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歌姫さくらを褒めないで

作者: 尾仲庵次

 歌姫『さくら』を褒めないで……


 あたしはそんなに立派じゃないの。

 いくら歌ってもそれは彼女の本心じゃない。

 本音は心の底に抱えている。


 いつかはきっと疲れてしまう。


 彼女の思いが伝わるように……あたしは今日も歌い続ける……。


 ◆


 あまりいろいろ気にしている暇はない。

 気にしても何も解決しないから。


『この商品は500円ではきついよ。本城さん』


 取引先の担当者の男性の声が業務用の電話の向こうから聴こえてくる。

 きついと言われても、こちらもこの値段でネット販売するように言われている。


 あたしが働いている会社は一般で店頭販売している商品をネット販売する会社だ。学生時代からパソコンばかりをいじっていたあたしは、少しでもパソコンに関係する仕事に就きたくていくつか就職活動をした。もちろんパソコンのソフトウェアの会社や大手の電気メーカーなども数社受けたが、すべてダメだった。

 この不況の折には仕方ないことだろう。


 いろいろ気にしている暇はない。


 あたしはそういう性格であるように心がけてきた。

 考えても仕方ない。過ぎたことは振り返らず前だけ向いていこう。

 そう思って就職活動もした。


本城花純(ほんじょうかすみ)さん……いい名前ですね』

 面接官はあたしに言った。

 母親がかすみ草が好きで『花純』と名付けたらしい。

 どうせだったらもっと華やかな『さくら』とかそんな花を選んでくれたらよかったのに……

『はい……ありがとうございます』

『それにしても足が長いね。モデルでもやっていたの?』


 就職活動をしている時は、仕事とは関係ないことをかなりの頻度で聞かれた。

 その中でも一番言われたのは『足長いね』とか『背が高いね』とかそういうことだ。

 言っている方には悪意はない。

 セクハラか……と言われるとそうではないと思うから、殊更(ことさら)、騒ぐのも少し違うかなと思う。

 ただあたしは背が高いことがコンプレックスなのだ。

 背が高くて良かったことなど何もない。

『モデルでもやっていたの?』と聞かれたがモデルができたならこんなところで面接など受けていない。


 そんな苦労を経て、ようやく就職できた会社が今の会社だ。


 お世辞にも大きいとは言えない会社だが、小さい会社かといえばそうでもない。

 大企業ではないにしても中小企業の中ぐらいの企業だろう。

 社員も100人を超えるぐらいはいるはずだ。


『きついですか……』

『きついですかじゃないよ。これだから素人は困るよ。君、1年目だっけ??』

『はい。でも仕事に1年目とかそういうのは言い訳になりますので……』

『今、あなたが扱っている商品はね。いい? 原価がすでに500円なんですよ。分かりますか?』


 取引先の男性は横柄な話し方をしてくる中年の男性だ。

 明らかにあたしは下に見られている。


『原価が500円……』

 あたしは電話の受話器を握りしめながらうめくようにつぶやいた。


 原価500円の陶器のマグカップなど聞いたことがない。

 100円均一にいけば100円でいくらでもいいマグカップが手に入るのだ。

 原価が500円で売値がそれ以上のマグカップをだれが喜んで買おうと言うのだ。


『そう。原価500円なのに売値500円にされちゃったらうちはお宅に払う手間賃で赤字でしょ』

『おっしゃる意味は分かりますが、ご希望の売値だと売り上げは見込めないと思いますが……』

『そこをなんとかしてもらうためにお宅に頼んでるんだよ。売れなかったら損失分はお宅でなんとかしてよね。営業がそう言ったんだから』

『それはわたしの一存ではなんとも……』


 明らかな舌打ちをされながら電話を切られた後、あたしは力なく受話器を置いた。

 結局この仕事の結論は出ていない。

 何のための電話だったのだろうか。

 こちらとしても早く仕事を終わらせたいのに……。


『本城くん……ちょっと』

 今度は上司が手招きしている。


 ああ……めんどくさい……。

 大学を卒業して、社会に出てからこんなことばかりだ。

 上司だって……

 取引先の担当者だって……

 誰だって何かのストレスにさらされながら生きている。


 だから……


 しんどいのは自分だけではない。

 考えても仕方ないことは、いろいろ考えない。

 分かっている……。

 それは分かっているんだけど……。


 夜。

 意味もなく今日も残業。

 自分の仕事なんかないのにみんなが残っているから残業。

 しんどいのは自分だけではない。

 我慢……。


 家に着く頃には夜も更けている。

 ため息が出る。

 明日も仕事かと思うとしんどい。

 あたしは何のために生きているのだろう。

 言いたいことも言えずに……。


 冷蔵庫からビールを出して飲んでみた。

 苦くて美味しくないけど感覚が鈍っていくのがありがたい。

 あたしはテーブルに座り、頬杖をつく。

 350mlの小さな缶ビール1本も飲み干せない。


 コップに残る黄金色の液体の中を細かく泳ぐ小さな泡を見つめているとなんだか眠くなってきた。


 このままゆっくり眠ってしまおう。

 明日が来なければいいのに……。


 ◆


 花純は眠ってしまった。

 そして今日も疲れて帰ってきた。


 言いたいことも言わないで、こんなに遅くまで仕事をしている。

 花純が言えないその気持ち。

 なんとかあたしが多くの人に伝えたい。


 あたしはクローゼットの奥にしまってあるフリルのついた白いドレスと金髪のウィックを取り出す。

 花純が会社の飲み会の余興用に購入したものだ。

 考えてみればあたしが花純の中に住み始めたのもあの頃だったかもしれない。


 鏡の前に座り化粧(メイク)する。

 ビューラーでまつげをカールさせて、マスカラをたくさんつける。

 元から二重で目がぱっちりしているから、こうすると瞳がより大きく見える……ような気がする。

 化粧(メイク)が終わると……


 あたしは花純からさくらになる……。


 金髪のウィックを頭につけて(くし)で馴染ませる。


 パソコンを開いて内部カメラを起動する。

『さくら舞い散る恋の唄?』という名前のあたしのホームページにアクセスする。

 動画を配信するのだ。


『皆さん、どうもこんばんわ。さくらです』

 あたしはパソコンの前で話始める。

『今日もこの配信を見てくださってありがとうございます』

 パソコンの前でペコリと頭を下げるあたし。

『自分の気持ちが伝えられないのって辛いですよね……』

 これから歌う唄の説明を少しだけして……


 あたしは少し目をつむり、気持ちを集中させる。

 そして……


 唄う……


 甘くてせつない恋の唄を……

 自分の気持ちが伝えられない弱くてはかない女の子の恋の唄。


 長い歌詞が頭の中に自然に浮かんでくる。

 柔らかく長く続く旋律が同時に駆け巡り、自然にそれは唄になる。

 あたしの途切れそうな甘い声は大気の中をフワフワと泳ぎながら漂っていく。

 詩と旋律の最後が近くなると……なんだか声が霞む感じがする。


 約4分。

 唄は終わる。

 気持ちは伝わっただろうか。


『素晴らしい歌声でした』

『感動して泣いてしまいました』

『片思いを思い出してせつない気持ちになりました』

『さすがは歌姫さくら。素晴らしいです』

 コメント欄には賞賛の嵐。

 いつの間にかあたしは『歌姫さくら』などと呼ばれている。

 謎が多くどこのだれか分からない歌姫。

 レコード会社が血眼(ちまなこ)になって探しているけど見つからない謎の歌姫。


 はああ……


 それでも花純の思いは伝わらない。

 どうかお願い。


 歌姫『さくら』を褒めないで。

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