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春髷丼

作者: ぬぬぬ

まげ、ぷちぷち、炊飯器


 花嫁修業ってことで料理を始めるとして目玉焼きも作ったことのない私が果たして一体全体何を作れるだろう。

  料理の題材、何を作るかって点で候補は山のようにある。

  それこそテレビで料理番組を欠かさず見れば一日三回くらい題材を目にするし、初心者料理なんてものをネットで検索すれば山のようにヒットする。

  それら有象無象、砂漠の砂粒からどれを拾うかってのは意外と命題だ。

「今度何か作りますよ。何が食べたいですか?」

 と、花嫁修業を始めるに至った動機、根本原因、初恋を叶えてお付き合いするに至った初芝君に問えば、初芝君は相も変わらない澄ました顔で言った。

「ぼくは春髷丼が食べてみたいな」

「……………………」

 幾許かの沈黙があったのは揺るぎもない事実だ。

  かねてより私は砂漠の砂粒からどれを拾うのか、考えに考えあぐねるほど考え、さてどうしたものかと悩んできいた。

  つまり決断に至らないまでも候補は山ほど、砂漠の砂ほどあったのだ。

  だがしかし、如何せん、初芝君の挙げた謎の固有名詞は聞いたことさえなかった。

「……はるまげどん、ですか」

 もしや私が無知なだけで、これから花嫁修業を始めようって輩には存外なだけで、巷の麗しきレディには周知の固有名詞なのだろうか。

  あらあら、あなた、はるまげどんも知らずに料理を始めるおつもりかしら?

  そういった手合いのものなのだろうか。

  私は自身の恥に触れ、やや頬と耳たぶを赤くしながらも、固有名詞を呟いた。

 我が居室の豚の顔を模した座布団に座し、向き合う初芝君がさらりと頷く。

「そう、春髷丼。あれはなかなか難しそうでありながら独創的で、且つ興味を惹き、どのような味がするのか、見た目からも食欲をそそられそうな一品だよね」

「…………はるまげどんが、ですか」

 私の頭の中はぐるぐると回転していた。

  難しそうで独創的、尚も興味を惹きつつ味への期待も持たせる、そして食欲さえそそられそうな一品ってどんなものだ?

  口ぶりから察するに初芝君は一度として食べたことのない、けれど知っている一品っぽいものの、字面からして何らイメージが出来ない。

  例えば初めてハンバーグを聞いたようなものだ。

  ハンバーグとは今でこそ家庭料理の定番、お弁当のおかずにすら入っている一品でありながら、知らなければ、聞いたこともなければ、どのような固体なのか、味は、見た目は、香りは、その他一切合切があやふやだろう。

  そう、料理ってのは字面から想像できるものばかりではない。

  初芝君のはるまげどんは、正にその領域に他ならない。

  いやしかし、待てよ? とも思う。はるまげどんと平仮名で解釈しているせいで何ら不規則ながら、ハルマゲドンとカタカナにすれば、何らかイメージは湧かないか?

  湧いた。

  そう、それは終末のイメージ。

  人類滅亡とか地球爆発とか、そういったイメージ。

  そういったイメージから察するに、ぶちまけられたご飯の中にありとあらゆる具材、数多の肉や野菜が木っ端となり振り撒かれ、様々な調味料がさながら混沌の如くぶち撒かれ、融和するでもなく、ただ漫然と散らばっているような――

「……チャーハン、みたいなものでしたか」

 さながら目玉焼きくらいしか作ったことがありませんを虚偽するような物言いに対し、初芝君は細長い首を傾げた。

「いや、似ても似つかないよ。丼物だからね」

「……ははあ、はるまげ丼、ですものね」

 呟き、なるほどなるほどと内心で繰り返す。

  はるまげどんの正しき名称が平仮名かカタカナかはさておき、どんの部分は丼、つまりは丼物であることが分かった。

  そう、天丼、親子丼、カツ丼と、そういったものに分類されるようだ。

  はて、そう考えると天丼、親子丼、カツ丼と初めて聞いたとして、どのような料理なのか、さらりとイメージできるだろうか。

  天丼、天ぷらを乗せた丼物かしら。

  親子丼、卵と鳥を乗せた丼物かしら。

  カツ丼、カツを乗せた丼物かしら。

  いやいや、意外と難しい。カツ丼ならばともかく、親子丼となると一休さんの如く頭を捻り、とんちもさながらに到達しなければならないだろう。

  はるまげ丼。

  せめてもう少し、ヒントが必要だ。

  と、私が頑なにさも自然な様相で「今度何か作りますよ。何が食べたいですか?」と問うたのは花嫁修業の出発点、まさか目玉焼きくらいしか作ったことがないと露呈しない為に裏で影で必死に練習をしようと心掛けたものであるが、まさかこのような事態を招くとは挙句に想定外で、私はとにかく必死だった。

  何とかばれずに、目玉焼きくらいしか作れぬとばれずに、ああ、はいはい、はるまげ丼ですね、と相槌を打ちたい。

  故に私は背筋を汗で濡らしながら、微苦笑を披瀝した。

「……そ、そういえば、あれって……はるまげ丼って、どういう漢字なのでしたっけ。聞くばかりで、ついつい字面を忘れてしまいまして」

「え、君は春髷丼をよく聞くの?」

「え」

「え?」

 はるまげ丼って、よく聞きもしない料理を初芝君は求めているのかしら。

  それとも何か特別な料理、例えば満漢全席、或いはフォアグラやツバメの巣の如く、巷で食べたと聞きはしないものの一度は食べてみたい理想の料理的な何かだろうか。

  されども私よ、もう後戻りは出来ないのだ。

  言い聞かせ、中空に視線をそらす。

「……いえ、以前誰かが……そう、姪だったか姉だったか母だったか、誰かが頻繁に、食べたいものだと言っていたような気がしなくもなく……」

「ははあ、僕と同じに魅せられたんだね」

「…………その可能性も捨て切れませんね」

 一体全体、私はどうして汗だくなのだろう。

  浮き上がる汗は額を濡らし、黒髪を貼り付け、首筋さえ黒くぺたりと染まっているに違いない。よもやシャツが透け、七割ほど見栄で着けているブラジャーの線までくっきりとはいかないまでも、どうしたところで逸脱できない汗臭さは散布されているかもしれない。

  はてと浮き上がるのは恥辱ではなく、聞き覚えのある言葉。

  一つの嘘をつくには約三十の真実が必要となる。

  私は決して、決して初恋の相手、初芝君に嘘をついているわけではないけれど、ブラジャーと同じに些細なほどの見栄を張ろうとしている。

  ならば誤魔化しを嘘と仮定すれば、そこには約三十の真実が必要なのかもしれない。

「…………ちなみに、先程の問い、漢字だとどう書くのか、その答えは持っているのですか? すっかりと失念したもので……」

 嘘ではない、真実だ。

  はるまげ丼をどのように書くものか、私は知らない。

  知らないを失念と誇張したくらいで嘘と言われるのなら、私は容赦のない矢面に立ち、幾千ばかりの矢で串刺しにされよう。

  えてして初芝君は変わらずの澄ました顔を続けている。

「季節の春に、まげを結うの髷、そして丼で春髷丼だね」

「…………ははあ、春髷丼、でしたか」

「そう、まさしくだよ」

 春に髷に丼。

  親子丼が小さな子供のように思えてくる例えに、くらっとくる。

  春に髷に丼。春に髷に丼。春に髷に丼。

  いとおかし、って枕詞をつければさぞかし風流に満ちそうな組み合わせだ。

 しかし救いはある。

  それはつまり、どうしたところで、如何せんに丼物ということだ。

「…………あれはー……ええっと、ご飯が肝になりますね?」

「ううん、なかなかに正鵠を射ているね。あれほどご飯が重要になる料理は他にないんじゃないかってくらい、ご飯は肝、重心の中央みたいな風情があるね」

「……炊飯器は欠かせないものですよね」

「そりゃ、もちろん、重要なのはご飯だもの。欠かせないさ」

「…………あとー……髷も、大事な一要素ですよね」

「ははあ、そう捉えるかー。僕としては髷は付随物って印象なんだけど、やっぱり実際に作る人にしてみれば、大事な一要素なのかもしれないね」

「……ま、まあ、作る上では、髷ですし……手間が必要なものですから」

「君は何時だって正しいものだよ。確かに単純に乗っけるものといっても、髷を作るのは大変な手間が必要だものね」

「…………ですよね」

 私は今にも破裂しそうだった。

  例えば私が風船ならば、今はもうぱんぱんに張り詰め、あと寸分の供給がなされたなら破裂するくらいだった。

  春髷丼。

  ご飯に髷を乗せる。

  髷は手間が掛かる。

  こうなったらもう、挑戦せずにはいられない。

「……ちなみに春はー……どういった按配がお好みで?」

 それはもう、一つの、最大限の賭けみたいなものだった。

  髷が乗せるものであるなら、きっと春も乗せるものだろうと、ただ一点、乗せる以外の何かしらの情報を得ようという、浅ましくも冒険心に満ちた賭けだった。

  初芝君は胡坐に腕を組み、実に悩ましげな姿を見せた。

「もっともな問いだね。いや、僕としてはもちろん、ずるずると啜れるような、いわゆるラーメンであったり蕎麦であったり、麺類と同系なものとして期待すべきもあるのだけど、ご飯との食べやすさを鑑みた場合、やはりぷちぷちと、一口ごとにぷちぷちと断絶されるような、ご飯との調和を弁えたような頃合で食べてみたいな、と思ってるんだ」

「………………ははあ、そうなんですかー」

 ちらと視線を下げれば私のシャツは真っ白で肌にみっちりと張り付いているものの、汗腺の好都合というのか、さながら絶壁を思わせる箇所に汗は満ちていないらしく、ややたぷんとしている腹部だけが肌の色さえ露にしていた。

  ははあ、春はぷちぷちと途切れるのがお好みでしたか。

「…………ええっと。では総合するに、作成を試みるに重要な点として、まずは炊飯器でご飯を準備し、ある程度の手間を用いて髷を作り、ご飯に乗せ、そこに且つ、ぷちぷちと途切れるような春を乗せる、のですね」

「いやはや料理上手を披瀝するだけはあるね。そうそう、そういった点が非常に重要で、期待値を跳ね上がらせるんだよ」

「………………はい。はい」

 そういえばつい先日、「今度何か作りますよ。何が食べたいですか?」と宣告した際、「私って見た目に違わず料理上手なんですよ」と嘯いたっけ。

  一つの嘘には約三十の真実が必要だから、ええっと、後いくつの真実が必要なんだ?

  もはや私はぱんぱんだった。

  或いはそう、精神的なものをいえば、ぺしゃんこだったのかもしれない。

  きっとテレビの通信販売の布団を圧縮する器具を勧める人だったならば、今の私を見てこう言っただろう。

『あらまあ、こんなにぺしゃんこ!』

 向かい合う初芝君。

  私は著しく、ぱんぱんになりつつぺしゃんこになっている。

 いやはやはてさて、どうしたものか。


 つまりは春髷丼ってのは、春、春雨を存分に用いつつ髷、それは巻き寿司であり、海苔を巻いた様があたかも髷に見えるという観点からの冗句めいたものであり、それを丼の飯に乗せた料理こそが春髷丼で、一体全体、どこの地方の料理かといえば空想の産物で、とある作家が妻を笑わせる為に語った小説の一文らしい。

  何と波乱万丈、阿鼻叫喚のさながら、予測の果てに知らず作っておっかなびっくり差し出した際、よもや正解とは思っていなかったのだけど真実を吐露される前に、食した初芝君は言った。

「ん、意外と美味しいね」:

 それだけで天国に達し、ぱんぱんに膨れ上がり、ぺしゃんこになり、図らずも極上と思われる笑顔をすかさずに披露したのは計算外だった。

  無論、初芝君がその笑みを受け、ぽっと赤くなったのは計算外で、真相を聞かされながらも私が抱いていたのは誇りだったとは、およそ誰一人、知る人はいないだろう。

とある小説で見掛けたものの、実際にある料理なんだろうか。

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