憎キ雨悪シ私
あなたも経験したことがあるはずです。
今日朝を起きると、雨が降っておりました。そのため、いつもは二輪車で最寄りの駅に向かうところ、私はバスで向かうと決めたのです。慌ただしい朝に、少しの厭いができ、いつもより遅めに家を出ました。
すると、目の前の団地から一人のご老人が、階段を降りようとするのが目に入りました。
どうやら、大きな荷物があるそうで、弱々しい足で一歩また一本と降りて行くのです。この団地は多くのご老人が住んでおり、この光景は珍しいということではありません。
私は助太刀するか迷いましたが、雨が力強く降る道路を渡るのも惜しく、バスが私を待つといことはないので、この時間帯なら他の何者かがやってくれると思い、私はその場をあとにしました。
雨というのは憎きもの、傘に当たる一つ一つが、何か意思を持ち、私を襲いにきていると感じてなりません。
バスは到着時刻を数分遅れて来ました。多くの人も、私と同じ考えだったのでしょう。座席は既にほとんどが使用されており、私もなんとか座れる様でした。
一安心したせいか、先程のご老人が気になります。私は普段は早く家を出ます。そのため、ご老人との面識はありません。しかし、この時間帯ならという、不確定なものにご老人を任せてしまったことが、心残りでありました。風は強く吹いていただろうか、風で階段が濡れていないだろうか、窓越しに見る雨は、先程より強く感じられます。
主要なバス停に止まる毎に、多くの人がバスに流れ込みました。私は始点から近い側のバス停だったので、それほど影響はありません。その事に安心していると、私の座席の近くに、ご老人が押し流れてきました。たくましい身体の学生と、サラリーマンの間に挟まる形でおりました。私は座席を譲ろうとしたとき、過去の嫌な記憶が遮りました。
ある日の雨の日、その日も大勢の人で座席はいっぱいでありました。私が座っていると、今ほど乗車してきたご老人が言うのです。
「今の若者は、わしらに席も譲れんのか」
白く染め上がった髪に、広い額と眉間の間に深いシワをあらわにして怒鳴り散らしました。
只でさえ憂鬱で重い空気を、さらにずっしりした空気で満ちていきました。私はすぐに、座席を譲りしました。そのご老人は何も言わず、あたかも当然のように、座席に深く腰かけました。
それを見ていた前席の学生さんが、違うご老人に座席を譲ろうとしたところ、
「私はそんな年老いじゃないわい。席なんて譲らんといてくれ」
と、断ったのであります。ご老人は自分の立場を利用して、非常識で無礼なことを為出かしたのです。
あの時は、さすがの私も苛立ちを覚えましたが、学生さんが深々と謝る姿にその思いを出すわけにはいきませんでした。
私は譲るべきか、譲らないべきか考えました。その間もご老人は、人混みに右へ左へおいやられます。
雨が窓に当たる音が、私をせかしている様でした。そんな中、迷いを断つ声が聞こえたのです。
「おじいちゃん。僕の席使っていいよ」
それを言ったのは年端のいかない少年でした。母親と一緒にデパートにでもいくのでしょう。雨の日なのに、しっかりとした身なりでした。
「悪いね。お言葉に甘えて使わせてもらおうかね」
ご老人が座席に着くと、少年は母親にしがみつき、母親は少年の頭を撫でていました。少年は笑顔で母親を見つめ、母親は笑顔で返しました。その途中、私は少年と目が合いました。私は直ぐ様、窓の方へ目を背けました。少年のその行動がその笑顔が、私の心底を大きくエグルのです。窓に映る私の顔がひどいものでした。まるで、悪魔にでも会ったのかというような、眉間にシワがより、口が歪んでいるのです。
ここで私は、すぐに少年に座席を譲るべきでした。しかし、私の羞恥心が、ちっぽけなプライドが重く口も閉ざし開きません。それに、グショグショに濡れた靴の重さが、追い討ちをかけてくるのです。それは、時が断つほど重く、固くなるのでした。
苦しい空間がそこにありました。私意外の全ての人の目線が私を睨み、全てのものがわたしを悪者に仕立てあげようとするのです。私は自分は悪ではないと言い聞かせました。バスが混雑しているのも、あの時団地のご老人を助けなかったのも、全て雨のせいにしました。しかし、こんなことを考えている時点で、わたしは悪だったのです。
バスの天井から流れてくる雨粒が、窓に移る私の瞼に重なり、そして落ちていきます。まるで、もう一人の私が泣いてるのか、もしくは雨が泣いているのか、ひどく心を打たれるものでした。
私は駅に着く前にバスを降りました。少年に自然かつ、一番自分が傷つかないで座席を譲る方法が、これしかありませんでした。なんて人間は悪き生き物なのでしょう。私は傘をさし、罪を償うかのように濡れた道を歩きました。それに呼応して、雨が強さを増し私に降り注ぐのでした。暗くて深い雲が、いつもより低く感じるのでした。
雨の日憂鬱です。