キミニ、アイタイ
昼間の瑛海との電話でノリはすっかり浮かれてしまっていて、夜にやってくる憂鬱を忘れていた。
すでに憂鬱の正体は目の前に立っていた。
「こんばんは」
ニィッと大きく口元が弧を描いて、ノリは悪寒が走るのを顔に出さないよう、なんとかやり過ごし、今は客として現れた城山にどうにか営業用の笑顔を作ってみせた。
城山はもちろんノリだけを指名する。
常連である城山には誰も野暮な営業はして来ない。否応無しにノリは城山と二人きりだ。
「苺愛ちゃんも飲んでいいよ」
「ありがとうございます。じゃあカクテルで」
ノリは酒を頼むフリをして、基本飲むのはノンアルコールのカクテルだ。面倒な客を前にアルコールは口にしない。
「昨日はビックリしました。この格好じゃないときは恥ずかしいから偶然会っても知らないフリしてくださいねー、見せれませんからー」
笑いながらもやんわりと拒絶する。もちろんハッキリ嫌だと言えるわけがない。
「僕は気にしないよ、大丈夫。そんなことより君のことが心配だから」
──埒があかないとノリは心の中で乱暴に舌打ちした。店の中でなければ、この鈍感な男をヒールの踵で思い切り蹴りつけてやりたい程だ。
「誰も私のことなんて襲いませんよー。そんなモノ好き、せいぜい城山さんくらいですってばー」
最後は嫌味のつもりで言ってやったのだ。なのに城山は口の端をゆっくり釣り上げてノリの左手を握り、寒気のする言葉を吐いてみせた。
「──誘ってる?」
──勘弁してくれ、そして、感謝して欲しいと思った。
客で無ければ今すぐその不気味な笑顔に目潰しを食らわしていた。力の入った右拳を膝の上で震わせながらノリは必死に「まさかー!」とやたらに笑顔と高い声で完全否定した。
60分、今日も延長なしで城山は席を立つ。
店のドアを出る時にやたらとノリの手を触っては、別れを惜しんだ。最後はホールスタッフの男性が、笑顔では誤魔化しきれていないレベルの腕力で押し、城山を力付くでお見送りした。
──ノリの嫌な予感は的中した。
期待していなかったわけではない。それでも、今日はあの男に会わず帰れますようにと出来るだけ祈ったし、願った。──無駄だったわけだが。
「お疲れ様、苺愛ちゃん」
ノリはあからさまにウンザリした顔で城山を見た。こんなことがずっと続くのかもしれないと思うと、やんわりと気分を害さずに拒絶するなんて可愛げのあることをしてやれる余裕なんてない。
「城山さん──本当に、俺ひとりで帰れるんで。こういうの辞めてください──」語尾に迷惑です、と付けたかったけどそれは我慢した。
「いいんだよ、遠慮しなくて。これは僕が好意でやってることなんだ」
「遠慮じゃなくて! 本当に困ります! 俺、困ってるんです。お願い致します、辞めてください」
乱暴な言葉になる前にノリは城山の隣を早足で通り過ぎた。腕を掴まれたくなくて、胸の前でぎっちりと腕組みしながら肩を竦めて逃げる。
見えない後ろが恐ろしかったが、それでも振り返りたくなかった。だが、幸いにも追ってくる足音はしない。
ノリは改札を抜けた時にようやく初めて振り返ったが、そこに城山の姿はなく、安堵のため息を大きく漏らした。
突然ポケットの中で携帯が震えてノリは全身で驚いた。心臓がバクバクと慌てていて、短い息を吐きながら携帯画面を覗く。そして、すぐに応答をフリックした。
「もしもし!」思わず強めに、そして早口になる。
「──びっくりした、なんだよ、そんなデカイ声出して……」
電話してきたのは瑛海だ。今、一番その声を聞きたいと思っていたノリは、思わず涙ぐむ。
「ちょっと……嫌なことあって……。そんなことよりどうしたの?」
「そんなことよりじゃねーよ。嫌なことって? 客か? なんかされたのか?」
瑛海が妙に鋭いところをついてきて、ノリは単純に驚いた。言ってしまおうかと少し揺れたが、話題にもしたくなくてノリは大したことじゃないよと話を終わらせた。
「瑛海こそ、なんかあったの?」
「──いや、なんか改めて。ちゃっかり連絡先交換してたんだな、俺、って思って」
「なにそれ、ちゃっかりって」
ノリは思わず小さく吹き出す。ようやくきちんと呼吸が継げた気がして、ゆっくり胸を撫でおろす。そして、次の言葉を期待した。
「お前さ──、俺と会うの、いや?」
「……なにそのしおらしい言い方、気持ち悪い」
憎まれ口を叩く口とは裏腹に、ノリは勝手に頬が緩むのを誤魔化せない。
今すぐ会いたい。漠然とそう答えたくなった。素直にそう答えるのは癪に触って、でも明らかに胸は高鳴って温度をどんどん上げていく。
「知らないよ? 俺に会いに来たら次こそ襲われるかもよ」
「へぇ、お前みたいなひょろひょろの体に俺がやられるとは思えないけどなぁ」
ノリの憎まれ口に瑛海も同じように挑発して返してくる。ノリの色白な頬はすでにほんのりピンク色に上気し、口元の綻びはもう治すことが出来ない。
「今、駅か? 仕事先の方?」
「うん、まだ電車乗ってない」
「俺も電車乗るよ。上りで行くから、ホームで会おう」
「──うん」
もうわざと嫌味を言うのも辞めた。素直に瑛海が「会おう」と言ってくれたから、それだけでノリの気は済んだ。
極力階段付近の、人通りがあるベンチに腰掛けて、ノリはジッと瑛海がやってくる上り電車を眺めながら到着を待った。終電間際の上り電車は降りる人もまばらだ。
一本見送って、次に来た電車のドアが開く。背が高く、体つきの良い茶髪の男が出てくるのがすぐ見えた。
嬉しがって飛び跳ねたら瑛海にまた嫌味を言われる。だけど頭より先に体が反応していたらしく、飛び跳ねた瞬間、瑛海と目が合った。遠目に見ても瑛海が吹き出したのがわかって、ノリは照れ隠しに?を膨らませ視線を外した。
「お待たせ」瑛海は自然に、自分より頭一つ分小さなノリの頭にポンと手を置いた。
「待った、すげー待ったから」
それでも、手を跳ね退けることは出来なくて、口だけでも悪ぶってノリは一度だけ合わせた目線をまた逸らす。
不意に引き寄せられてノリは目を大きくした。
ギュッとノリの体は瑛海のしっかりとした体の中にすっぽりと収まってしまった。ノリは耳まで一気に赤くした。
「な、な、なにっ、ちょっとっ、ここホームっ、人……」
違う、まわりのことじゃなくて、そこは「何してるんだ、離せ」と嫌がるところだ。だけど──。
この体に触りたかった──。
ずっと、ドアの隙間から手を握られて、あの夜からずっと、この男に会いたかった。悔しいけれど、会いたかった──。
ノリは最初だけ抵抗するフリをしてみたものの、すぐに大人しくなって、ずっと欲していた男の体を抱き返して、その温度を全身で噛み締めた。
「瑛海……会いたかった……」
もう楽になりたかった。素直に本心を漏らして瑛海に知って欲しかった。自分がどれほどこの温度を求めていたか。この腹の立つ男にぶつけてやりたかった。
何にも答えないかわりにノリの体に回された腕の力が強くなり、ノリは、込み上げて来そうな涙を必死に堪えた。