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雨上がりの向こうに  作者: リタルダンド
2/2

後編


「けいちゃん、けいちゃん」


僕を優しく揺すぶる彼女。僕はそっとその柔らかい腕を掴んで引き寄せた。

そしてそのまま少し赤く染まった頬に口付ける。


「もう、ここは日本!外国じゃないのよ」

 

両手で顔を押さえて怒っているそぶりを見せたが、その顔が真っ赤になっている時点でそれは照れ隠しだとわかった。僕はくすくすと笑いを漏らしながら両手を顔の前で合わせた。


「ごめんって。でも、思わずしたくなったんだからしょうがないだろ?」

「もうやだ!けいちゃんなんかキライ!」

「本当に?」

僕がある種の確信を抱いて菜月に問いかけると、彼女はほんの少し視線を外して小さく呟いた。

「うそ、だよ」

「ん、わかってた」

――それが、僕等の変わりない日常だった。

 


その、当たり前の日常が音を立てて崩壊したのは、嵐とも言える雨の激しい夜の時だった。

 

その時はちょうど僕が残業していた。次第に増す雨にも関わらず傘を持ってきていなかった僕は途方に暮れていた。会社のフロアでどうしていいか迷っていた、時。

静かにポケットの中で震えている携帯に気づき、通話ボタンを押した。


「けいちゃん!傘家に忘れてったでしょ?私、今届けにきてるよ」

「馬鹿、菜月!お前がこの雨で風邪ひいたりしたりしたらどうするんだ!」

 言われた言葉に安堵よりも先に菜月の向こうみずさに呆れて、そしてなにより心配で大きな声を出した。

「大丈夫!私が風邪なんかひくわけないでしょ?とにかく、あと十五分くらいで着くから、ね?」

「わかった、気をつけてこいよ」

 

それが、最後の会話だった。

 

十五分経っても三十分経っても一向につく気配を見せない菜月に不安を抱えながら待っていた。不安を感じ始めてどのくらいたったのだろうか。ふと、再び携帯のバイブレーターに気づいて、通話相手も見ずに電話にしがみついた。

 



「な、つき」


 

もたらされた知らせに、車を必死で走らせた。途中でサイレンがなっていたような気もする。何キロ出していたかなんて覚えていない。

 

とにかく、気づいたら僕は菜月の目の前にいた。

僕の前に着いていた菜月の両親が菜月の体に縋り付いて泣いていた。

僕は目の前の彼女が菜月であると頭では理解しているはずなのに、菜月ではないような気がしていた。泣く両親と、佇むだけの僕。

まるでその病室だけが世界から切り離されたように静かだった。

 

あとから聞いた話では、菜月は最初、急に飛び出してきた自転車を避けようとしたらしい。

そして、足元のぬかるみに足をすくわれて、後頭部を縁石に強く打った。

その自転車は、傘さし運転をしていたという。相手は、未成年だった。

 


後日、保険会社の人がきた。保険が下りると言っていたが、正直あまり記憶にない。

――その後に僕たちを訪ねてきた加害者の振る舞いがあまりに印象的だったからだ。

 

相手は盛りかごを携えてやってきた。そして母親に促されるがままに僕等に謝罪をした。

――なめているのかと、思った。

 

形ばかりの謝罪などいらない、求めない。

そうしたって菜月が戻ってくるはずもない。

僕はここに来てようやく謝罪の意味を見出した。

謝罪は、本当の大罪を目の前にした時、あまりにも無意味だ。

謝罪は加害者の罪悪感を減らすために行われるものだからだ。

加害者は謝罪をするときに、心のどこかで言ったら許してもらえるものだと確信している。

事実、謝られたら許すしかないと思い、仕方なく謝罪を受け入れることが多々ある。

だが、僕は謝罪をされればされるほど、むなしさが募っていった。


――謝るくらいなら、ほんの少しの金で許されると思っているなら、はじめから来ないで欲しい。

たったそれだけで済まそうとするのなら、それは菜月に対する侮辱だ。

だったら、そんなことは初めからしなければよかったのだ。

 

僕は、その旨をやんわりと告げて、引取りを願った。

そうしてその後に同じようなことが何度も繰り返された。

僕は疲れて、その謝罪を受け入れる事にした。もう加害者には会いたくないという気持ちも強かった。

普通なら傲慢に思うはずの思考も、僕には判断がつかなかった。

 

しばらくして弁護士を通じて賠償金が支払われることが確約された。

相手が一般家庭ということもあり、これから何十年かかけて細かく払いこまれると聞いた

。自転車が直接の原因にはなっていないので相場よりは少ないらしいが、そんなことはどうだってよかった。

 

それから。僕は雨に関することが大嫌いになった。

そして何より、後悔している。


『あと十五分で着くから、ね?』

 

その言葉に、どうしてありがとうって言えなかったんだろう。

菜月は雨が酷いのもわかっていて、それでも僕のことを思ってわざわざ届けにきてくれたのに。

僕は、一言だってお礼を言いはしなかった。

一瞬でもいい。


「ありがとう」と、「愛してる」が言いたかった。




* * *


「リア、調子はどう?」

 

いつもの場所でリアを見つけ、声をかけた。リアはいつものようにそっぽを向いた。


「無視しないでよ、リア」

 

僕がリアの顔を覗き込むと、ものすごい勢いで顔を背けられた。・・・・・・少し、ショックだ。


「だから、仲良くなんてしないって言ったでしょ」

「うん、仲良くなんてしなくていいよ。できればそうなりたいのは山々だけど。リアの傍にいられるだけで僕は幸せだから」

「・・・・・・菜月さんに申し訳ないとは思わないの」

 

そこで初めて表情を変化させたリアに、愛おしさがこみ上げる。


「いいや、あいつはきっとこの現状を理解してくれているはずだ」

「結局不誠実な男ね」

僕はその言葉には何も言わずに、肩をすくめた。リアはそんな僕の仕草を一瞥すると、籠を持って歩き出した。


「身代わりにはならないわ。

・・・・・・でも、来たいなら来ればいい」     

 

素直じゃないリアにもすごく惹かれて、僕は即座にリアの隣に並んだ。



リアに着いて行ったその先には、一軒の小さな家があった。

まるで物語の中に出てくるような外観のそれは、僕の視界に映る彼女の本質を思わせた。


「何か文句でも?」


 彼女をじっと見つめる僕に気づいた彼女がそう言った。


「いいや?何も」


僕はそう言って彼女に続いて家の中に入った。

外観と変わらず女の子らしく飾られた家具を、一個一個丁寧に見ていった。

そんな僕に、彼女は後ろから声を掛けた。


「女性の部屋をそんなにじろじろみるものじゃないわ」


冷たい声の印象に対して、テーブルには二つのティーカップが並んでいる。

あまのじゃくな彼女に自然と笑みがこぼれた。


「これ、もらってもいいの?」


うなずいた彼女に喜び勇んでカップに手を伸ばした。

口をつける寸前であのおばさんの言葉が蘇った。


――この世界の飲食物を口にしないこと。

 

僕は慌ててがちゃん、とティーカップをテーブルに戻した。

ほんの少し、中身がこぼれて白のテーブルクロスが茶色に染まった。

 

ああ、と彼女は一言漏らして僕と視線を合わせた。


「聞いたのね?この世界のからくりを」

「・・・・・・からくり?」

 

そんなたいそうなことをはたして聞いただろうか。己の記憶を見定める前にリアが口を開いた。


「たまに迷い込む異邦人に己の食物を分け与えることで、その身を隷属させることができる」

 

この世界では結構有名な話よ?

くすくすと笑いをこぼしながらリアは言った。

僕はその姿を横目で捉えて、そして飲み干した。

「な、にを」

驚愕で目を見開いたリアに、笑みを漏らす。


「ごちそうさま」


――隷属でもなんでも、君が望むものを僕に与えればいい。

 

しかし、待てど暮らせど、変化は一向に訪れなかった。

どういうことだと目線を彼女に送れば、諦めたようにため息を吐いた。


「・・・・・・それはただの水よ、あの井戸の」

「どうして、あんなことを言ったんだ?」

「警告のつもりだったのよ。あなたへの、ね」

ふう、ともう一度軽く息を漏らしてから彼女は窓の傍に歩み寄った。

日が、傾きかけていた。

「そろそろ還るべきよ。ここからあの井戸までは貴方の想像以上に時間がかかる」

無言でリアを見つめた僕に、もう一言だけ付け加えた。

「いいわ。貴方の好きな時にここに来ればいい。あたしを呼べば、鍵は開くようにするから」

そうして全身で僕を外へ出したリア。別れ際に見た彼女の瞳にはうっすらと光が宿っていた。


 

リアの言ったとおり、井戸につく頃にはもう日が沈もうとしていた。

井戸の淵に足をかけながら、僕の頭の中にはある一つの疑問が浮かんでいた。

――どうして、おばさんはこのことを僕に言わなかったのだろう。

 おばさんのことを疑いそうになる僕自身に叱咤して、そのまま井戸に飛び込んだ。

 


* * *



そうして僕は僕の世界に戻ってきた。

周りは闇に包まれていた。

気分は晴れやかだった。

今までは頑なだったリアが、ほんの少し、僕に心を開いてくれたように思えた。


ふとチカチカと携帯に気づいてそれを眺めると、一件のメールが届いていた。


『今夜、会えるか』

 

簡素なそれは、流星からだった。二時間前に送られてたことに安堵し、了承の返信をした。

 

返信をしてから一時間後、流星が家を訪れた。

すぐにビールを出そうとする僕に流星は待ったをかけた。

 

真剣な流星の表情に、とりあえず席についた。


「お前、最近変わったことがあっただろ」

 

もはや疑問ではなく断定されることに僕は記憶を遡った。そんなにあからさまな態度をしていたのだろうか。自分では分からなかった。


「・・・・・・どうしてそう思う?」 

 

否定をせずに疑問で返すことは肯定と同義だとわかりつつも、尋ねずにはいられなかった。

流星はそんな僕を唖然として見た。

「お前、本気でわからないのか。あれだけ嫌っていた雨を待ち望む時点で、俺はお前がいかれたのかと思った」

「・・・・・・」

言葉を、返せなかった。確かにその通りだ。

以前の僕を知っている者なら誰だって不審に思うに違いない。


黙りこくる僕を見て、流星はさらに追随の手を強めた。

「なあ、どうしたんだ」

僕を思っていってくれているのはわかっていた。

それでも、あのことを他言するわけにはいかなかった。

僕に害が及ぶとか、そんなことは気にしていないけれど、リアに逢えなくなるのだけは嫌だった。


「お前が菜月さんの死を乗り越えられたんなら俺は何も言わない。でも、誰かに騙されているんじゃないのか。新興宗教なんかは人の弱みに付け込むのが専らの手口だ。誰かに誘われたんなら言え。俺が全力でお前を守ってやる」


「・・・・・・なにそれ。お前、いつからホモになったわけ?」

 

流星には心に決めた女がいると知りつつも照れ隠しにそう言った。

流星は案の定無言の怒りを示して僕に拳骨を落とした。


「いっ・・・・・・てぇ」


大の男がここまで本気で殴るか?半ば涙目になって流星を睨みつける。

が、それ以上の眼力で睨み返されたから諦めた。


「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ」

――俺は、アイツ以外要らないんだ。


こいつは、僕と同じだった。思い出した僕は自然と俯いた。

しんみりとした空気を追い払ったのは流星だった。


「で?話を元に戻すが、お前は一体どうしたんだ」

 

諦めそうにない流星の様子に、どうしたものかと首を捻った。適当な嘘ではごまかせない。


「ごめん、詳しいことは言えない。でも、きっと悪いことに巻き込まれてはいない・・・・・・多分」

こんな曖昧な答えで許してもらえるとは思っていなかった。だから。


「ふーん。ま、大丈夫そうだな」

「は?」

意外にもあっさり下った放免の言葉に今度はこっちが唖然とした。

あんなにしつこく食い下がったくせに、もう引き下がるのかよ。


「お前の目みたら、安心した」

そう言って笑った流星に、もう何も言えなかった。後悔すんじゃねぇぞ。それだけ残して、流星は去っていった。



そうして次の日。僕は再び公園へ向かった。

ここ数日晴れていたはずなのに、なぜか水溜りはできたままだった。

僕はそれを不思議に思いながらも、目を閉じて祈った。



* * *



この前言われたとおりに僕はあの家の前でリアの名を呼んだ。

すると、ガチャリ、と開錠の音がして、独りでにドアが開いた。


「おじゃまします」

恐る恐る足を踏み入れると、「上よ」とリアの声が聞こえた。

螺旋階段を昇っていくと、一瞬差し込む日の光で目が眩んだ。


「早かったわね」

微笑むリアに、僕は真っ先に近寄って顎を右手で掴んだ。

「な、なによ」

強気で僕を睨みつけるリアに僕はそれ以上に目線を強めて問い詰めた。


「顔色が悪い。どうしたんだ」


普段と違う僕の様子にリアは怖気づいたように見えた。

僕はその隙を逃すまいと距離を縮める。


「なあ、自分の身に気を遣えよ。俺がお前の変化に気づかないわけないだろ」

すると、リアは我に還ったように僕の手を振り払った。

「・・・・・・わかったような口を利かないで。何でもないわ」

「そんなわけない。お前は」

「だから違うって言ってるでしょ!」

リアの声が、泣き叫んでいるようにも聞こえて、一瞬僕はたじろいだ。

リアも気まずそうに視線をそらしてぽつりと呟いた。

「ね、こんな言い争いをしにきたわけじゃないでしょう。この話はやめにしましょ?」

どこか辛そうに話すリアにそれ以上追求することもできなくて、僕はただ了承の意を示した。


「ところで、貴方は知ってるの?」

唐突に話を切り出されて何のことを言っているのか皆目検討もつかずに疑問を口にする。

「ここに来るたびに貴方は寿命を削られているっていうこと」

――なんだ、そんなことか。

確かにあのおばさんからそのことを聞くことはなかったが、それがどうしたというのだ。

菜月のいない世界に永く留まろうだなんて考えは微塵もない。

僕の寿命と引き換えにリアに逢えるのだとしたら、それは願ったり叶ったりだ。


「知らなかったけど、それは僕にとって問題じゃない」

リアはその言葉に眉をぴくりと動かして、僕をじっと見た。

「わかってないわ。死ぬということが」

「ああ、わかってなんかないさ。でも、生きている人間は皆誰だってわかっちゃいない。それが」


「だから経験したあたしが言ってるんじゃない!」


僕の言葉を遮って思いを放ったリアは肩で大きく息をして、そして小さくため息を吐き出した。

「わかるでしょ、死んだらそれでおしまい。築き上げた人脈や財産、愛しい人だってここでは何もかも失うの。逢えるなんて、まずないのよ。だから、貴方には生きてほしい」

リアが言い終わると同時に、窓の外で一瞬の風が吹いた。ざあ、と花びらが舞った。

「・・・・・・とりあえず、忠告は胸に刻んでおくよ」

まあ、それでも君に逢いに来るけど。

付け足した言葉に、リアは顔を真っ赤にさせた。

照れ隠しのためか、右手の甲を口元に運ぶリアを見て、胸の中が暖かくなっていくのを感じた。



そんな日はずっと続いていくかのように思えた。

不思議なことに、あの水溜りはどれだけ晴天が続いても僅かな水がいつもあって、僕は毎日そこに足を運ぶことができた。

僕はそれが、当たり前だと、おろかにも思い込んでいたのだ。


* * *


「リーア、元気だった?」


「一昨日逢ったばかりじゃない」


時の流れが違うというだけで、リアにこの世界で毎日逢えるわけじゃないことが少し恨めしく思えた。それでも、リアに逢えるという幸福の前では、そんなことは足元の石ほどの障害にもならなかった。


「今日は何を?」

「レースを編んでるわ。もうすぐ春の感謝祭があるから、そこで使うのよ」

 暖かな木漏れ日の中、傍らにリアがいるだけで、僕は満足だった。


 

そうして、帰路について、次の日仕事へ向かった。

日中、窓から差し込む眩しすぎるほどの光に嫌悪を示して、ひたすら暗雲を待ち焦がれた。

愛する人を奪ったのも、愛する人と逢わせてくれるのも雨。

すべての元凶であるのに僕を奈落の底から救い出すそれはパラドックス。確実に僕を蝕んでいった。

 

仕事が終わるとすぐにあの場所へ足を向けた。

しかしいつもあったはずのあの水溜りは跡形もなく消えていた。

一気に絶望が押し寄せてきた僕は、とにかく水溜りをこの手で生み出そうとバケツに水を汲んであの場所に水を注ぎ込んだ。

しかし注ぎ込んでも注ぎ込んでも、しみこむだけで一向にたまる気配を見せない土に、苛立ちに任せてバケツを投げつけた。


「どうしてだよ・・・・・・」

――あの絶望の日々から立ち直るにはこれが僕にはどうしても必要なのに。

逢えると知った今、もう二度と心の平穏を逃すことはできない。


「頼むから、あの子を僕の手に」

あの子に逢えるなら、僕の身を悪魔に委ねても構わない。

狂おしいほどの恋情のやり場も分からずに、ただ拳を握り締めた。



真夏だったこともあって、雨はなかなか降らなかった。

僕は子供だましと知りつつも、逆さの照る照る坊主を作ってぶら下げた。

晴れるたびに作ったそれは、いつの間にか窓枠を埋め尽くしていた。


* * *


「おい、お前は何をやっているのだ!」


久々に、部長の怒声がフロア中に響いた。

「こんな見積もりが通用するか!もう一度やり直しだ」

勢いよくつき返された見積書を受け取って、自分のデスクに向かう。

そして軽く自分の頭を叩いた。

――こんなので社会人だなんて名乗れるわけないじゃないか。しっかりしろ。


菜月がいないなんて、そんな言い訳は通用するわけないし、したくもなかった。

リテイクをくらったことをチームの皆に謝って、その夜は残業することにした。



そんな本来の日常が続いて、何日か経ったころ。

ようやく待ちわびた雨が降った。

僕は雨が降ってしばらくしたあと、一目散にあの公園に向かった。

走っていたのかもしれない、或いは、歩いていたのかもしれない。

とにかく、僕は気づけば水溜りの前にいた。

無事に水溜りができていたことに安心して、すぐに飛び込んだ。

眩しいほどの光が、僕を包み込んだ。


 

「あんたっ・・・・・・!」

 

井戸の淵に手をかけて這い上がってきた、ちょうどその時。目の前におばさんが現れた。


「ちょっとこっちおいで」


有無を言わさない様子でおばさんはずるずると僕を引っ張っていった。

いつもとは違うその様子に、僕は何も言えないでいた。


ドン、と荒々しいまでの力加減で力いっぱい部屋の中に押し入れられる。

僕は唖然としておばさんを見た。おばさんは顔を真っ赤にしていた。


「全部あの子のためだったのに!」

 

そう言うなりおばさんは堰を切ったように話し始めた。


「いいかい、全部あの子のためだったんだ!

この世界の禁忌を犯してまであんたを見逃してやったのも、触れたらこの世界から追放されるというあの井戸の水をあんたのために汲んでやったのも、全部全部!なのに、あの子は倒れた!お前なんかのために、あの水溜りを繋ぎとめるために!」

「あの子って・・・・・・まさか」


それきり何も言わないおばさんに嫌な予感、否、確信を持って家を飛び出した。

おばさんが必死で僕を捕まえようとしていたことに気づいたが、僕は仮にも成人した大人だ。

女性に負ける気はしなかった。


僕はその勢いのまま走って、走って、走り続けてリアの家に着いた。


「リア!」

 

家の中はしんと静まり返っていて、まるで生活感がなかった。

僕は名前を呼び続けながら、すべての部屋のドアを一つ一つ開けてリアを探した。

螺旋階段を昇って、ドアを開けたところで、人の気配を感じた。


「リア、いるんだろう?」


呼びかけながら部屋の電気のスイッチを探り当てて明かりを灯す。

すると、部屋の奥のほうにベッドを見つけて、すぐに歩み寄った。

布団に包まっているリアの姿を見て、僕は一瞬呼吸を忘れた。体が、消えかかっている。


「おい、リア、しっかりしろ!」

何度声を掛けても苦しそうに息をするだけで一向に僕の呼びかけに応える様子はなかった。


「リア、また僕を置いて逝くのか!

僕は、――俺は、お前を失うためにあんな猿芝居をしたわけじゃない」

俺の問いかけに、リアはぼんやりと瞼を開けた。そして観念したかのように両手で顔を覆った。


「やっぱりなぁ、けいちゃんの目はごまかせなかったか」

 

そう言って微笑む彼女は紛れもなく菜月そのもので。込み上げてくる衝動のまま、菜月を抱きしめた。


「馬鹿野郎。俺の目をごまかそうとするなんて、百万年早いんだよ」

「・・・・・・うん、ごめんね。けいちゃん」

ごめんね、と何度も繰り返して俺に告げる菜月に、たまらず口付けを降らせた。


「お前、あの水溜りが消えないように自分の力注ぎ込んでたのか」


「私もけいちゃんと同じ。けいちゃんに逢えないなら、この力はいくら持ってたってしょうがないの」

――もう逢えないと思ったから、片時もけいちゃんの記憶を失いたくないって記憶を残したの。たとえ逢えなくても、けいちゃんの記憶があるなら、それだけでよかった。

 


独白を続ける菜月の肩が小さく震えていることに気づいて、肩まで布団を引き上げた。

菜月はそんな俺の行動に、にこっと笑って話を続けた。

「でもね、一度逢えたらそんな高尚な思いはどっかに消えちゃった。

逢えるなら、その道を選ばないわけないでしょ?私、何度けいちゃんのことを隷属して、一生私の傍から離さないようにしようと思ったことか」

「そうすればいい」



冗談のように言った菜月に、俺は真剣にそう返した。何も言えずに俺をただじっと見る菜月に、繰り返した。

「そうしたらいい。いや、してくれ。もう、俺はお前から離れたくはない」

本気で口にした俺に、戸惑うように菜月は俺の手に自分の手を重ねた。

「・・・・・・死ねって言われたら問答無用で死ぬ、禁忌の術だよ?隷属だから、魂は共有することになるの。つまり、私が死ねばけいちゃんも死ぬんだよ!」

「それを、俺は願っているんだ」

ちらっとあっちの世界で俺が抜けたあとの仕事を思い浮かべたが、すぐにかき消した。

――構うものか。身勝手なのはわかっている。それでも、俺は菜月がほしい。


「なあ、菜月。俺はお前がほしくてたまらない。お前がいなくなった後の世界を経験した今、永らえる気は全くないんだ」

 

菜月は泣き笑いのような表情を浮かべ、俺の胸に顔を押し付けた。

――自己中な私を許して。

 そうして、俺たちは光に包まれた。






――他の人から見たら、これは禁忌なのかもしれない。それでも僕は、これ以上ないほど幸せだ。





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