8(創視点)
「ねぇ、どうして私を選んだの?」
そんなことを尋ねられたのは、彩が何度目かのお見舞いに来てくれた時だ。
ようやく熱が下がり体のだるさもなくなり、彩と以前の入院中のことを思い返している最中だった。
「選ぶって……」
「他にも良さげな人がいたんじゃないの?」
彩の言い分に、俺は困って笑う。
「その言い方だと、まるで俺が誰でもよかったみたいになるね」
「違うの?」
「違うよ。俺、そんなに軽く見える?」
彩は「たまに……」と小さく答えた。
俺はさらに困ってしまう。経験が少ないのはともかく、すぐに頰や耳が熱くなってしまうのなんて彩が一番わかっているはずだろうに。
そんな俺が手当たり次第に女性に軽く声など掛けられるわけがない。
「創は、大胆だから」
続けられた言葉に、俺は一瞬間を置いて吹き出した。
「彩にだけだよ」
「本当に?」
「どうして疑うの」
「だって、あんなに顔を赤くしながらもぐいぐいくるから……ちょっと、慣れてるのかなって」
むぅ……と、彩の眉間に皺が寄った。俺が笑ってるのが気に食わないらしい。
「誰でもよかった」という答えでも満足されそうで困ると思っていたけれど、そこにはちゃんと嫉妬が含まれているようだ。
しがらみなく恋人同士になれた今、好意的な答えを求められているとわかると途端に目の前の彼女が愛おしくなる。
唇をツンと尖らせた彩の手を取ると、手のひら同士を合わせて指を絡ませた。
「彩、俺のこと好き?」
「きゅ、急になに?」
「答えて。好き?」
「……好き」
絡ませた手を引く。
きっとまた顔は赤いし、繋がった手は汗ばんでいるけれど、俺にとって照れや羞恥はどうでもいいことだ。
腕の中に収めた彩のぬくもりを確かめながら、俺はひそかに口にした。
「――――たぶん、一目惚れだったんだ」
「え?」と顔を上げた彩のおでこにキスを落とす。彩は頰を色付かせてまた唇を尖らせた。
そのツンと突き出た可愛らしい唇を見つめていると「ほら、そういうところ」と言われ、彩の手が俺の口元を覆ってしまった。
「創の心臓、心配になるくらいドキドキしてる。なのにその大胆さはどこからくるの?」
「そんなに明け透けに言われるとさすがに照れるな。手どけてよ」
「ねぇもう、はぐらかさないで」
とんとん、と彩のもう片方の手が俺の腕を叩いて合図する。これは離してという意味。
補助人工心臓を埋め込んだ俺の身体はなかなか痛々しい見た目になっているので、彩は俺に抱きしめられた時は大人しくされるがままになってくれるのだ。いつもなら背中に回された手で合図を出される。
身じろぎや胸を押してしまうと俺の身体に響くのでは、とずいぶんと気遣ってくれていた。
俺はその気遣いをありがたく思い、今は遠慮なく利用させてもらうことにした。
「聞きたいなら、このまま聞いて」
「……キスしてこようとしないで」
「我慢するよ。それより面と向かって話すのはさすがに恥ずかしすぎる。お願いだからぎゅってさせて」
彩は渋々といった様子で俺の口元から手をどけて、そのまま静かに俺の腕の中に収まり直した。
不意打ちでキスしようかとも思ったけれど、そろそろ引き伸ばすのも限界そうだと俺は息をついた。
どこから話そうか少し考え、やがて口を開く。
「……俺、自分の病気がわかってからずっと悲観してたんだ。場所が場所だから治る見込みもないだろうし、ドナーとか、今は入れたけど補助人工心臓とか、全部拒否してて。どうせ苦しいのが続くだけだろって思って。……手術も怖くて」
それは彩に出会う前のこと。
成人してすぐに患い、最初は入院に至るまでもなく生活していた。けれどだんだんと身体の限界が見えてくるようになってしまった。
自宅で投薬するだけでは症状を抑えることができなくなり、ドナーを探しつつ入院生活を送ることになった。
「彩も知ってる通り、毎日泣いて過ごしてた。前の俺がいた大部屋じゃ迷惑になるから、箱ティッシュ持って人のいない所を見つけてはあちこちで」
……そんな時に彩を見つけた。
桜の花びらが風に舞う中、見上げた先は桜の木のようで目線はどこか違うところを見据えていて――自分が戻るであろう未来を憂いて、彩は悔し涙を流していた。
「強いなって思ったんだ。未来を見ようとせず落ち込んでる俺と違って、彩の涙は生きる希望に満ちていて。だから、惹かれた」
ティッシュを差し出して、そばにいる理由をこじ付けた。強く生きようと足掻く彩のそばにいたかった。
「彩のそばにいると実感できたんだ。泣いていれば背中を撫でてくれて、それが心地よかった。……生きてるって、思えた」
だから考えた。
彩のそばにいられる方法。俺が生きていると思える方法。その方法は少しずるいものだったけど、どうせ死ぬかもしれないのなら。
――だったらせめて、彩の支えになりたいと。
「彩のためと言いながら、俺のためでもあった。誰でもよくなんかないよ。彩だから、俺はそばにいたいと思ったんだ」
納得してくれた? と腕の力を緩めると、彩は瞳に涙を溜め込んで俺を見上げた。
「じゃあ、ずっと好きでいてくれたの?」
「最初から惹かれていた。彩は俺の生きる希望なんだよ」
溢れそうな涙を拭ってやり、その目元に口付けた。彩はくすぐったそうに目を細め、ツンと尖っていた唇はふにゃりと形を変えた。
たまらず、ふぅと息を吐く。
「ね、おあずけはもういい?」
答えを待たずに彩のあごを持ち上げると、俺は包み込むように無防備な唇を覆った。
柔らかな感触と伝わる熱に、俺の体温は一気に上がっていく。
名残惜しく唇を離せば、微かな余韻をお互いの瞳の中に残して。
「いろいろと、我慢の限界なんだよね」
つい、零してしまった。
❇︎❇︎❇︎
疑似恋愛を持ちかけたのは俺で、彩が頼りやすくなるよう丸め込んだのも俺だ。
最後には必ず別れると決めて気持ちに一線を引いた付き合いだったけれど、だんだん俺に甘え出す彩には素直な気持ちを出してしまう時があった。
それも嫌がらず受け入れてくれるのだから、俺はだんだん自制との戦いを強いられていた。
きっと彩の好きは俺の好きとは違う。
わかっているつもりだけど、錯覚してしまう。疑似恋愛を楽しむ彩は俺にすべてを許してくれていた。
手を繋いでも、頭を撫でても、抱きしめても、頰にキスをしても。彩は嫌がることなく可愛らしい反応を見せてくれた。
それがどんなに俺の心を鷲掴んでいたか。
「本当に好きになっちゃいそう」
なんて言われた時には、俺はもう夜空を見上げることなんてできなかった。
……本当に好きになってしまえと、流れる星たちにいくつも願いを掛けてしまいそうだったから。
そしてずるい俺は、「付き合ってるうちは」と淡い期待を秘めて答えていた。
彩との時間が幸せだった。
隣にいるだけで生きてる実感があって、触れれば心はもっと彩を求めて。それを許してくれる関係が、何よりも愛しいものになっていた。
手放したくないと考えるようになっていた。
だから、治療が順調で退院の目処がたつ彼女に焦りを覚え始めた。
その頃から体調を崩し出したのは情けなくも俺の内面的な問題で、熱が出るのも時間の問題だと思っていて。けれど、あんな急展開になるなんて思ってもみなくて。
ただ、タイミングが悪かった。
一気に俺の心臓は弱り、俺の意志に関係なく補助人工心臓の植え込みのための転院が決められた。
膨らみきってしまった彩への気持ちと、突然目の前にやってきた別れに、俺はとうとう耐えられなくなってしまった。気づけば想いをすべてぶつけていた。
それなのに彩は、それすらも許してくれた。
このままじゃだめだと思った。
俺の中に残る理性が、彩の気持ちを騙すなと言った。疑似恋愛は所詮、疑似恋愛。
今の俺たちは依存に近い状態だ、と。
だから会わずに、何も伝えずに転院した。
彩は怒っただろう。泣かせたかもしれない。
けれど彼女はすぐに退院して、目まぐるしい日常の中に戻っていく人だ。俺のことはすぐに忘れて、いつか遠くない日に幸せを見つけるだろう。
それが、俺の決めた役目だったから、それでいいと諦めた。
光を失った俺の生活は、手術の成功を経て続いていった。
術後に高熱を出し少し引きずったものの、経過は良好。医師の許しもあり、俺はわがままを言ってまた転院した。
どうせ入院が続くなら、彩と二人でよく過ごしていた所がよかった。それが彩の使っていた個室だった。
個室からは中庭が見下ろせる。彩と散歩に出ては他愛もない話をしたことを思い出した。見上げた空は近づいた夜を思い出し、むず痒く、けれど幸せに満ちた。
俺の中に点々と光の花が咲くように、思い出のひとつひとつが色付いていく気がした。
それだけでも幸せだ。幸せだと、思いこむようにしていた。
だけど、春が近づくと熱を出した。
柔らかな日差しが窓から差し込み、その暖かさで雪が溶けていくと知った。窓から見下ろす桜の木々はいくつもの蕾をつけて、今か今かと花開くのを待ちわびているように感じて。
――出会いを思い出してしまった。
もう彩と会うことはないのに桜は蕾を開き始め、春を祝福して花びらを風に乗せる。
可憐な桜色の中に泣いている彩の姿を錯覚して、無自覚に手を伸ばすほど欲してしまって。
隣にいてほしくて、隣にいたくて、熱にうなされながら彩の姿を探していた。
そんな時に彩は現れた。
まさか、と思いつつ声を掛けると反応がなくて、とうとう幻覚を見たと思った。
でも掴んだ手は確かに彩のもので、忘れるはずもなく彩の柔らかさがあった。求めていたものが手の中にあった。
そこからはもう、思うがままに気持ちを伝えた。
彩の迷惑なんて考えてない。俺が必要だからと、もう手放すものかと捕まえにいった。
熱でだるいとか、恥ずかしいとか、どうでもいい。いつ死ぬかもわからない俺にとって、伝えたい時に伝えられることが、一番の幸福だと気づいた。
頷いてくれた彩に、俺にできる精一杯の幸福を与えようと誓った。
❇︎❇︎❇︎
「我慢?」と蕩けた瞳のまま呟く彩に、俺はくすりと笑う。
彩はこれまでの俺の葛藤や諦めを知らないし、それは知らなくてもいいことだ。ただただ俺が向ける好意を受け取ってくれるだけでいい。
もう一度軽く唇を重ねて、ぎゅっと抱き寄せた。
「幸せ。好きだよ、彩」
「私も好き……」
背中に手が回され、優しく抱きしめ返された。
身体がこんな状態じゃなかったら、俺の理性はとっくにどこかへ飛んでいる。
我慢の限界なんだよな、と改めて思いつつ、どうしようもない胸の内を吐露する。
「彩、好き」
「うん。私も」
「好きだよ。大好き」
「私も創が大好きだよ」
「大好きだ、彩」
「ふふ、どうしたの?」
笑い出してしまった彩は、俺の背中をトントンと叩く。離して、と。
だけど、俺はまたそれに応えず力を込めて抱きしめた。
「大好きだ……――彩。愛してる」
その告白は二度目。
前の時は言葉を返してもらえなかったけれど、今度は少しの間を置いて小さく小さく返ってきた。
「私も。愛してるよ、創」
湧き上がる熱と幸福感に、彩を抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。
焦って俺から離れようとする彩は心配の声をかけてきたけれど、俺にとってはどうでもいい。彩を離すわけがなかった。
嬉しくて嬉しくてどうにかなりそうで、けれど涙が溢れてきて。
つられて涙目になる彩の頰をそっと手のひらで包むと、こつんとおでこをくっつけた。
「一時退院の許可もらうから、指輪買いに行こう」
「創、それは気が早いよ」
まずはのんびりデートしようと提案されて。
涙を拭うことなく二人で笑い合って、引き寄せられるようにまた唇を重ねた。
始まりの春。季節も恋も、人の命も。
花びらは風に流され、出会うものすべてに祝福を与えていく。芽吹いた俺たちの恋にも。
新たに始まった俺の人生にも。
実は俺と同じくらいに泣き虫な、愛しい君と共に。
この祝福された将来を、手を繋いで歩いていこう。