episode 347 「怒りと恐怖」
ヘルメスは怒りに身を任せ、力を解放する。その覇気だけで森の炎は完全に鎮火され、森の魔獣たちの動きは完全に停止する。
「……いい加減にしろ」
レヴィのように容姿が著しく変化するわけでもない。だがその力はみるみるうちに膨れ上がっていく。ただでさえ到達することができない高みにいる存在が、更に上へと上っていく。
「おしまいだ……」
ジャックが大量の汗をかきながら呟く。銃を握る手にも力が入っておらず、戦意が喪失しているのは明らかだ。過去にヘルメスとどのような関係があるのかはゼロにはわからないが、その怯えようは尋常ではなかった。それはクイーンも同様で、すでに弓と矢は地面へと落ちている。
「貴様ら、やはり殺しておくべきだったな」
ジャックとクイーンを睨み付けるヘルメス。やはり過去に何かあったようで、二人はヘルメスの言葉を聞いただけで震え上がる。
「ゼロ、逃げるぞ」
体をガチガチに固めながらジャックが耳打ちしてくる。
「落ち着け、逃げ場はヘルメスの背後のあの穴だけだ。だが今飛び込めば当然奴が立ちはだかる。そして奴は森を荒らされ、冷静じゃない……殺されるぞ」
ゼロがジャックの肩に触れながら話しかけるが、ジャックの耳にはほとんど入っていかない。
ゼロはヘルメスが正気ではない今こそが最大のチャンスと捉えていたが、ジャックがこの調子では対抗するのは厳しそうだ。ジャックだけではない、クイーンは戦力としてカウントできる状態ではなく、リザベルトも先ほどから全く体が動いていない。
「ジャック、お前の速度ならヘルメスとて簡単に対処はできない。頭に血が上っている今ならば尚更だ。俺が奴の注意を引き付ける。お前がやるしかない。お前が皆を逃がすんだ」
ゼロは答えを待つ前に飛び出す。そして空中を旋回するドラゴンに向かってナイフを投げつける。クイーンから頂戴した毒をたっぷりと塗り込んだナイフだ。
「よほど死にたいらしいな!」
それを察知したヘルメスが穴の前からナイフを弾くためにドラゴンの方へと飛び出す。
今だ! と声を上げるゼロ。その声に反応してジャックが無我夢中で走りだし、クイーンを抱えて穴を目指す。
ナイフを弾き、穴の方を見るヘルメス。ジャックが穴に向かって走り出しているというのに、ヘルメスは表情ひとつ変えない。
「待て! ジャック!」
いへんをかんじとったゼロがジャックに向かって叫ぶが、逃げることに夢中のジャックは一切気がつかない。
「もう、少し……!」
ようやく穴に手が届きそうになったその時、ジャックの背筋が凍る。殺し屋としての勘がなければ、今頃クイーンと一緒に両断されていただろう。
ジャックの鼻先を剣が通りすぎる。穴から伸びた手に握られたその剣は再び二人を切り殺そうと振るわれる。
「ちっ!」
なんとか体を反らせ、攻撃をかわすジャック。だがクイーンを庇ったことが仇となったか、僅かだが剣が体内に食い込む。激痛とともに鮮血が体外に飛び出す。
「がっ!」
「ジャック!」
地面を転がり、血反吐を吐くジャック。たった一撃かすっただけだというのにとんでもないダメージが体内を駆け巡る。
(な、なんだこれは……体が裂けそうだ)
切られた腹を見てみるとぱっくりと割れている。死を感じ取った体からとてつもない量の危険信号が発せられる。
(熱い! 痛い! 苦しい!)
どくどくと血が流れていく。もはや呼吸すらままならない。クイーンが何かを叫んでいるがそれはジャックの耳を素通りしていく。
ゆっくりと、穴の中からジャックを切った人物が現れる。その見慣れたシルエットにリザベルトは直ぐに反応する。
「姉上……!」
ジャンヌは完全に正気を失っていた。ゼロがこの森でジャンヌと会ったときは我を忘れていただけだったが、今回は訳が違う。明らかに心が消失していた。そう思わせるのには充分な表情をしていた。




