔しさよりも興奮の方が勝っていた。こんなにも強い相手が目の前にいるのなら、そいつを超えることを俺の目標にすればいい。


 それからの俺は、ただひたすら蓮を追いかけた。


 俺と蓮は互いに切磋琢磨し、毎日のようにスパーリングを重ねた。だが、いくら練習しても、俺は一度も蓮に勝てなかった。それでも諦めず、いつか倒してやると拳を握りしめる日々。


 そんな俺たちを見守る存在がいた。


「はい、二人とも! 今日の差し入れ!」


 笑顔でスポーツドリンクやおにぎりを差し入れてくれたのは、蓮の妹――永山ながやま美咲みさきだった。


 俺と同い年だが、蓮とは二卵性双生児の双子だった。兄と違っておっとりとした雰囲気で、いつも俺たちを応援してくれていた。


「美咲、お前いちいち部活に来なくていいから」


「いいじゃん、お兄ちゃんがボクシングしてるの見るの好きだし。それに、直人くんのボクシングも好きだし」


「……っ!」


 美咲にそう言われると、俺は心臓が跳ね上がるのを感じていた。

 美咲に惹かれていることに気づいたのは、いつからだっただろうか。


「おい、直人」


 蓮が俺の肩を軽く叩き、ニヤリと笑う。


「妹はやらねぇぞ」


「なっ…! べ、別にそんなつもりじゃ――!」


「はは、冗談だよ。まぁ、俺に勝ったらくれてやってもいいけどな!」


 そう言った蓮は笑っていたが、俺は耳まで赤くなりながら視線を逸らした。


「もうお兄ちゃん! 人を物のように言わないでよね!」



 ***



 そして時は流れ、高校最後のインターハイ。


 決勝戦で俺は、ついに蓮と対峙した。

 三年間、俺がずっと追いかけ続けた相手。勝ちたい、勝たなければならない相手。


「来いよ、直人。今日は本気で倒しにいくからな」


 蓮は拳を構えながら、楽しそうに言った。


「……俺だって、今日は負けるつもりはねぇよ」


 ゴングが鳴る。


 美咲が見守る中、激闘の末、俺はまたしても蓮に敗れた。結局、俺は三年間、一度も蓮に勝つことができなかった。


 試合後、蓮は俺の肩を叩き、満足そうに笑った。


「最高だったぜ、直人」


 俺は何も言えなかった。ただ、悔しさと虚しさだけが胸に残った。


 美咲は泣いていた。


 俺が負けたことに対してではなく、蓮の勝利を喜んでいる涙だったのかもしれない。


 俺は拳を握りしめ、天井を見上げた。


 俺は、こいつに勝てる日が来るんだろうか……


 この時の俺は、まさかこの先、ボクシングを辞める日が来るとは思っていなかった。




 ――第2話『別々の道』――




 蓮に敗れた高校最後のインターハイが終わり、俺たちはそれぞれの道を進むことになった。


 とはいえ、すぐに別れが訪れたわけではない。俺も蓮も、同じジムに入門し、プロボクサーとしての道を歩み始めた。


「直人、お前スーパーバンタム級でいくんだな」


「お前こそ、バンタム級で減量は大丈夫なのか?」


「へへ、俺ならすぐ世界に行くさ」


 蓮はいつものように自信満々だった。俺は苦笑しながらも、その言葉に違和感はなかった。何せ、高校時代からずっと勝てなかった相手だ。俺を置いて、あっという間に世界に行ってしまうんじゃないかという予感すらあった。



 ***



 プロテストに合格した俺たちは、それぞれの階級でデビュー戦を迎えた。


 蓮は初戦から圧倒的な強さを見せつけた。対戦相手を序盤から追い詰め、2ラウンドKO勝利。その後も連勝を重ね、日本ランカーになるまで時間はかからなかった。


 一方の俺はというと、勝っては負けてを繰り返し、なかなか結果を残せずにいた。


「相沢、また負けたのかよ」


 ジムの先輩から言われるたび、拳を握りしめた。


 やっぱり俺にはセンスがないのか……


 そんなことは高校時代から分かっていた。努力だけではどうにもならない壁があることも。それでも諦めたくなかった。いつか蓮に勝つために、ここまで続けてきたのだから。


 それでも、現実は残酷だった。


 蓮が日本チャンピオンになった頃、俺はやっと日本ランキング14位に入ることができた。焦燥感だけが募り、次第に「本当にこのままでいいのか」という疑念が生まれ始めていた。



 ***



「ボクシング、辞めようと思うんだ」


 ある日、俺は蓮にそう告げた。


「……マジかよ」


 蓮は驚いた顔をしていたが、それ以上に寂しそうだった。


「もう潮時だと思う。これ以上やっても、お前に追いつける気がしない」


「追いつけるかどうかじゃねぇだろ。お前、ボクシング好きなんじゃねぇのか?」


「好きだからこそ、もう無理だと思ったんだよ」


 俺の言葉に、蓮は何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。そして、代わりにこう言った。


「……じゃあ、せめて最後に俺とスパーリングしようぜ」


 俺は苦笑した。


「お前とはもう何百回とやってきたんだ。どうせ勝てない」


「勝ち負けじゃねぇよ。お前の最後のボクシング、俺が見届けてやる」


 それが、俺と蓮の最後のスパーリングになった。



 ***



 俺がボクシングを辞めて普通の仕事に就いた頃、蓮はついに世界に挑むことになった。


「次の世界戦、メキシコでやるんだ」


 久しぶりにジムに顔を出した俺に、蓮はそう言った。


「いよいよ世界か……お前なら勝てる」


「当たり前だ。全勝で世界戦に挑むんだ、ここで負けるわけねぇ」


 そう言って、蓮は自信に満ちた笑顔を見せた。その姿に、俺はかつての自分の夢を重ねてしまい、少しだけ胸が痛くなった。


 そんな俺に、蓮は言った。


 ――待ってるからな


 俺は聞こえていないフリをして、ジムを後にした。



 ***



 そして世界戦当日、俺はテレビの前で試合を見守っていた。


 リングには蓮の姿、そして客席には美咲の姿もあった。彼女は兄の夢を応援するために、わざわざメキシコまで駆けつけたのだろう。


 試合が始まった。


 序盤は蓮が優位に試合を運ぶが、チャンピオンは地元の選手だった。レフェリーはチャンピオンの反則を見逃し、後頭部へのパンチや足踏みすらも容認された。


 なんで……こんなの試合じゃねぇ……!


 それでも蓮は諦めていなかったのか、最後まで食らいついていた。だが、9回にスリップにしか見えないダウンを取られ、結果は判定負け。


 悔しかった。


 俺なんかより遥かに強い蓮が負けるなんて、そして何より、親友がこんな酷い仕打ちを受けたことに苛立ちを覚えた。



 ***



 そして翌日、メキシコにいる美咲から国際電話がかかってきた。

 そこで、思いもよらない知らせを受けることになった。


『……直人くん、お兄ちゃんが……』


「……え?」


『交通事故に遭って、亡くなったの……』


 頭が真っ白になった。


「……嘘だろ」


『本当なの……ホテルに戻る途中で……』


 試合に負けた夜、蓮は一人でタクシーに乗り、ホテルへ帰る途中、事故に巻き込まれたのだという。


 俺は電話を握りしめ、ただ呆然と立ち尽くした。



 ***



 数日後、蓮の葬儀が行われた。


 美咲は憔悴しきっていた。俺も、何をどう言えばいいのか分からなかった。ただ、棺の中の蓮を見つめ、これが現実なのかと信じられない気持ちでいっぱいだった。


 葬儀が終わり、帰ろうとしたとき、美咲が俺の袖を掴んだ。


「直人くん……お兄ちゃんね、亡くなる直前に……最後の言葉、残してたの」


「……最後の言葉?」


「『直人、後は頼んだぜ』って……」


 俺は目を見開いた。


「……俺に?」


 美咲は涙をこぼしながら頷いた。


「お兄ちゃん、私を直人くんと勘違いしたみたいで。きっと直人くんに、何かを託したかったんだと思う……」


 俺は何も言えずに家に帰った。暗い部屋の中で、ただ拳を握りしめることしかできなかった。




 ――第3話『復帰』――




 蓮の死から一週間が過ぎた。


 俺は仕事を辞めた。理由は聞かれなかった。何も言わなくても、職場の人間は察してくれたのかもしれない。


 そして気づけば、俺は再びジムへと足を運んでいた。


 俺はもう一度リングに戻る。蓮のために。美咲のために。そして、俺自身のために。


 そして、俺は再びジムの扉を叩いた。


「……直人、なんでここに?」


 ジムの会長が驚いた顔で俺を見た。


「もう一度、やらせてください」


 そう言うと、会長は少しの間、俺を見つめた。そして静かにため息をついた。


「……理由を聞いてもいいか?」


「……アイツのためです」


「蓮の……?」


「はい」


 それ以上、会長は何も聞かなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。


「やるからには、覚悟しろよ。お前がいた頃より、練習はずっとキツくなってる」


「覚悟はできてます」


 それが、俺の再スタートだった。



 ***



 俺は以前のスーパーバンダム級ではなく、蓮と同じバンダム級で復帰した。


 復帰してからの練習は、以前よりもはるかに過酷だった。


「直人、もう少しペース落とせ!」


「休め! オーバーワークだ!」


 ジムのトレーナーや会長は、何度も俺を止めようとした。


 それでも、俺は手を緩めなかった。


 朝から晩までボクシング漬けの日々。死ぬ気でやった。蓮が生きていたら、きっと笑って「お前、無茶しすぎだろ」と言っていただろう。


 だけど、それでよかった。


 もう無駄にする時間はない。蓮が目指した世界の頂に、俺は立つ。


 それだけが、俺の生きる理由になっていた。


 そんな俺を、一人の女性がずっと心配そうに見つめていた。


「……直人くん、無理しすぎだよ」


 美咲だった。


 彼女はほぼ毎日のようにジムに顔を出し、俺の様子を見ていた。


「無理しないと、届かないんだよ」


 俺はそう言った。


「でも……」


「蓮のためだ」


 その言葉を聞いて、美咲は何かを言いかけたが、結局、何も言わずに俯いた。



 ***



 復帰戦の日が来た。


 俺にとって、プロとしての第二のデビュー戦。


 相手は無敗のホープだった。だが、そんなことは関係ない。


 ゴングが鳴った瞬間、俺はただ前に出た。


 蓮が背中を押してくれるような気がした。


 そして――


「……10! カウントアウトォォ!!」


 3ラウンドKO勝利。


 試合後、俺はリングの上で天井を見上げた。


「……見てたか、蓮」


 その時、ほんの一瞬だけ、蓮の笑う姿が見えたような気がした。



 ***



 それから俺は連戦連勝を重ね、ついに世界ランキングに名を連ねた。


 そして復帰から三年が経ち、いよいよ俺は、世界タイトルの挑戦権を得た。


 しかも、相手は蓮が戦った相手、あの反則まみれのチャンピオンだった。


 試合はメキシコ。会場も、蓮が戦ったのと同じ場所だった。


「三年前の日本人のように、お前を血祭りにしてやる」


 チャンピオンは記者会見でそう言った。


 それを翻訳された俺は、思わず立ち上がり、相手に殴りかかろうとした。


「てめぇ……!」


 だが、周囲に止められた。


 会場を後にする俺の背中に、美咲の視線を感じた。


「……直人くん、大丈夫?」


「……ああ」


 口ではそう言ったが、胸の奥では怒りが燃え続けていた。



 ***



 試合当日、俺は控え室で静かにグローブを見つめていた。


 その時、ふと、誰かが部屋に入ってきた。


 美咲だった。


「……直人くん」


「どうした?」


「……怖い?」


 俺は少しだけ沈黙した後、正直に答えた。


「怖いよ。あの反則まみれのチャンピオンに勝ちたい。でも……蓮と同じ結果になるんじゃないかって」


「……」


「俺も蓮みたいに、ここで負けるんじゃないかって……」


 そう言った時、トレーナーが俺を呼んだ。


「直人、そろそろだ」


「ああ、すぐ行く」


 俺は立ち上がり、控え室を出ようとした。その瞬間だった。


「……ごめんなさい!」


 美咲が突然、泣きながら叫んだ。


「お兄ちゃんが『後は頼んだ』って言ったって、あれ……嘘なの……」


 俺は驚いて振り返った。


「……嘘?」


「お兄ちゃん、即死だった……最後の言葉なんて、なかったの……!」


 美咲は涙を流しながら続けた。


「何度も謝ろうとしたけど、言えなかったの。でも、私はどうしても……直人くんに戦ってほしかった……もう一度リングに上がってほしかったの……だから……!」


 俺はしばらく何も言わなかった。


 そして、ふっと笑った。


「……わかってたよ」


「え……?」


「蓮がそんなこと言うはずない」


 俺は少しだけ遠い目をして言った。


「アイツは負けず嫌いだからな。誰かに託すなんて、絶対しない。それでも、その言葉を信じないと、俺は立ち上がることができなかったんだ……」


 美咲の瞳から、また涙が零れた。


「……本当にごめんなさい……」


 俺はその頭を軽く撫でた。


「ありがとな」


「……え?」


「お前が嘘をついてくれたおかげで、ここまでこれたんだ」


 美咲は驚いたように俺を見た。


「だから……後はやるだけだ」


 俺はそう言って、リングへと向かった。


「蓮、俺は託されてなんかない。でも、お前の仇は俺が討つ」




 ――最終話『決戦』――




 ゴングが鳴った。


 リングの中心で俺とチャンピオンが向き合う。会場は大歓声に包まれるが、俺の耳には何も聞こえなかった。ただ、自分の鼓動と、目の前の男の呼吸だけがはっきりと聞こえる。


 蓮が敗れたこの舞台で、俺は戦う。


 この拳で、全てを終わらせる。


 序盤はお互いに慎重な立ち上がりだった。チャンピオンは長いリーチを活かし、ジャブで距離を測ってくる。


 俺も焦らず、それをスウェーやブロッキングでかわしながら、少しずつ間合いを詰めていった。


 一発一発が重い。だが、蓮の戦いを見ていた俺にはわかる。


 こいつは、距離を潰せばそこまで怖くない。


 3ラウンド、俺は距離を詰め、ボディを叩き込んだ。


「……ッ!」


 チャンピオンが一瞬、顔を歪めた。そこからは俺のペースだった。


 試合が始まったときよりも、明らかにチャンピオンの動きは鈍い。

 俺のパンチが確実に効いている証拠だった。


 だが、6ラウンド目、流れが変わった。


 チャンピオンは蓮のときと同じように、露骨な反則を使い始めた。クリンチの際に足を踏む、後頭部へのパンチ、肘打ち。


「おいおい、またかよ……レフェリーしっかりしろよ!」


 セコンドの怒号も虚しく、レフェリーは見て見ぬふりをする。


 観客の中にいた日本人も異変に気づいたのか、ブーイングが起こり始めた。


 だが、俺は焦らなかった。


 蓮のときと同じ手は、もう通じねぇよ


 俺は冷静に相手の反則をかわしながら、確実にダメージを与えていった。


 ボディに左右のフックを打ち込み、アッパーで顔を跳ね上げる。


 チャンピオンの動きが徐々に鈍くなっていくのが分かった。


 いける――このままいけば勝てる。


 だが、9ラウンド目だった。


 チャンピオンが足を踏んできた瞬間、俺の動きが止まった。


 次の瞬間、強烈な右フックが俺の顔面を直撃した。


 視界が揺れる。


 リングに仰向けに倒れ、天井がぼやける。


 レフェリーのカウントが遠くで聞こえた。


 1……2……3……


 この光景を、俺は知っている。


 何度も蓮に打ちのめされ、目を覚ますと、いつも天井を見上げていた。


 またここで終わるのか――


 ――いやだ。


 それでも、俺の体には力が入らない。


 必死に体を動かそうとしていると、倒れた俺の横に、蓮の姿がふっと現れた。


「……おい、直人」


 蓮が俺に手を差し伸べた。


「俺は、お前に託すなんて言わねぇよ。でもさ――」


「俺はただ、お前にボクシングを続けてほしいだけなんだ――」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。


 ――こんなところで、負けてたまるかよ!


「……ッ!!」


 俺は体を起こし、膝をついた。


 レフェリーのカウントは8。


 立てる。まだ戦える。


 俺はロープを掴み、立ち上がった。


「ファイト!」


 再び試合が始まる。


 チャンピオンが畳み掛けようと襲いかかってくる。


 だが、蓮の思いを背負った俺は、もう以前の俺じゃない。


 相手がまた足を踏もうとするのが見えた。


 ――読めてるぜ!


 俺はその足をわずかにずらし、逆にチャンピオンの動きを崩した。


 一瞬、チャンピオンのバランスが乱れる。


 そこに、渾身の右ストレートを叩き込んだ。


 ズドォォン!!


 まるで雷が落ちたような音が響いた。


 チャンピオンの体が宙を舞い、背中からマットに叩きつけられた。


 観客が一瞬、静まり返る。


 次の瞬間、信じられないような大歓声が会場を包み込んだ。


 レフェリーがカウントを数える。


 1……2……3……


 チャンピオンはピクリとも動かない。


 6……7……8……


 起き上がる気配すらない。


 9……10!


 レフェリーが両手を大きく振り、試合終了を告げる。


「カウントアウトォォ!! 」


 俺はその場に膝をついた。


 やったんだ。俺は蓮の仇を討った。


 セコンドが駆け寄り、俺の肩を叩く。


 ベルトを腰に巻かれ、会場のスポットライトが俺を照らす。


 俺はふと、天井を見上げた。



「やったぞ、蓮」




 ――エピローグ『一人の男』――




 試合後、俺はホテルに戻っていた。


 世界王者になったという実感はまだない。


 蓮の仇を討ったという達成感も、今はただ静かに心の中にあるだけだった。


 ベッドに腰を下ろし、拳をじっと見つめる。


 ようやく蓮に追いつけたような気がした。


「……蓮」


 名前を呼ぶと、不思議と涙が込み上げそうになった。


 だけど泣くわけにはいかない。


 蓮は、そんなことを望んでいないはずだから。



 ドアの向こうからノックの音がした。


「直人さん……」


 美咲だった。


 俺は深く息を吸い、ドアを開けた。


 美咲は目に涙を浮かべながら、震える声で言った。


「おめでとうございます……!」


 その瞬間、俺の胸の奥に押し込めていたものが溢れ出した。


「美咲……!」


 俺は泣きながら彼女を抱きしめた。ずっと想い続けていた人。


「ずっと……お前が好きだった」


「……私もです」


 美咲の腕が俺の背中に回る。


「これからもずっと、一緒にいてくれ」


「……はい」


 美咲の頬に涙が伝う。


 その涙を、俺はそっと拭った。


 世界チャンピオンになっても、俺はまだまだ戦い続ける。


 けれど、一人じゃない。


 ――蓮が残してくれたものや、愛する美咲を、俺はこれからも大切に守っていく。


 ボクサーとしてではなく、一人の男として――


 心の中でそう呟きながら、俺は静かに目を閉じた。


 おわり。





お読みいただきありがとうございました。 もし楽しんでいただけましたら、ブックマークや感想、レビューをいただけると励みになります。

連載中の『30歳無職だった俺、いきなり女性VTuberになる。』も読んでいただけたら嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

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