前編
――きっと、なんでも構わなかった。
君を失って、景色は全て色あせた。
君に逢えるなら、きっとなんでも構わなかったんだ。
* * *
あの日から、三年の月日が流れた。僕はあの日から雨が大嫌いになった。
君を奪った、あの雨が。
「おい圭介、今年も行かないのか」
抜けるような空を見上げていた僕に声がかかった。慣れ親しんだその声の持ち主は流星。
僕は流星の座る場所をそれとなく示してまた視線を空に向ける。
流星が僕の隣に腰を下ろす気配を感じた。
ジーンズごしに地面の湿りを感じながら僕は答えを流星に向けた。
「まだ、行けない」
「お前、行ける時に行かないと後で絶対後悔するからな」
流星は僅かに力を込めてそう言った。
流星の過去がそうさせているのだろうか、瞳にほんの少しの暗い光を宿して、流星は僕をまっすぐにみつめてきた。
「いつかは行くけど、今年は無理だ」
流星は意志を曲げようとしない僕にため息を一つこぼして、手元の石を拾い上げた。そしてそのままそれを川の中に放り込んだ。ぽちゃんという微かな音と共に水面にさざなみが広がる。
「人生ってうまくいかないもんだな」
――大事なものはいつも手からすり抜けていく。
僕は何も言わずに、波紋が消えつつある水面を見つめていた。
* * *
そろそろシャワーでも浴びようかと思った頃、不意にアパートのチャイムが鳴った。
ドアを開けて確認すると、立っていたのは両親だった。そういえば今日来ると言っていたっけ。思い出した僕は二人を部屋の中へ通した。父さんは一息つくこともせず、いきなり本題に切り込んだ。
「お前、菜月さんの葬式をしてから一度も墓参りをしていないじゃないか。今年も行かないのか?」
またか。うんざりしそうになる自分を押し殺して昼間と同じ返答をした。両親はそろって黙り込み、沈黙が広がった。それを破ったのは父だった。
「菜月さんが亡くなって悲しい気持ちはわかる。でも、いつまでもそれにひたるな。お前にはお前の人生があって、やるべきこともある」
・・・・・・父さんに何が分かる?父さんには母さんがいる。大切な人が傍にいるじゃないか。
よっぽどそう返してやりたかったが、それでは埒が明かない。それに父さんが言っていることが正論だということもわかる。
だんまりを決め込んだ僕に、父さんはなおも言葉を重ねた。
「墓参りは相手の冥福を祈るためだけにするんじゃない。自分のけじめをつけるためでもあるんだ。だから今年は行って、ちゃんと気持ちの整理もしてこい」
それでも首を縦に振らない僕にもう一度言い含め、両親は立ち去った。
菜月が死んだことを認めたくないから墓参りには行かない。菜月が傍にいないことを知りたくないから二人のマンションは売り払った。
それを逃避だと両親は言った。僕もそう思う。でも、ほかに方法なんかなかった気がする。
どうしようもない苛立ちを覚え、僕は夜の街へ飛び出した。
* * *
酒を煽ろうかとも思ったが、その時はよくても惨めになるのは翌日だ。
とにかく夜風に当たろうと公園の中に入った。
昨日まで雨が降っていたせいで、水はけがあまりよくない公園はあちこちに水溜りができていた。
それを慎重に避けながらベンチへと腰を下ろした。
血が昇った頭に少し冷たくなった風が当たってすっきりした。
こうしていても、思い出すのは菜月のことばかりだった。
ベンチでもよく二人で語りあったことが頭をよぎり、小さく悪態をついた。
ふとしたときに蘇る記憶に、心だけが苦しくなっていく。
世の中の男たちはどうやってけじめというものをつけるのか。
もう、僕にはこの気持ちを消すべきなのかどうかわからない。消し方さえ、見つけられない。
やっぱり明日が苦しくても酔う方が楽かもしれない。そう思い直した僕は重い腰を上げた。
その時だった。僕の足元にあった水溜りが青い光を放ち、瞬きする間もなく僕の体はその中に引き込まれた。
* * *
「ああ、目が覚めたんだね、よかった」
目が覚めて真っ先に視界に飛び込んできたのは人のよさそうなおばさんだった。
僕は柔らかい布団に寝かされていて、体を起こすと頭に鈍い痛みが走った。
頭を押さえながら、とにかく現状を把握しようと口を開いた。
「ここはどこなんですか?」
「ここは死者が住む街さ」
その答えに胸を占めるのは恐怖や不安などではなく、菜月に逢えるかもしれないという期待と歓喜だけだった。おばさんはそんな僕に気づくこともなく、話を続けた。
「たまにお前さんみたいな生者が紛れ込むんだ。でも、心配することはない。うちの隣にある井戸は外の世界と繋がっていて・・・・・・」
おや?とおばさんはそこで首をかしげた。
「どうしてお前さんは怯えていないんだい?」
心底不思議だとでも言うようなおばさんの様子に、理由を教えた。
おばさんは本当に悲しそうな瞳をして、何かを呟いた。
でも、それはあまりに小さくて僕の耳に届くことはなかった。
「そうか、お前さんも辛かったんだね。でも、相手がここにいるとは限らないよ。ここと同じような世界が何千もあって、育った時代や性格とかで細かく分類されるんだ。その中で相手に出会える確立なんて、何千分の一にも満たない」
「それでも、ほんの少しでも可能性があるなら」
間髪入れずに言った僕におばさんは呆れのような、それでいて懐かしそうな視線を送った。
「なら、注意することは三つだ。
まずは、この世界の飲食物を口にしないこと。してもここに来られるとは思わないほうがいい。分類されてしまったら他の世界に行くことは叶わないのだから。
二つ目は日没までに井戸に飛び込んで元の世界に還る事。日が沈んだら死の番犬が辺りをうろついて侵入者を食べるからね。
三つ目は、この世界のことをあちらの住人に決して話さないことだ。一人にでも話してしまえば、広がるのを止めることはできない。もしたくさんの人がここにきたら、お上の方が動いてしまう」
矢継ぎ早に話すおばさんに圧倒されつつも、言われたことを必死に頭に叩き込んだ。言葉を切ったおばさんは思い出したように部屋の隅に行って、手に盆を携えて戻ってきた。
「目覚めたら水を渡そうと思っていたんだ」
舌の根も乾かないうちに何を言い出すのかとおばさんを見上げたら、おばさんもその訝しげな視線に気づいたらしい。高らかに笑ってコップにその水を注ぎ込んだ。
「この水はあの井戸の水だ。外界と繋がっているから飲んでも平気さ」
そうして透明なそれを差し出したおばさんに逆らうこともなくそれを受け取った。
疑うこともできたが、どうもおばさんが怪しい人だとは思えなかった。
その水はほのかに甘くて、自覚がないだけで乾いていたらしい喉はあっという間にそれを飲み干した。おばさんはまた豪快に笑い声をあげて、もう一杯注いでくれた。
「あともう一つ」
ごくごくと喉を鳴らす僕を眺めながらおばさんは付け加えた。
「この世界の住人はここに来る時に前世の記憶を残すか捨てるか選べる。でも、残す奴はまずいない。さっき言ったようにこの世界は膨大だ。大切な相手に会える保証はどこにもない。逢えたらいいが、逢えなかったら悲惨なものさ。記憶だけを永遠に抱えて暮らしていかなきゃなんない。だから、大抵の奴は新しい暮らしを始めるのさ」
記憶だけが残る。それはまさに今の僕の状況と同じだった。だから、その辛さは身に沁みてわかる。
でも・・・・・・僕はどうするだろう?逢えない寂しさと知らない虚しさ。
どちらが辛いかなんて、僕には判断がつかない。
「・・・・・・いろいろと思うところはあるだろうが、あんたの想い人がいる保証もなければ記憶があるとも限らない。それを覚えておくんだよ」
そう言っておばさんは優しく微笑んだ。なんとなくその笑みは亡くなった祖母に似てる気がした。
「まあでも今日はもう帰ったほうがいい。日が傾きかけているからね。また今度おいで」
言われて外を見たら、なるほど日が落ちかけていた。お礼を言って、外の井戸に近づいた。
その井戸は底が見えなかった。普通の井戸なら、確実に死ぬ。
でも、飛び込むしかない。軽く深呼吸をして、頭からダイブした。
ぼちゃんと体が水に吸い込まれるのを感じたけれど、痛みはなかった。そのまま、眩しい光に引き寄せられていった。
* * *
眼を開けると、周りはまだ暗かった。
それでもまだ今日なのか、それとももう明日なのか分からなかったから携帯を開いた。
人工の不自然な明かりが画面を照らし、文字を浮かび上がらせる。
「嘘だろ・・・・・・」
あっちではずいぶんいたはずなのにこちらではまだ二時間しか経っていなかった。
狂いそうな時間の感覚に一種の眩暈を感じながらも家路についた。
疲れきった体とは正反対に、ここ数年で一番心は晴れやかになっていた。
菜月に逢えるかもしれないという高揚感に、どんな障害でも乗り越えられる錯覚を覚えた。
嫌いだった雨が、少し嫌いじゃなくなった。
次の日、必死で仕事をしていつもより早めに終わらせ、あの公園に足早に向かった。
公園の中には散歩をする数人の老人がいた。さすがに目の前で人が消えると騒ぎになると思い、人気がなくなるまでその場で待つことにした。早く逢いたい焦燥感と、もしかしたら逢えないかもしれない不安とがせめぎ合っていて、心臓はもう破裂しそうだった。
何分か、いや何十分だったのかもしれない。
とにかく人がいなくなって、ようやく僕は昨日のあの水溜りのところに急いだ。
水溜りは今日の晴天のせいで面積がすごく小さくなっていたけれど、それでも水溜りは水溜りだ。
僕ははやる気持ちを抑えて、必死に願った。
――菜月に逢いたい。
数年前から、僕の願いは変わらない。
* * *
・・・・・・成功、したのか?
以前とは違い、意識を失うことはなかった。しかし、こちらの世界とは違う風景に、あちらに来られたことがわかった。物音に気づいたのか、おばさんが家の中から出てきた。
「ああ、また来られたんだね」
嬉しそうに笑ったおばさんは家に招き入れてくれた。そうしてある一枚の紙を僕に手渡した。
なにやらいろいろと書き込まれている紙は、どうやら地図のようだった。
「ないと困るだろう?ここ最近こちらにやってきたリストを裏面に書いておいた。女だけにしぼったけど、やはり数千人にはのぼったよ。年齢も書き加えておいたから、該当する人のデータだけさらっておくれ」
「ここまでしていただいて本当にありがとうございます。このお礼はいずれ必ず」
熱意を込めておばさんに頭を下げると、おばさんは慌てて僕の体を起こした。
「気になんてしないでおくれよ。こっちはしたくてやったんだから」
それより、あんたの大事な娘、見つかるといいね。
優しく落とされた言葉に、それがおばさんの本音だと知った。胸が熱くなり、願いは目標に変わった。おばさんはそんな僕を満足げに見て、そして送り出してくれた。
外の日差しは、希望だった。
* * *
それから僕は一軒一軒菜月を捜し求めた。
でも、あちらの世界は本当に広くて思うような情報は得られなかった。
それでも、あきらめることは選択肢に入ることはなかった。
今や、僕の糧は菜月に再会できる可能性だけだった。
そうして世界を行き来して何ヶ月過ぎた頃だろうか。あちらにいた僕に、御者の男は僕が前に渡した写真と似た女を見たと教えてくれた。
僕はすぐさまその家へ向かった。しかし、その家は無人で、帰ってくる様子もなかった。
僕は軽く息を吐いて辺りを見回した。
すると、遠くの方に満開の菫の花畑を見つけた。花言葉は「思慮深い」。菜月の愛した花だ。
僕はほぼ無意識にそこへ近づいた。香ってくる花の香はあの頃の思い出を彷彿とさせて。自然と口元が弧を描く。
そのまま浸っていると、不意にがさっと足音が聞こえた。その音に気を取られて聞きつけた方向に目を向ける。
「なつき、」
その影は僕が振り向くと同時に駆け出した。
「待てよ!」
間違いない、菜月だ。
心が、頭が、脳が理解するより先に体中に戦慄が走った。僕が、菜月を見間違えるはずがない。
僕は無我夢中で追いかけた。男女の差もあって、徐々に距離が埋まっていた。
足元の草木に躓きそうになりながらも、ようやく菜月の腕を掴んだ。
その勢いのままに体ごと引き寄せた。菜月はしばらくもがいていたが、こちらが離す気がないことがわかったようで諦めたように力を抜いた。
「菜月、だろ」
僕から逃げたんだ、記憶を持っていないという選択肢は消えた。確信を持って問いかけると菜月はきっとこちらに視線を向けた。
「違うわ」
放たれた一言は信じられるものではなかった。目の前に佇む女性が菜月でないはずがない。
嘘だ、と僕が言うと、本当だとためらいもなく肯定する。
その声の調子には面倒そうな空気が含まれていた。
「じゃあ、どうして僕から逃げたんだよ」
「あたしの知ってる人に似てたからよ。ここまで追いかけてきたのかと思って焦っちゃっただけ」
嘘だ、ともう一度小さく呟いて、掴む腕に力を込める。菜月・・・・・・の体が強張るのを感じた。
けれど、感情をコントロールする術も分からず、どうしようもなかった。
「本当よ。現に、あなたの探している女はこんなしゃべり方をする?しないでしょう?」
痛みに顔を顰めながら、そう言った。
――ああ、気づいてしまった。
俯く僕に、彼女は憐れむ視線を投げかけて話を続けた。
「ね、貴方の探してる人が見つかる可能性は低いの。さっさと元の世界に還ったほうが賢明というものだわ」
彼女はそれっきり、何も言わずに僕の腕を振り払って立ち去ってしまった。僕は見るともなく彼女の後ろ姿を視界におさめた。
香りが鼻腔の奥を刺激していた。
「・・・・・・どうしてここにいるの」
あちらの世界で一週間ぐらい経った頃。僕は再びあの場所を訪れた。そんな僕を呆然と見た彼女は硬い声でそう言った。
「いや、考えてみたら世界ってとてつもなく広いからさ。きっと僕の探してる相手を見つけるのは難しいってわかったんだ。なら、君の傍で過ごしたほうがずっと合理的だってね」
「あたしはその娘の代わりってわけ?」
表情を変えることなく低い声で言葉を発する彼女に、にっと笑いを浮かべる。
「まさか。君と仲良くなりたいだけだ。
――とりあえず、名前を教えてよ」
別に、菜月って呼ばせてもらってもいいならそれで全然構わないけど。
やっぱり身代わりじゃない、そう呟くものの名前を教えてくれた彼女の体に腕を回す。
「リア、ナタリア、よろしくね」
――さあ、舞台の幕は開いた。踊るのは、君と僕。