episode 312 「ヘルメス」
ジャンヌはきらびやかな城の中を駆け回っていた。加護を失ったとはいえ、ジャンヌの通常の身体能力はほとんど変化はない。それでもなお、青年は平気な顔をして後を追ってくる。
「なんなのよアイツ」
飄々とした表情をしている青年だが、その内に秘めた魔のオーラはいやでもジャンヌの感覚を刺激する。
(メイザースやレヴィとはまた違った嫌な感じ……まるで手の上で踊らされているような)
ジャンヌの予感は的中した。どこまで走っても出口は見つからない。
「無駄だ。ここは俺の屋敷。そしてお前は俺のもの」
気味の悪い言葉を後ろから囁く青年。気がつかば耳元にまで忍び寄ってきていた。
「……あなた、一応聞くけど何者?」
金縛りにあったように動けなくなるジャンヌ。わかりきった質問で間を稼ぐ。
「よかろう、教えてやる。俺はヘルメス。魔女の第5子にして、強欲の力を母より授かった。ゆえにお前は俺のものだ」
ヘルメスは再度手を伸ばす。そして左手に付いた紋章をジャンヌの首元へと持っていく。
「あら嬉しい、私を貰ってくれるなんて」
ジャンヌは身を回転させ、ヘルメスの左腕を蹴りあげる。そしてそのまま反対の足でヘルメスの顔面に強烈な一撃を浴びせる。
手応えは充分。ヘルメスの口元からも僅かに血がにじんでいる。だが、ヘルメスは引かない。
「この痛みさえも、俺のものだ」
ヘルメスの言葉に一瞬身が硬直するジャンヌ。
「しまっ!!」
ヘルメスはジャンヌの左足に触れていた。紋章のある左手で。その瞬間、ジャンヌの身に異変が起こる。痛みは無い、だがまるで左足を切り離されたかのような錯覚に陥る。
「うっ!」
右足で地面を蹴り、ヘルメスから距離を取るジャンヌ。すぐに足がついているかどうかを確認する。
(ついてはいるわね。でも、感覚がない……)
ジャンヌの左足には黒い紋章が浮かび上がっていた。それはヘルメスの左手についているものと一致しており、どうなってしまったかは容易に想像がついた。
「奪ったのね……私の足を!」
ジャンヌの言葉にニヤリと笑うヘルメス。
「ご名答。お前の足は俺がいただいた」
ヘルメスは手のひらの紋章をジャンヌに見せつける。
「この紋章は異空間に繋がっている。簡単に説明すれば俺の宝物庫だ。そしてここにあるのは物質だけではない。今、お前の足の所有権もこの中へと移動させてもらった」
「なるほどね」
ジャンヌはまったく動かなくなった足をさすりながら呟く。
「さあ、こっちへ来てもらおう」
ヘルメスは指をパチンと鳴らす。するとジャンヌの意思とは関係なく、足がヘルメスの方へと進んでいく。残された右足で必死に抵抗するが、引っ張る力に抗えない。
「無駄だとわかっていても抵抗する。それが人間の美学か?」
「ええ、そうよ。無駄じゃないけどね」
ジャンヌは両手で左足の付け根を押さえる。
「はあああ!!」
ゴキッ! と鈍い音がしてジャンヌの左足が外れる。
「どう……かしら? これでもう動かせないわよ?」
「どうかしてるな」
ジャンヌの苦痛な笑顔を見て眉をひそめるヘルメス。
「お前は俺のものだと言っただろう? 自傷行為は止めていただきたいね」
ヘルメスはゆっくりとジャンヌに近づく。ジャンヌは痛みだけが残る足を引きずりながら後退する。が、ふと立ち止まりヘルメスを睨み付ける。
「なんだ? 観念したか? だがそれでいい。俺は潔いほうが美しいとおもうぞ?」
「おあいにく様。私はそうは思わないの」
そう言ってジャンヌは近くにあったろうそく立てに手を伸ばす。そしてろうそくを抜き取り、その針の先端を自らの首に押し当てる。
「なんだ? なんのパフォーマンスだ?」
ヘルメスは不思議そうな顔でその様子を見守る。
「それ以上近づくなら私は自害する」
ジャンヌは真面目な顔でヘルメスに告げる。ヘルメスは小さくため息を付き、無視してジャンヌに近づく。
「何を言い出すかと思えば、自分を人質にするきか? 話にならない」
グサリ。針がジャンヌの首に食い込む。首元を流れる血を見てヘルメスは足を止める。
「ええそうよ。私はあなたのものなんでしょ? なら充分価値はあるはずよ?」
「正気か? それは全然美しくないぞ?」
ヘルメスはジャンヌの狂気に満ちた笑顔に目を奪われる。
「ええ、醜くて結構よ」
ジャンヌは一歩一歩後退する。
「扉を開けなさい」
ジャンヌの言葉にヘルメスは素直に従う。何もない空間に突然扉が現れ、ジャンヌはその扉の向こうへと進んでいく。
「ありがと」
ろうそく立てを投げ捨て、ジャンヌは姿を消した。
誰もいなくなった屋敷の廊下でヘルメスは座り込む。
「まさかこの俺が奪い損ねるとは」
口元が緩む。
「ふは! ますますほしくなった! ジャンヌ! 必ずお前を奪い去ってやる!」
ヘルメスは大いに笑った。それを見ていたヨハンが顔をひきつらせる程に。




