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あの日を境に、私と創の距離は本物の恋人同士のように縮んでいた。
一緒にいる間は手を握り合ったり、体のどこかしらをくっつけていたり。
私が病室から出られるようになれば中庭に出て、木陰で他愛のない話を繰り返して。人目がなければ抱きしめ合って。
真夏の暑さの中、滲む汗なんてどうでもよくなっていた。
けれど、あの日ほど危うい空気を感じることはない。
私の病室で二人きり、抱きしめ合っていても、見つめ合うことを私たちは避けている。気まずい意味ではなくて。――それは、自制の意味で。
創は決して一線を越えてはこない。唇には、指先すら触れてこなかった。
もどかしく思いつつ、私にとってもそれで良かった。「付き合ってるうちは」という創の言葉を丸ごと受け入れるには、大きな覚悟が必要だったから。
今のままの時間が続けばいいと思っていた。
仮初の関係でありながら、蜜月を思わせるような創とのやりとりはなんとも甘やかな時間で。
手を触れるだけ。同じ時間を共に過ごすだけ。たったそれだけで、私はこれまでにない幸福感で満たされていた。
でも、私たちは病人同士。
私は快方に向かいつつもまだ治療中で、点滴の外れた創も相変わらず入院中で。
これだけ近くにいてもお互いの病状は明かしていなくて、だから創が今どんな状態かなんて知る由がなくて。
創の身体に現れ始めていた異変は、日常において本当に些細なことだった。
息切れから始まり、ピークを過ぎたといえど残る暑さの中、創は中庭に出ることができなくなった。
階段の上り下り、お互いの病室の行き来も途中で休憩を挟むようになり。
著しい体力の低下は、あっという間に創をベッドに張り付けてしまった。
「創、入るよ」
創の病室は大部屋で、間仕切りカーテン越しに声をかけた。
「うん」と小さな返事を聞いてから私は最低限の創のスペースにお邪魔した。
創は赤らんだ顔で額に汗を滲ませて、ベッドに横になっていた。
「熱はまだ下がらないんだね」
ベッド横のスツールに腰掛けて、私は創の熱を持つ手を握った。その手にはしばらく外れていた点滴がまた戻っており、チューブの先では薬液が規則正しく小さな滴を落としていた。
「こればっかりは、なかなか」
辛さのせいで涙目の創は、力無く私の手を握り返した。
すっかり動けるようになった私に、きっと病室に通ってくると見越した創は「発熱は風邪でも患ってる症状でもないよ」と教えてくれた。
投薬の副作用でもなくて、それはただ『精神状態』の問題だと。不安定になるとよく熱を出す、というのはたまたま居合わせた看護師さんからも聞けた事実だった。
「私がついてるよ、創。一緒にいるよ」
ここ毎日はずっとこんな調子でそばにいた。
間仕切りカーテンがあるので外を見ることもできず、差し込む日光は蛍光灯の光に負けてしまって。
大部屋だから人の気配が賑やかではあるけれど、こんなに閉鎖的では自分だけが切り離されて孤独だと錯覚してしまう。
特に、こんなに不安を抱えている今なんて。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
「うん。時間いっぱい……」
「そうじゃないよ」
いつもなら辛さの中にも笑顔を見せてくれるのに、今日はなんだかずっと目を逸らされていた。
口調も強張っていて、というよりはわずかに震えが混じっている。逸らす瞳は、途端に涙の色を強くした。
「俺が死ぬまで、一緒にいてくれる?」
私はとっさに言葉が出なかった。それは一体、どういう意味だというの。
私たちが付き合う上での『条件』では、どちらかが退院をする時に必ず別れること。それを反故にして、遠回しだけどずっと一緒にいたいということ? それとも冗談で言ってる? ただの弱音?
けれど、創のその表情は。こぼれ落ちそうな涙を溜める瞳は……。
「ねぇ、創」
私の中に怒りが込み上げた。
「ずっと一緒にと思ってくれるなら、私はずっと一緒にいるよ。退院しても絶対に別れない。それが創の本音なら」
「彩、それは……」
「冗談なら、それはそれでいい。一緒にというのが冗談なら、私は笑って受け流すよ。でも、」
区切って息を吐き出した。
強張り震える。黙り込んでしまった創よりも、私は涙を溜め込んだ。
「死ぬっていうのは、だめだよ。冗談でもだめ。創、私怒ってるよ。そんな冗談、許せないよ」
「っ……、彩」
創は起き上がろうとして、ふらりとよろけた。
起き上がることを諦めて握ったままだった私の手に、熱のこもるおでこをくっつけた。
「ごめん、彩。ごめん……。泣かないで。俺、死なないから。泣かないで」
ぽろぽろととめどなく落ちていく。
涙の雫は私の頰を伝い、創のものは私の手に伝った。創の熱を含んだ涙。
瞬く間に私の温度に馴染んでいく。
二人で泣き合ったのはいつぶりだろう。
私たちはいつからか、お互いの涙を見ることはなくなっていたのに。
「創嫌い。そんな冗談を言う創は嫌いだよ」
「それは俺がだめ。彩、嫌わないで」
握られていた手をぐっと引かれた。その手首に口付けられ、呆気に取られているともう片方の手が私の首に回ってきた。
さらに引かれる。
寝ている創の上に覆いかぶさるようにして動きを止めた私は、下から押し付けられた熱い唇に思わず息を止めた。
「嫌わないで……」
触れたままの唇で囁かれる。
私の手を掴む創の手も、後頭部に添えられた手も。間近で触れる吐息も、乾燥で少しかさついた唇も。――何もかもが熱い。
何よりも、涙の粒を溜めた熱っぽい創の瞳が。
「好きだ、彩。許して」
あと少しだけだから、と。
創がわずかに口を開くと、後頭部を押されて深く重なり合う。入り込んでくる熱は私の中を掻き回し、私の気持ちまでぐちゃぐちゃに蕩して。
抵抗など考える暇もなく、私は創の熱に応えていた。
「私も好き」と伝えなかったことを、のちにどれだけ後悔するかも知らずに。
その後は創の熱が上がり続け、安静のために面会を禁止された。
そして数日後、私は看護師さんから一通の手紙を受け取った。
中身は創からのもので、思い出も飾り気もなくただ淡々と綴られていた。突き放されたと言ってもいい。
『急遽退院が決まりました。約束通り、別れよう』
分かりきった嘘に、私は悲しみと怒りで手紙をくしゃくしゃにして投げ捨てた。