episode 566 「継承」
ハデスの攻撃力はマリンの防御力を軽く凌駕する。一発でも攻撃が命中すればそこで勝負はつくだろう。命中すればの話だが。
「……」
ハデスは口を開く気力も失っていた。疲れはないが、絶望はどんどん大きくなっていく。あれほど戦う覚悟をしたというのに、マリンはその覚悟を軽くへし折っていく。
万の次元などとうに越えていた。だが終わりが来る様子はまるでない。幾度となく拳を突き出してもマリンの肌に触れることはない。
「どうした? まだ私は一つもダメージを受けていないぞ?」
「……わかっている」
数時間ぶりに口を開くハデスだったが、また固く口を閉ざす。頭をフル回転させ、マリンの攻略法を模索するが、2000年かけて出なかった答えが、たった数時間で導き出せるはずもない。そもそもハデスにそんな作業は向いていない。
拳を振り上げ、振り下ろす。それがハデスにできる唯一のことであり、最大の武器だ。しかしそれがまるで通用しない。
レヴィなら殴り勝てる。
メディアなら捻り潰せる。
オルフェウスなら叩き潰せる。
ヘルメスならへし折れる。
メイザースなら殺しきれる。
ヨハンなら喰らい尽くせる。
だが、マリンだけは勝つ手段が無い。どんなに高い威力でも、どんなに強い衝撃でも、届かないのなら意味がない。もし奇跡的に攻撃を当て、マリンにダメージを与えることができたとしても、マリンにはメイザースの力もある。そもそもここは冥界、いくら殺しても殺せない。ハデスの勝機は文字通り万に一つも無かった。
(やはりまだまだ力不足……プルートのようにはいかんか)
何度でも立ち向かってくるハデスを振り払いながらため息をつくマリン。腕を飛ばし、足を飛ばし、首を飛ばす。何度も何度も絶命し、何度も何度も蘇生する。暗くて良くは見えないが、きっと辺り一面血の海と化しているだろう。自分の血と臓物を踏みつけながらハデスはまた立ち上がる。
「使命か? それとも本能か?」
いい加減飽き飽きしてきたマリンがハデスに問いかける。
「あえて言うなら意地だ」
マリンの問いかけに首を横に振り、そう答えるハデス。
「降りる気は無いと?」
「その通りだ」
ハデスの目を見るマリン。そして大きなため息と共に両手を上げる。
「降参だ。私はそろそろ紅茶を飲みたい」
マリンが指をならすと、机と椅子と紅茶が出現する。そして椅子に腰掛け、ゆっくりと紅茶をすすり始める。
「なに?」
そのマリンの様子に戸惑うハデスだったが、その直後に体に入り込んでくる未知の力に翻弄され、それどころではなくなる。
「な、なんだこれは!?」
「それが冥王の力だよ」
あまりに大きすぎる力に両手からこぼれ落ちそうになるハデス。現にハデスの体からは大量の黒い気体が溢れだしていた。
「こ、これは!」
「瘴気だ。気を付けろ、我々魔に耐性の無い者にとっては猛毒だ。例えばそこの人間たちが吸えば廃人は免れん」
マリンは気絶しているマークたちを指差しながら告げる。
「なっ!」
ハデスは何とかして自分から流れている瘴気を食い止めようとするが、うまくいかない。そうしているうちにも瘴気はマークたちのすぐ近くまで迫っている。
「ふ、くははは!」
絶望的な顔で瘴気を取り払おうとするハデスを見て思わず吹き出すマリン。
「その人間たちは私の術で隔離してある。そもそも彼らは死んでいるんだ」
ハデスの必死な顔を存分に愉しみながらマリンが軽やかに告げる。体の力が抜けてしまったハデスは特に怒る様子もなく座り込む。
「何故、俺に力を与えたんだ。俺は貴様に傷一つ付けられなかったというのに」
「だからお前たちは愚かなのだ。今私たちがやっていたのは単純な力比べではない。そもそも死の概念が無いここでそんなことは無意味なのだ。なら計る物は一つ、お前のいうところの意地だ。お前は意地で私を凌駕した。それだけのことだ」
マリンは一通り笑い終えたあとの紅茶を楽しみながら答える。そしてとても満足そうに笑いながらゲートを開き、その中へと消えていく。
「正直私は諦めていた。お前たち神も、人間も、私でさえも母には敵わないと。ここで安らかに暮らせば良いのではないかと。だが、お前たちなら何かを変えられるのかも知れない。ならば、私はそのわずかな可能性に賭けるとしよう」
みたこともないほど穏やかな笑顔を残してマリンは立ち去った。
「……マリン、プルート」
ハデスは受け継いだ力をその手の上に感じていた。いつの間にか流れていた瘴気も押さえ込めている。
「人間たちよ、俺はお前たちを侮っていたようだ。すまないが、力を貸してもらう」
ハデスが強く念じると、辺りの闇が濃くなっていく。そしてその闇がマークたちを包み込み、飲み込み、やがて全て消えていった。