episode 523 「マリンの過去」
マリンの怠惰の力。それはこの世に存在するありとあらゆるものをマリンに近づけさせない力だ。極端な話をすれば光も空気もマリンの前で止まってしまう。いくら手を伸ばしても届かない。近づいてきてもらえないので自分から歩み寄る。だがそれでも遠ざかってしまうだけで一向にその手には掴めない。
何も見えない。何も聞こえない。何もさわれない。
果たして自分は今生きているのだろうか。そもそも自分は誰なのか。
生まれ堕ちたその日から、マリンは死を強く望んだ。できることはそのくらいしかなかった。
実際にマリンの肉体は何度も何度も滅んだ。息を吸うこともできないのだから当然だ。しかし何度死んでもマリンが本当の意味で死ぬことはなかった。肉体が滅んでも魔族の欠片がある限り魔族は死なない。肉体は長い時間をかけて肉体は何度も再生し、その度に強化されていった。その内呼吸をする方法を覚え、窒息で死ぬことは無くなった。また、この際に苦しみに対する耐性を身につけた。
呼吸を克服したマリンだったが、乗り越えなければならない問題はまだ山積みだった。
次にマリンに襲いかかったのは餓えだった。呼吸を乗り越えたことでマリンは初めて1日を生き抜くことに成功するな。だが、なんだか苦しい。その苦しみの正体は分からなかったが、何かを口に入れたい衝動にかられる。だが何も見えず、何も聞こえず、何も匂わない。一週間後、マリンは餓死する。
そこから先は何百回もその一週間を繰り返した。口に何かを入れなければ死ぬ。その事だけはマリンの魂に刻まれた。
魔女が世界を滅ぼした。それから数年たった今でも世界は荒れていた。そもそも人間の数が少なすぎるため復興などできるはずもない。生き残った人間たちは自分用命を維持することで精一杯だ。
およそ10年、マリンは初めて物を掴むことに成功した。目が見えないため何だったのかはわからないが、迷わずそれを口にいれる。入れたものの正体はただの草だったが、マリンはその味を一生忘れない。
物を触ることに成功し、物を食べることに成功したことで、マリンは餓死を克服した。しかしマリンにとって未だに生きることは苦痛でしかなかった。呼吸し、餓えをしのぐ毎日。生きる意味はわからないが、死ぬことは苦しい。だから生きる。
魔女が封印されてから30年が経過した。人間たちはどんどん数を増やしていき、マリンの存在に気がつき始める。
人々から見たマリンは正に化物だった。まともに歩くことも出来ず、何も着ておらず、言葉もしゃべらず、目も焦点が合っていない。人々はマリンに対して攻撃を仕掛ける。知らず知らずのうちに怠惰の力による外部接触を解除していたマリンは人々に徹底的に痛め付けられ、初めて殺される。何度殺しても復活するマリンを人々は恐れ、その度にマリンを殺した。
痛みも勿論だが、マリンはこの時初めて悲しみを覚える。なぜ自分は痛め付けられなければならないのか。なぜ自分は一人なのか。
マリンは力の使い方を覚え始める。必要なモノだけ取り入れ、必要の無いものは遮断していく。その過程で光を取り入れ、初めて世界をその二つの目で見つめる。その時の感動は今でも心に残っている。
マリンは観察することを覚え、人々の生活をさまざまなカクドカラ見つめた。人は二足歩行すること、服を着ること、何やら口から音を発してコミュニケーションをはかることを覚えた。
そして人と自分は違うことも知ることになる。
ある日の事だった。いつものように人々の生活を観察していたマリンは奇妙な現場に出くわす。それは一人の男性が別の男性の持つ食材を無理やり奪い取る場面だった。そういう行動はいけないことだと学んでいたマリンは直ぐに奪った男から食材を取り戻す。しかし食材を持っていた男の手を引っ張ると、食材だけでなく男の手まで引きちぎってしまったのだ。悲鳴をあげる男。マリンは奪い返した食材を満足げな表情で食材を返す。もちろん男は受け取らない。食材には血が飛び散っており、マリンの体は赤く染まっていた。
「どうして?」
マリンは呻き声だけが聞こえる中、小さく呟く。
「どうして私は人と違う?」
食材を地面に落とすマリン。真っ赤な手で顔を触る。
「私はなんだ? どうして生まれてきた?」
誰も答えない。気がつくと呻き声も止んでいた。
「死にたい」
でも死ねない。
「殺してくれ」
でも誰もいない。
「許さない……」
私にこんな地獄を味合わせた誰かへ。
「同じ目にあわせてやる」
必ず仕返ししてやる。
「待っていろ」
直ぐに会いに行く。