episode 212 「離れた手」
濁流は人々を容赦なく飲み込んでいく。状況がつかめない。なす統べなく流されていく。一瞬のうちに意識が途絶える者。激しい水の流れによって体がバラバラに引き裂かれ、絶命する者。彼らに残された運命はただ流れに身をまかせることだけだった。
上空からその様子を眺める男。人ではない。その証拠に背中から天使のような翼が生えている。
十闘神ミカエル。人々が神と崇める存在。
ミカエルは島の消滅を見届け、何処かへと姿を消した。
島の消滅によって海は大いに荒れた。近くの小島は水没し、動植物の命を奪う。だが不思議なことに別の国に被害が及ぶことはなかった。
ここは何処だ?
ゼロは明かりの無い真っ暗な空間にいた。すぐに地獄ではないかと疑いにかかるが、見覚えのある男の顔を発見し、ここがあの空間であることを理解する。
「よう。久しぶりだな」
「ヌル……」
イシュタルによって埋め込まれた人格の内の一つ、ヌル。一度はゼロの体を乗っとり、支配したもののアーノルトの絶対的な力に怯え、内へと帰ってしまった人格。今になって姿を現したのだ。
「何のようだ」
ゼロはヌルに向かって銃を構える。今までの経験上、この空間でヌルを殺せば再びもとの世界に戻れることはわかっていた。
「それをしまえ。今はそんなことしてる場合じゃねぇ。死にかけてるんだぜ、俺たちは」
ヌルの言葉で一気に現実に引き戻される。逃れようの無い流れに飲み込まれ、流されていくゼロ。あれほど離すまいと握っていたレイアの手はいつの間にか離れていた。
(レイ、ア……)
ゼロの意識は再び途切れる。
(しゃーねぇな)
ゼロの人格がヌルに入れ替わる。
(大事な体だからな、俺にとっても)
ヌルは死に物狂いで濁流を脱する。そして近くの浜辺まで泳ぎ、ヌル自身の意識も途絶える。
「ハァハァ、死ぬなよな。生きて俺に体を寄越せ」
ゼロは見知らぬ民家で目を覚ました。頭が酷く痛い。体も流されているうちに所々打ったのか、うまく動かない。
「おや起きたのかい」
この家の主だろうか。白髪で穏やかそうな表情の老人が話しかけてくる。警戒するゼロだったが、身動きがとれない。
「ここは何処だ?」
「サンジェロさ」
ゼロの質問に老人は快く答える。
「まだ起き上がっちゃいけないよ。生きているのも奇跡のようなものなのだから」
その言葉を聞いて飛び上がろうとするゼロ。だが激しい痛みに襲われ、再び寝床に体を打ち付ける。
「駄目だと言っただろう!?」
手当をしようと慌てて老人が近づいてくる。
「レイアは、レイアは何処だ!」
取り乱すゼロ。記憶が途切れるまで握っていたはずのレイアの手が今はない。
「済まないが私が見つけたのは君だけだよ。少なくとも……生きている人間はね」
申し訳なさそうに答える老人。
「冗談ではない……」
ベッドがら無理やり出るゼロ。足は全く動かない。
「無茶だ! 両足が折れているんだよ? 無理に動けば悪化してしまう!」
ゼロをベッドに戻そうとする老人。だがゼロは抵抗する。
「離してくれ。確かめなければ、俺を拾った場所に案内してくれ」
這いつくばってでも進もうとするゼロに観念したのか、老人は奥から車イスを持ってくる。
「わかったよ。でもあそこは酷い有り様だ。例え君の友人がいたとしても判別がつくかどうか……」
「構わない……行ってくれ」
ゼロは老人に押されて海岸へと向かった。
海岸へと向かう途中、老人は一切口を開かなかった。顔色も悪くなり、よほど辛いものを見たのだということが読み取れる。それでもゼロは申し訳ない気持ちなど一切湧かなかった。それを遥かに凌駕する不安感に支配されていたからだ。
海岸はまさに地獄だった。
おびただしい数の瓦礫と死体。いや、死体というよりは死肉に近い。原型を留めているものはほぼ無く、ほとんどの死体はどこかしらが欠損していた。
吐き気を催す老人。ゼロは死体をくまなく観察する。死体の多くは見知らぬ人のものだった。ほとんどが組織と関係ない近隣の島の住民だろう。だがそのなかにもちらほら見たことのある顔がある。
「エクシル……」
その一つの前で呟くゼロ。間違いなくそれは組織の司令塔であるエクシルだった。何が起きたのか理解していないような表情を浮かべ、手足が無い状態で無惨にも死んでいた。
探せど探せどレイアの死体は見つからなかった。瓦礫や死体の下などまだ探していない部分は残っているが、それ以上ゼロは探そうとはしなかった。老人の体調が明らかに悪いことも原因の一つだが、怖かったのだ。万が一レイアの死体を発見してしまうことが。
騒ぎを聞き付けて次第に人が集まってくる。死体を処理するべく、兵たちもやって来る。
「済まなかった。戻ろう」
巻き込まれる前に退散するゼロと老人。
ゼロの頬を一滴の涙が流れる。
(泣いているのか? この俺が)
不思議そうにそれを手で拭うゼロ。次から次へとそれは流れてくる。
(なぜだ。レイアは見つからなかった。死んではいない……)
考えれば考えるほど涙は溢れてくる。
(見つからなかったんじゃない、見つけなかったんだ! それにたとえあの場に居なかったとして生きている保証がどこにある!)
人目もはばからず泣きじゃくるゼロを心配そうに見つめる老人。だが声をかけることはできない。
「レイア……」
一生分をここで流し終えたのではないかと思われるほど、ゼロは泣いた。手を離してしまった自分のふがいなさ、喪失感、なぜこのようなことが起きてしまったのかわからない底知れぬ不安感に。




