コイノ、ハジマリ
「瑛海、どーしたの。顔」
その事件の二日後、スタジオでバンドのボーカルである自由に、まだ完全に腫れの引かない頬を突っ込まれた。
「──まぁ、イロイロありまして……」
「打ち上げで一緒に帰った女の子と喧嘩したの? まさか彼氏と鉢合わせとか!」
あれは女でなくて実は男だったし、いざコトに及んだ途端、俺はさっさと寝落ちしてしまったし、その男にメソメソ泣かれて、キレられて、挙げ句の果て思いっ切り殴られたんですけど──なんて、超展開過ぎて話せない──ので、
「まぁ……イロイロ……な」と瑛海は苦笑いしながら割愛した。
瑛海はバイト先である深夜のコンビニで、バックヤードから冷蔵庫の陳列棚に缶コーヒーの補充をしていた。
なぜかあの朝からずっと、頭の中はノリのことで埋まっていた。あの泣き顔が……あの悲壮な声が頭から離れてくれない。缶を棚に置いた瞬間、隙間から見たことのある人物が立っていて、驚きの余り心臓がギュッと縮んだ。
──ノリ……。瑛海は思わず息を止めた。
ノリは勤務時の服装、つまり女の姿で立っていた。その隣には自分より確実に年上の知らない男の姿──。
「ねぇ、本当に苺愛ちゃんのお家行っていいの?」
馴れ馴れしく男はノリを源氏名で呼びながら肩に手を回すと、鼻の下をだらしなく伸ばしてノリに顔を近付けた。
「うん──」
その言葉になぜか瑛海は失望した──。
自分にとってノリは、何の名前も持たない程度の関係の筈なのに、ノリが男と見れば簡単に着いていくような尻軽なのかと思うと無駄に腹が立った。
繊細ぶって、泣いて傷付いたフリして、これが本性なのかと苛立ちが手に出たのか、缶を置く時に大きな音が出た。音に驚いたノリと目が合ってしまった。
ノリは予期せぬ再会に、あの大きな瞳をさらに大きくしていた。
「苺愛ちゃん! 待って!」
ノリが踵を返して店から出ていくのを、慌てた男が追って行く。瑛海は自動ドアが完全に閉まるまで、その背中を目で追った。
「──なんなんだよ、クソ……」
きっとノリは欲求不満だったのだ。自分とヤレなかったから、他の男で手を打っているのだ。
ノリを男だとわかっても、受け入れ抱いてくれる代わりの男を探したのだと、瑛海は、丸呑みした何かが腹の中で消化不良を起こすのをわざと無視した。
バイトの帰り道、店から飛び出していくノリの後ろ姿が瑛海の中で何度も蘇った。
「今頃……ヤリまくってんだろうな……」
ノリと初めて会ったあの夜──。瑛海は酔っていた。
泥酔とまではいかないが、ずっと笑っている程度には酔っていた。
隣に腰掛けたハーフ顔の美人……ノリが、座って酒を汲んでくれた。本物の女みたいに良い匂いがした──。
田舎から出て来て、バンドメンバー四人で一つの安アパートに住んでいる。貧乏で大変だけれど、ドラムを叩いている間は何よりも幸せで、その時抱えてる苦しいことを全部忘れられると、瑛海は話した。
ノリは呂律がちゃんと回らない瑛海の話をうんうん、と穏やかな笑顔のままじっと聞いてくれた。「すごいね、将来は有名人だね」とか、よくある薄っぺらい褒め言葉だと思ったけれど、ノリの優しく穏やかな声色のせいで、本心から言っているように思えた。
「──きっと大丈夫。瑛海さんは絶対に夢を叶えるよ」
何の根拠もないのに、ノリは瑛海の手を握って何か確信でもあるかのように、真っ直ぐ目を見つめて、優しく笑ってみせた。
男なんて単純だ。同性だと忘れていた自分はまんまとそんなノリにコロリと惚れたのだ。
瑛海は星の見えない暗い夜空を見上げて、深く溜め息をついた。