episode 270 「怪物の涙」
アンはマークとリザベルトの集中攻撃を受けて体積は次々と減らしていった。そして少しずつ形が人間のものへと近づいていく。
「中尉! ここが踏ん張りどころだ! このまま食い止め、溶岩が来たらそこに誘導する、それで終わりだ!」
「はい! 中佐!」
帝国軍六将軍のうち三人の攻撃を受けつつも、アンは前へ前へと進み続けた。一歩一歩這い続けた。マークたちの目からみれば単なる怪物、排除すべき対象。しかし戦いから退き、傍観する立場となったシオンにはまったく別のものに見えていた。
アンからは何の敵意も感じられない。それどころか何の感情も感じられないのだ。それをマークたちに話したら集中しろと叱咤されるかもしれない。
(一体どこを目指しているの?)
アンは闇の中にいた。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。右も左も上も下も自分が誰なのかもわからない。それでもわかることはあった。
(イバル、バルト、レミィ、スパーダ、教官)
自分の名前も姿形もわからないというのになぜか五人の名前も姿も鮮明に思い出せる。
(会い……たい)
「ァァァァァァ!!!!!」
突如怪物が悲鳴を上げる。それを聞いたマークたちは追撃を加え続ける。
「よし、効いている、効いているぞ! このまま攻撃し続けろ!」
マークとリザベルトはほとんど人間の姿となったアンを切りつけ続ける。二人ともシオンのような余裕はなく、帝国のためにと必死でアンの進行を阻止する。
(待ってください、行かないでください)
アンの中から何かが去っていこうとしている。
(私を一人にしないでください)
体が小さくなるにつれて一人、また一人とアンの中から記憶が消えていく。
(待ってください、待って!)
闇に叫び続けるアン。すると向こうの方から一人の人物がやって来る。
「泣いているの?」
シオンにはアンが涙を流しているように見えた。もちろんその理由まではわからないが。
(教官!)
忘れもしないその顔は、自分を育ててくれたティーチだった。
(教官! 教官!)
アンは無くなってしまった体で教官に抱きつく。
「行こうか」
教官の差し出した手を握るアン。
「はい!」
二人は闇の向こう側へと消えていった。
「止まった……のか?」
いきなり動かなくなったアンを警戒するマークとリザベルト。あれほどまでに先へと進もうとしていたアンが今ではピクリともしない。目の前にあるのはただの人間の姿をした死体だった。
「中尉」
「はい」
リザベルトはアンの死体に布を被せる。
「任務完了だ」
マークは剣を鞘に納める。そしてアンの死体を持ち上げ、海の方へと向かう。
「中佐、溶岩へと沈めるのでは?」
リザベルトが尋ねる。
「もういい。どこの誰だかは知らないが、海へと還してやろう」
そう答えたマークだったが、次の瞬間アンの死体を地面へと落とした。
「どうしたのマー君!」
シオンが心配そうに駆け寄ってくる。マーク驚愕の表情を浮かべている。
「今、動いた」
地面に落としたアンの死体は布の中で、もぞもぞと動いている。マークは再び剣を抜く。
「離れろ! 先程違う! 今度は確かに感じる。敵意を、殺意を!」
アンは立ち上がった。いや、それはアンではない。アンの中にあった加護、十闘神アテナの加護。不死身という名の加護が空っぽの肉体を支配し、その体を葬ろうとしているマークたちに敵意を向けたのだ。
劣化品ではあるが、それは最早アテナそのものだった。




