アンガールーム
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
「怒りは敵と思え」、
この言葉、特に最近は意識することが増えた。
よく歳をとったら心にゆとりができるっていうけど、逆をいえば若いうちはゆとりがねえってこと。しかも子供のうちより、大人になってからのほうがすぐきれやすくなったと思う。
俺自身、公私を問わずに怒って失敗したことがあったよ。注意を受けたし、誰かを傷つけることもあった。ぜってえ、我慢していた時のほうが良かったことも多々ある。お前はないか、そんな経験が?
怒りをまったく抱えずに生きられる、なんて仏さまの領域だと俺は思う。けれど溜め込んだら爆発しちまうし、適度に発散させることができるといいがな。もっとも、その方法を見つけるのも簡単じゃないけどな。
中でも、俺の友達の兄貴がひと昔前にとっていた方法は、ちょっと奇妙なものだったらしい。ネタや戒めになるかもしれんし、つぶらやも耳に入れておかないか?
「次にうるさくしたら、出るとこ出るからな。静かにしろ。約束だぞ」
低くドスがきいた声で告げる、壮年の男性。それに対し、兄貴は「すいません」とぺこぺこ頭を下げていた。
兄貴が住んでいるのは、アパートの二階。その一階に住む男性からの苦情だった。
当時の兄貴は、学校やバイト先でもイライラが募るばかりでな。家でひたすらゲームばかりしていたそうなんだ。ストレス解消手段だわな。
勝って当たり前。俺のための踏み台となって当たり前。晴れ晴れとした気持ちになれて当たり前……ゲームには兄貴の、多くの期待がかけられていた。
だから、それが裏切られた時は大変だった。機械にあたるのみならず、声は荒げるし、地団駄は踏むしで、部屋全体がずしんずしん揺れたらしい。それが重なったうえでの今回の事態だった。
付き添っていた大家さんにも注意を受け、すっかり沈む兄貴。敷いた布団に寝ころびながら考える。
自分にはゲームしか発散する手段がない。自分の思惑通りにことが進み、相手を蹂躙する時の快感はたまらなかった。「ざまあみろ」と相手を心から見下し、フィニッシュサインをかましたことだって数知れない。
人相手だったら、絶対にやれないことだ。それが機械相手だから思う存分にできた。たとえインターネットの対人戦だろうと、自分の目の前にあるのは液晶画面。カメラでも使わない限り、こちらの無礼は悟られない。
だから兄貴にとって、負けとはこの上なく許しがたいものだ。何十分、ときには何時間に渡る名勝負も、黒星がつけば汚点に早変わりだ。
勝者は喜ぶだろう。観客は拍手するだろう。でも敗者這いつくばるよりない。たとえ表向きは勝者と握手し、健闘をたたえ合ったところで、負けは負けだ。
それが競った勝負であるほど、完成間近の絵を台無しにされたような脱力感に襲われる。
時間を無駄にされた。本来ならその時間で、2ゲームも3ゲームも行い、手に入れられたものをフイにされたんだ。鼻や口から、血が飛び出すんじゃないかと思うくらい、顔が熱くなる。すると抑えも利かなくなって……で、今回のありさまだ。
引っ越す。ゲームをやめる。そもそも怒るのを耐える。
ちょっと考えて思いつく対策は、どれもこれもおっくうに感じるものばかり。
――存分に怒りてえ。
そのまま悶々としつつ、兄貴はその日の残りをふて寝ぎみに過ごしたとか。
翌日の学校で、兄貴はこのことを友達に話す。特に苦情をいってきた男性の言い草を誇張し、完全に悪者へ仕立て上げた。
舌が回れば回るほど、昨日からの留飲は下がっていく。が、まだ足りない。
いまだ怒り心頭だと伝えて話を締めた兄貴だが、放課後に話をした友達のひとりに呼び止められる。「まだ怒っているなら、うってつけの場所がある」とね。
うまい話に半信半疑の兄貴だが、このまま帰ったら、今度こそ本気で訴えられかねない腹に据えかねている。友達の後に続き、駅近くの繁華街を通り抜けていくらか歩くと、あるボクシングジムの前で足が止まった。
建物はてっぺんから足元まで、壁に微細なひびが何本か入っている。外に面した窓はすきまなく緑色のカーテンが引かれ、中の様子は分からない。
ボクシングなぞやらんぞ、と即答する兄貴に友達は答える。「大丈夫、中はもっと素敵なものになっているから」と。
ドアを開けると、赤い天井灯の光が飛び込んでくる。仕切りのない広々としたジム内を想像していた兄貴だが、どちらかというと屋内マンションの廊下を思わせる。
左手にはのっぺりとした壁が奥へと伸び、右手も黒ずんだドアが等間隔で並ぶ以外は、同じ作りとなっている。
ぽかんとしている兄貴に「いらっしゃい」と女性の声がかけられた。見ると、入り口のドアの影に、小さなレジを置いたカウンター。そこに立つのは、母親と同じくらいと思われる50がらみの女性が立っていた。
「おばちゃん、いつものコースでよろ。こいつの分も俺が払うわ」
「いいよ。それじゃ20分。二人で600円だよ」
値段からして、マッサージのたぐいじゃなさそうだ。友達が金を払うと、女性は鍵をひとつずつ二人に渡してくる。タグにはそれぞれ、「101」と「102」。
展開に追いつけない兄貴が友達に尋ねると、ここは「アンガールーム」なのだという。
アンガールームはその名の通り、怒りを発散する部屋のこと。この渡された鍵で入る個室には、ストレス発散のためのターゲットが置かれている。時間内であれば、それを使って自由に怒りをぶつけることができるとか。防音対策もばっちりで、他の部屋にも響かない。
友達が選んだのは全年齢対象の「破壊コース」。年齢制限がかかるものだと、お値段が跳ね上がる代わり、用意されるサービスのクオリティも跳ねあがるらしい。
――それ、ヤバイお店か何かじゃねえの?
そう思った時には、すでに友達は「101」のプレートが掲げられた部屋の奥。内鍵もかけられ応答がない。
「入りなさい」と女性にも促されて、兄貴も「102」の部屋の中へ。
入ってすぐ、兄貴は内容を理解する。八畳ほどのワンルームには、サンドバックや剣道の防具に包まれたカカシ、マネキンが奥の壁際にずらっと並んでいる。
入り口に近い傘立ての中にはグローブをはじめ、竹刀、ゴルフクラブ、模造刀や模造槍。そのわきには折り畳み式のパイプ椅子と、プロレスの凶器で使われそうなのもちらほら。玄関の戸の裏側には、残り時間を示したデジタルメーターが埋め込まれている。
もう、説明は無用だった。昨日、苦情をいいにきた男性の顔をより醜悪に思い浮かべる。傘立ての中から手近な模造刀を取り出すと、ふつふつと胸の中から熱いものが出てくるのを感じながら、奥のマネキンへ足早に向かっていった。
兄貴がアンガールームの常連となるのに、さほど時間はかからなかった。受付の女性曰く、サービスの最短は10分150円コースとのこと。
人の怒りは長く続かない。吹き出す前後こそ岩をも溶かす熱さだが、一度外へ出せば、あっという間に冷えて岩となる。何十分も最高潮を保てるのはまれなことで、怒っているだけの人なら、たいていは20分でけりがつくとのこと。
家からさほど遠くないこともあり、兄貴はゲームやその他で怒りそうになると、ぐっと我慢。アンガールームでカカシやマネキンをボロボロにし、サンドバックをがむしゃらに叩いたらしい。
噴出する直前まで、溜めに溜めて、こいつらを完膚なきまで叩きのめす。遠慮のいらない咆哮をあげながら。まるでたばこを吸うみたいに、日によっては10分ごとに何度も部屋へ入ったこともあったとか。
そんなアンガールーム利用だけど、とうとう終焉を迎える。ルームが亡くなるより先に、兄貴から手を引いたんだ。
入試間近で、その日はもうのべ2時間以上、部屋を使っていた。
アンガールームでは道具を破損させても一切の責任を問われない。その規則があるとはいえ、兄貴はすでに竹刀、模造刀をダメにし、カカシとマネキンもあちらこちらに破片を飛び散らせていた。
――もっとやわい奴をいたぶりてえ。
兄貴は模造槍を手に取ると、まだ無事なサンドバックへ向かう。
これまではサンドバックはグローブで叩くもの、という先入観があった。だが今は手を痛めず、相手を打ちのめしたくてたまらなかったんだ。
槍で突く。また突く。三度突く。ゲームの見よう見まねで横に薙いだり、縦に切り下したり。人であればとっくに穴と傷だらけの、惨死体になっていただろう。
サンドバックは、兄貴のつたなくも執拗な痛撃によく耐えた。でも憑りつかれたように、突きばかり繰り出すようになった兄貴の前に、表面が破れてその中身をさらけ出す。
布切れがだらんと外へ垂れさがり、中身の砂がこぼれ出すが、その一部を見て兄貴は目を見張ったよ。砂の中に思わぬものが混じっていたからだ。
人間の坐骨。以前、母方の祖父の葬儀で、納骨の時に見たことがある。その形にそっくりだったんだ。
ひるむ兄貴の耳に、「はっはっ……」と犬の吐息が届く。隣の部屋でさえ音が届いてこないこの空間で聞こえる。つまり、同じ部屋にいるということ。
さっと振り返った。八畳間にはボロボロになったカカシとマネキンがあるだけ。でも、それらは先ほどと違い、胸や頭からタラタラと赤いものを垂らし、フローリングの床を濡らしている。
犬の鼻息はますます強くなり、兄貴は慌てて槍を戻すと部屋を飛び出した。閉める直前にちらりと見えた八畳間には、転がった坐骨をくわえてしゃぶり出す、ドーベルマンのような姿の犬がいたらしい。
アンガールームは、確かに俺たちの怒りを発散させるためにある。だがそれと共に、あれらを攻撃することで、犬たちに食べさせやすい形へ、中身を加工させるのが目的なんじゃないかと、兄貴は思っているのだとか。