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琥珀の中の交差点

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/08/22

静かな短編ですが、読み終えたあと、ご自身の「忘れていた一瞬」を少しだけ思い出していただければ幸いです。

その日、大谷は、いつもの十一時四十二分発の快速ではなく、

一本前の十一時三十分発の各駅停車に乗った。


ホームの自動販売機で買った缶コーヒーが、思いのほか熱かったからだ。


冷房の効いた車内で、ゆっくり飲もう。


それだけのことだった。


各駅停車は、快速なら通り過ぎてしまう小さな駅に、

一つひとつ停まっていく。窓の外の街も、

いつもよりゆっくり流れていた。


大谷は窓に映る自分の顔を見た。


白髪が増えた。


定年を迎えてから一年になる。妻に先立たれてからは、

朝食も夕食も一人だった。


仕事に行かなくなっても、朝は同じ時間に目が覚める。

用事のない日は、電車に乗ることもあった。


行き先は決めない。


家にいるよりはいい。


最寄り駅で降りたあとも、その日はいつもと違う道を歩いた。


理由はなかった。


商店街を抜け、古い住宅街へ入る。さらに一本、細い路地へ曲がった。


そこで、一軒の古書店を見つけた。


看板の文字はほとんど消え、ガラス戸には薄く埃が積もっている。


こんな店があったのか、と大谷は思った。


引き戸を開ける。


店内には、古い紙と黴の混じった匂いが漂っていた。


帳場には、背中の丸まった老人が一人いた。本を読んでいる。

大谷が入ってきても顔を上げなかった。


その無関心が、なぜか心地よかった。


大谷は棚を眺めた。


文庫本、古い雑誌、誰が読むのかわからない専門書。

どれも長い時間をここで過ごしてきたような顔をしている。


棚の隅に、薄茶色に変色した一冊の雑誌があった。


表紙には、


『大阪文芸』


とある。


発行は三十年以上前だった。


大谷は、なんとなく手に取った。


ページをめくる。


短歌、詩、随筆。


そして、ある短い文章のところで指が止まった。


題名は、


『雨の日の一本』


だった。


筆者の名前に見覚えはない。


だが、読み進めるうちに、大谷の呼吸が浅くなった。


文章には、三十年前の大阪のある駅が描かれていた。


雨の降る夕方。


傘を持たず、駅の軒下で雨が弱まるのを待っていた若い女性。


そこへ、一人の男が通りかかった。


男は折りたたみ傘を差し出し、


「どうぞ」


と言っただけだった。


女性が礼を言う間もなく、男は雨の中を走っていった。


その傘の持ち手には、小さな犬のシールが貼られていた。


大谷は、そこで一度、本を閉じた。


三十年前。


確かに、自分は誰かに傘を渡した。


当時飼っていた犬のシールを、持ち手に貼っていた。


あの犬が好きで、何となく貼っただけだった。


雨の日のことだった。


駅の名前までは、もう思い出せない。


大谷は、もう一度ページを開いた。


文章の最後には、こうあった。


――あの人は名乗らなかった。だから私は、今でも名前を知らない。


――けれど、あの日、あの人から受け取った傘が、私をこの街につなぎ止めた。


――もし声をかけてもらえなかったら、私は故郷へ帰っていただろう。


大谷はページから目を離せなかった。


自分にとっては、たった一度のことだった。


傘を貸した。


それだけだった。


翌日には忘れていた。


その人がどこへ行ったのかも、何をしていたのかも知らない。


けれど、その人の人生には残っていた。


「それ、三十年以上前の本ですよ」


帳場から声がした。


大谷が振り返る。


老人がこちらを見ていた。


「この人を、ご存じなんですか」


「知っているというほどじゃないけどね」


老人は雑誌を見た。


「この文章を書いた人は、しばらくこの街に住んでいた。

小さな保育園をやっていたよ」


「保育園……」


「ああ。もう閉じたけどね」


老人はそれ以上、何も言わなかった。


大谷も聞かなかった。


聞けば、知らなくてもよかったことまで知ってしまう気がした。


大谷は雑誌を閉じた。


自分がしたことの、その先に何があったのか。


それを知ることができる人間は、きっと少ない。


誰かに席を譲った。


落とし物を拾った。


道を教えた。


雨の日に傘を渡した。


その一つひとつが、その人の中にどんな形で残ったのか。


本人には分からない。


分からないまま、時間だけが過ぎていく。


大谷は雑誌を買った。


店を出る。


初夏の光が、路地の奥まで差し込んでいた。


古い電柱も、閉まったクリーニング店も、

角の自動販売機も、さっきまでと何も変わっていない。


それなのに、少しだけ違って見えた。


三十年前の自分は、誰かの人生を変えようなどと思っていなかった。


ただ、雨に濡れている人がいたから、傘を渡した。


それだけだった。


大谷は胸ポケットの雑誌に触れた。


家に帰れば、いつもの静かな部屋がある。


誰もいない。


けれど、今日はそれでいいと思った。


駅へ向かう途中、いつもの角で足を止める。


右へ曲がれば家。


左へ行けば商店街。


大谷は少しだけ立ち止まり、それから右へ曲がった。


夕方の光が、古い街並みを琥珀色に染めていた。


大谷は、その光の中をゆっくり歩いていった。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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