研究
九尾の影が現れます
相馬聡は、月曜日の朝早くに家を出た。
助手席には書類やデータの入ったヨレヨレの鞄が置いてある。
子供に戻った様なウキウキドキドキした気分でハンドルを握っている。
聡は、洋服や持ち物、車に至るまで全く興味が無い男であった。
13号線を北に抜けて大学に向かう、朝の7時だと言うのに天王寺の交差点がえらく混んでいた。
車の横を路面電車、通称チンチン電車が何台か通り過ぎる。一両編成の鉄の塊だ。
何時だったか、この路面電車とダンプカーが衝突した事があったがダンプカーがぐしゃぐしゃに成ったにも関わらず、路面電車は、脱線すらして無く、ペンキが剥がれただけだった。そんな事や、妻と初めてデートした喫茶店はもう無く、新しいビルが建ち表通りは、あの頃の雰囲気は残ってはいなかった。
(少し、寂しいな)1人で車に乗るとついつい思い出してしまう。
「優子があんなに大きくなったんだ、俺も年を取った、あいつはどんな男を選ぶのだろうか、よしんばその恋が実り幸せな結婚生活を送って欲しいなぁ、お前」ハンドルを少し左に切りながら独り言を言った。
車は、谷町筋を北に走って行く。
大学に着いた聡は、車から降り、研究室に急いだ。
研究室のドアを開けると助手や学生が「教授、早いですね、おはようございます」と挨拶して来た。
「おう、遂に発見した。この今まで取ったデータに隠されていたんだ、これで研究が新たな方向にようやく動き出せる。君達のお蔭だ。このデータを纏め上げるのを手伝ってくれ」と叫んだ。
研究室の助手や学生達が傍に集まって来る。
「これ、を透かして見て呉れ」聡が言う。
助手にグラフを渡す、「何で気が付かなかったんだろう」透かした助手が言い、学生達に回す。
「まぁ、俺も何度も見てるけどこの部分は、見てなかった。試験が始まる前の事だからな、試験、試験で頭が一杯で装置を被験者に装着させた直後から座った所なんて誰も見ないよ」聡が言い、
「さぁ、これを纏めて行く、奥の部屋に居るから又、何か思いついたら遠慮無く部屋に入って来て呉れ」
言い残してドアを開けて行ってしまった。
椅子に座った聡は、「さぁ、遣るか」と上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り、机に向かった。
朝起きた優子は家の中を走りまわっていた。
「やばいよ~、遅刻しちゃうよ~、お父さんもう行っちゃたよ~」
リビングのテーブルの上には、トースト、コーヒー、オレンジジュース、サラダ、が並んでいる。
「お父さん、ありがとう、頂きます」とトーストを咥えながら洗面台に走り、髪の毛をセットして、又、戻って来て、コーヒーを一気飲みし、サラダを掻き込んでオレンジジュースも一気飲みし、黒の革のつなぎのチャックを締めながら小走りに玄関に向かう。
玄関でヘルメットをひったくると玄関のドアを勢い良く開ける。
「わ、びっくりした」御手伝いさんと鉢合わせになりぶつかりそうになった。
「わ、ごめんなさい、よろしく御願いします」優子は、ガレージに走りながら後ろを向いて言う。
上着のジャケットからキーを出し、バイクにキーを差し込む、少し大きなカバンを後部シートに設置したゴムネットの下に押し込んで固定する。鞄には、会社の制服が入っているので少し大きな鞄だ。
ヘルメットを被る。此の為に伸ばしていた髪を切ってショートカットにしていた。
バイクをガレージから出し、跨ってキーを捻る。
液晶パネルにランプが点く。
左手を握ってクラッチを切ってスターターボタンを押してセルモーターをまわす。
マレリ製電子制御燃料噴射がガソリンを送り込んで行くとボア径94mmのシリンダーの中をピストンが61,2mm上がり圧縮比13.2 : 1の圧力を発生させる。
楕円形スロットルの内部を空気とガソリンが竜巻の様に流れだす。
テスタストレッタ11度、L型ツイン2気筒 4バルブ デスモドロミックエンジンが咆哮を上げ息づく。目の前の液晶パネルの回転数が跳ね上がりゆっくりと下がって行く。
右の手の平をゆっくりと下方へひねりアクセルを開けて左のクラッチを繋いで行く。
ドゥカティ、ストリートファイター848がメカノイズを発生させながら発進して行った。
聡は、計算機を叩きながらレポート用紙に数値を書き込んで行く。
そしてある一点に気が付く
(こ、これは何だ)もう一度、すべての数値データを見直す。
そこには、装着した瞬間の数値が、小数点以下2桁まで全く同じだった。
スイッチを入れた瞬間、跳ね上がる、これは、電流が流れた瞬間の数値として解る。
だが、それが落ち着き、3~5分の間に一回、跳ね上がる。
聡は、装着者の名前を見る、毎回違う学生が担当していた。
被験者は、当然、全員が違う名前が被験者本人がサインしている。
聡は、ビデオを見てみようと思い、パソコンに向かい試験室入室から装着し、着席するまでの映像データに数値化したグラフを打ち込みし、助手と残っている学生を部屋に呼んだ。
集まった全員に説明し、パソコンからテレビ画面に映像とグラフを一面表示する。
「まばたき・・・でも無いですね」学生の1人が言う。
「視線が全員、同じ所を見てませんか? 気のせい?」違う学生が言った。
「何、本当か、もう一度、全員、其処に注目して呉れ」聡が言う。
パソコンを操作して最初に戻す。
ビデオが映し出される。最長30分程度に短縮してある。
唾を飲む音が聞こえた。全員の目が被験者の目の動きを追う。
画面の中で被験者達は正面やや上辺りを見ていた。
数値ピークと全く同じタイミングで全員が同じ目線で見ている。
「本当だ、この位置って」と言いながら全員が試験室に移動する。
「教授、このシミじゃないですか」学生の1人が言う。
聡は、被験者達の座る椅子に座り、この視線だと言って脚立を持って来る様に指示する。
学生の1人が脚立を設置し、脚立に上ってカメラの位置まで上がる。
「カメラを」上った学生が言うとカメラを助手が渡し、シャッターを上った学生が切った。
脚立を降りた学生が、「教授、これを」カメラを渡す。
カメラの液晶を見た聡は、「そうだな、あのシミだ」とシミを指差した。
「あんなシミありました?」助手が言うと全員が「さぁー、覚えがないな」と答える。
「何か動物に似ていません」女学生が言うと
「そうだな、此処が足っぽい4つ足だが、体よしっぽのバランスが可笑しいよね」
「身体と同じぐらいのしっぽみたいだ」
「8cm角ぐらいの大きさだな、でも何でこれがそんなに気になるんだろうか」
「うーん、一度、電話で被験者に聞いて見て置いてくれないか」聡が言うと
「わかりました。今日中に全員に聞いておきます」助手が答え、学生達に
「みんな、大変だろうが宜しくお願いします」と言い、リストを開き綴じしろを解いて、渡して行く。リストを受け取った学生達は次々に机に向かい電話を掛け始めた。
女学生が3人集まって壁のシミを見ながら
「ねぇ、何かに似てないかな」
「何か気になるよね」
「わかる、わかる、私も気になってた」
「何だろ、この感じ」
「だよねー、此処だけ妙な違和感があるよ」
「あ、教授、鉛筆で落書きしても良いですか」「チョット貴女、何言ってるの」
聡が「何か有るのかい」と聞くと
「このシミの形、が気になって」
「うーん、確かに気になるね」
「でしょ、なぞって見ようかなって思って」
「心理学の図形に似ているね、良いよ。君達のインスピレーションで描いてみなさい」
「教授、マズイですよ」助手が割り込む。
「鉛筆なら良いじゃないか、もしかしたら凄い発見に成るかもわからないよ」
「ありがとう、教授」と言いながらカバンを引き寄せ中から鉛筆を取り出すとなぞり始めた。シミの外形をなぞり終わると
「やっぱりココって足だよ」
「で、ココがやっぱ 頭だよね」
「何か、見たことない?」
「動物図鑑?」
「違うよ、そんなんじゃ無いよー」
「鉛筆貸して、この後ろの尖ってる所からこう波線を描いて行くと」
「あ、私、解ったー」
「九尾狐だー」
「スッキリしたね〜」
「何だっけ、たま、玉御前だっけ」
3人が聡の部屋に駆け込んで行く。
「教授、わかりました九尾狐です」
「?九尾狐?」
「玉御前です」
「おいおい、其れを言うなら玉藻御前だろ」と言いながら3人に付いて行き、壁を見た。
「えらくハッキリと描いたな」
「違う、私達、こんなにきつく書いてない」
「ホントだ、濃く成ってる」
「・・・」
「どう言う事?」
「うん、判んないけど・・・怖い」
「え~、オカルト!」
聡が消しゴムを持って「良いじゃないか、消してみよう」と言い、壁のシミ全体をゴシゴシと擦る。
ゴムカスが黒くなって壁の汚れと鉛筆の跡が削り落とされていく。
するとシミも薄くなっていった。
「ふぅ、シミも消えたんじゃないか」聡が言うと
「本当だ、何だ、良かった」
聡が時計を見て「お、もうこんな時間か、私は、講義に出て来る、その後、少し寄る所があるからそのまま帰りますね。貴方も適当な時間に帰って構いませんよ」助手に言うと部屋に戻り、資料を机の山積みの飼料の中から器用に取り出すと急ぎ足で出て行った。
「教授もはっきり墓参りだって言えば良いのに」助手が呟くと
「教授って一途ですよねー、私も結婚する相手が一途な人が良いなー」女学生の1人が言う。
「ストーカーも一途だぞ」別の女学生が言った。
優子は、会社を正午過ぎに早退して母の墓地に向かった。
途中の山道のカーブを曲がって行く。
墓地の手前の花屋で花を買い、それをバイクの後ろのネットに挟む。
そのままバイクで墓地の入り口を徐行で通過すると山を駆け上がって母の墓のある近くの空き地に止める。すぐ脇にある洗い場でバケツとひしゃくを借りるとバケツに水を入れてその中に買って来た花を差し入れるとバケツとひしゃくを持って母の墓に向かう。
「盆に来て掃除したのにもうこんなに雑草が生えてるわ」独り言を言いながら雑草を抜いてポケットから出したティッシュに抜いた雑草の山を包む。
墓石に水を掛け、雑巾で丁寧に拭いて行き、最後に花を飾ってろうろくと線香に火を点ける。
手を合わせ、「おとうさん、もう少ししたら来るはずだから少し待ってあげててね」と言いながら頭を下げてバケツにひしゃくとティッシュに包んだゴミを持って洗い場に向かい、バケツとひしゃくを返却してゴミ箱にごみを入れてバイクに向かった。
バイクに跨り、エンジンを掛けてゆっくり山を下りて行き、家路に着いた。