フオンナ、カゲ
「──俺はなんでまたここに来たかなぁ……」
瑛海はノリの部屋の前で一人唸った。
中にはきっと店で見た下心丸出しのすけべ野郎がいて、今頃ピロートークの真っ最中……。そんな恐ろしい想像ばかりが頭をよぎるが、瑛海はインターフォンを馬鹿みたいに力強く押した。
「──何?」
スピーカーから露骨に嫌そうな声がした。しかも冷たい一言だ。相手が瑛海とわかっての態度なのだろう。
「夜中に……ごめん」
「だから──、何」
ノリが冷たいのは当然だ──。
瑛海はノリを拒絶した。女だと勘違いして口説いて、男だとわかった途端跳ね除けた。ノリが怒っても冷たい態度を取ってもそれは当然なのだ。
なのに、なぜか瑛海は諦めきれない。自分にもう一度、優しくして欲しいと身勝手な事を思ってしまう。
「ひとり……か?」
「──だったら?」
「ひとりなのか、そうか、良かった……」
考えるより先に、勝手に声に出た。なぜか、ひとりという言葉に安堵してしまった。思わぬ言葉に驚いたのか呆れたのか、ノリは無反応だった。
ガチャンと鍵の開く音がしてチェーンの掛かった扉の隙間からノリの丸く大きな瞳が見えた。
「──何笑ってるの」
真顔のノリにそう言われて、自分が笑っていることに初めて気付く。
「ううん。なんか顔見たら安心して」
「何ソレ」
「うん。本当に、なんだろな……」
10センチそこそこの隙間に向かって、瑛海は右手を差し出した。その手を目線で追うノリの顔は、未だ怪訝なままだ。
「挟まれても知らないよ」と、ノリはふくれっ面で言い捨てる。
「手、触らせて──」
何をぬけぬけと、ノリの目がそう言っている。それでも瑛海は出した右手を収めようとはしない。
渋々、華奢な右手が少し伸びて来たのを瑛海は先にこちらから捕まえに行く。驚いたノリの肩がビクリと跳ねた。大きな手がノリの手を強く握りしめる。その事実を、視覚と触覚を、瑛海は満足そうに噛み締めた。
その顔をチラリと盗み見て、ノリは悔しそうにはにかんだ。
「じゃあ、おやすみ……」
手が離れていくのをノリは名残惜しげに目で追って、その先の顔を覗いた。目が合った瑛海は優しい笑みを残すと、あっさりと背中を向けた。
マンションの外階段をリズミカルに降りていく音だけが遠退くのを、ノリはドアを閉めずに、それが聞こえなくなるまでじっと耳を澄ませた。
「馬鹿男……」
ポツリとノリの呟きの後に、鍵の閉まる音が廊下に響いた。
翌朝、瑛海が貸しスタジオに着くと、自由が子供のようにはしゃいで出迎えて来た。
「えーみ! 大ニュース! 俺たちスカウトされましたー! 乾杯しよー乾杯ーッ!!」
「いや、お前まだ未成年だろ」と思わず冷静にツッコミながら瑛海はようやくスカウトという言葉に気が付いた。
「スカウトって……、え? バンドが?!」
「そうだよ! この間の対バン見に来てた人が業界の人だったらしくてぇ! 俺たちにデビューしてみないかって! すごくねぇ?! 俺たちとうとうメジャーデビューだよ?!」
自由は手に持ったノンアルコールビールで酔ってしまったのか、バシバシと瑛海の頭を叩いてくる。痛さも自由の言ってる言葉もいまいちピンとこなくて、瑛海は案山子のように固まっていたが、ジワジワと言葉のすごさを実感し、突然大声で叫ぶと自由の身体を持ち上げ、ぐるぐると勢いよく回した。
あまりにも振り回し過ぎて、他のメンバーにビールがかかって大非難を浴びる。瑛海は盛り上がり過ぎて最後は自由と一緒に床に転げ落ちた。
「──なに」
それしか言えねーのかよと、喉まで来ていた言葉を瑛海は飲み込んだ。電話の向こうの相手の声は相変わらず無愛想だ。
「俺さぁ、デビュー決まったの! すごくない? 明日から俺も有名人!!」
「──デビュー……」
「そう! メジャーデビュー! 俺もとうとうテレビも出ちゃうんだよ!」
テンションの高い瑛海とは裏腹にノリはやたらと静かな反応だった。可愛くねぇなと、もう少しで口を吐きそうになるのをノリの言葉が止めてくれた。
「すごい……おめでとう。すごいね! すごいじゃん! おめでとう!」
ジワジワと喜びの波が押し寄せるように、ノリの声も明るさが次第に強くなる。同じ言葉の連続なのに、なぜだかノリの真っ直ぐな言葉に感動してしまって胸が熱くなり、思わず「お、おう」と間抜けな返事しか言えなかった。
「誰かにお祝いしてもらった?」
「今して貰った。お前に」
「──ふ、ふぅん。めっちゃ幸せ者じゃーん」
「ぷっ、下手くそな、お前」
ブツン! と荒っぽい音で突然電話は切られた。それでも瑛海はひとりで肩を揺らし、しばらく笑い続けた。
「お疲れ様でした」
ノリは更衣室の中で、自分と同じく、女から男へ変身を解く従業員たちに声を掛け職場を後にした。
すっぴんに度の入っていない大きめの黒縁眼鏡を掛けたノリは、スマホの画面を覗きながら駅へと歩き始めた。
「お疲れ、苺愛ちゃん」
街灯の下でいきなり人影に声を掛けられ、一瞬、ノリは声を上げて驚きそうになった。
「し、城山さん……」
城山は週に4回は店にやって来て、ノリばかりを指名する客だった。足繁く通ってくれる良い客ではあったが、羽振りはそこまで良い方ではなく、毎回1セット60分できっちり帰って行く。ノリの出勤には殆ど来店しているので、ここ最近は話題に困り、城山の何年も前のつまらない自慢話をひたすら聞くことに徹していた。
「仕事、今日も遅かったね。遅くまでいつも大変だね」
「いえ……そんな……」
城山の物言いがやや引っかかるものの、早く会話を切り上げたくて、ノリはとりあえずの笑顔を見せる。
「こんな暗い道、一人じゃ危ないよ?」
「駅、すぐそこだし。大丈夫ですよ。あの、俺、電車の時間あるんで、もう──」
勝手にそう切り上げて、さっさと通り過ぎようとすると、城山はすれ違いざまノリの腕を急に掴んで引き止めた。
「なんですかっ」
恐怖からか、ノリの顔は明らかに引きつっていた。
「送るよ、ね? 危ないから」
「大丈夫です、俺男だしっ、あの離してっ──」
「君の為を思って言ってるんだよ!!」
人気のないの暗がりに、城山の怒号が響いた。ノリは完全に萎縮してしまって声を失い、身の危険を感じてそれ以上抵抗するのを諦めた。
駅まではずっと城山に手首を握られたままだった。潔癖症でもないのに、城山の手汗が今は酷く気味悪くてそればかりに気をとられ、城山がひとり、揚々と話す内容が全く頭に入ってこなかった。ただ、必死に相槌を打っては誤魔化した。
──早く、早く駅に着いて欲しい。
ノリの頭の中はそれしかなかった。
ようやく駅に着いてノリは胸を撫で下ろす。
「ありがとうございました。じゃあ……」今度こそはと、ノリは少し早口で会釈した。
「おやすみ、苺愛ちゃん。また明日ね」
「──明日?」
「さあ行って。改札を抜けるまでここで見ててあげるから、ね?」
今度は両手を握られ、反射的に振り払いそうになるのを我慢する。うまく作れなかった笑顔を見せて、足早にノリは改札を抜け、ホームへ逃げた。
ホームに着いてからも後ろから着けられてはいないかと、電車に乗るまで何度もあたりをキョロキョロと見回した。
乗り込んだ電車の中でノリは、まだ早い鼓動を打つ胸に手を置いて城山の言ったことを反芻した。
──明日って……来店するってこと? それとも、また……。
ドアに凭れかかり、ノリは憂鬱そうに重い溜め息をついた。
その夜、瑛海は来てくれなかった。
それが当たり前だとしても、今日こそ来て欲しいとノリは思った。玄関のドアの向こうに今でも城山が立っていそうで、ノリは物音にやたらと敏感になって、窓の外が明るくなるまで眠りにつくことが出来なかった──。