琥珀の中の交差点
静かな短編ですが、読み終えたあと、ご自身の「忘れていた一瞬」を少しだけ思い出していただければ幸いです。
その日、大谷は、いつもの十一時四十二分発の快速ではなく、
一本前の十一時三十分発の各駅停車に乗った。
ホームの自動販売機で買った缶コーヒーが、思いのほか熱かったからだ。
冷房の効いた車内で、ゆっくり飲もう。
それだけのことだった。
各駅停車は、快速なら通り過ぎてしまう小さな駅に、
一つひとつ停まっていく。窓の外の街も、
いつもよりゆっくり流れていた。
大谷は窓に映る自分の顔を見た。
白髪が増えた。
定年を迎えてから一年になる。妻に先立たれてからは、
朝食も夕食も一人だった。
仕事に行かなくなっても、朝は同じ時間に目が覚める。
用事のない日は、電車に乗ることもあった。
行き先は決めない。
家にいるよりはいい。
最寄り駅で降りたあとも、その日はいつもと違う道を歩いた。
理由はなかった。
商店街を抜け、古い住宅街へ入る。さらに一本、細い路地へ曲がった。
そこで、一軒の古書店を見つけた。
看板の文字はほとんど消え、ガラス戸には薄く埃が積もっている。
こんな店があったのか、と大谷は思った。
引き戸を開ける。
店内には、古い紙と黴の混じった匂いが漂っていた。
帳場には、背中の丸まった老人が一人いた。本を読んでいる。
大谷が入ってきても顔を上げなかった。
その無関心が、なぜか心地よかった。
大谷は棚を眺めた。
文庫本、古い雑誌、誰が読むのかわからない専門書。
どれも長い時間をここで過ごしてきたような顔をしている。
棚の隅に、薄茶色に変色した一冊の雑誌があった。
表紙には、
『大阪文芸』
とある。
発行は三十年以上前だった。
大谷は、なんとなく手に取った。
ページをめくる。
短歌、詩、随筆。
そして、ある短い文章のところで指が止まった。
題名は、
『雨の日の一本』
だった。
筆者の名前に見覚えはない。
だが、読み進めるうちに、大谷の呼吸が浅くなった。
文章には、三十年前の大阪のある駅が描かれていた。
雨の降る夕方。
傘を持たず、駅の軒下で雨が弱まるのを待っていた若い女性。
そこへ、一人の男が通りかかった。
男は折りたたみ傘を差し出し、
「どうぞ」
と言っただけだった。
女性が礼を言う間もなく、男は雨の中を走っていった。
その傘の持ち手には、小さな犬のシールが貼られていた。
大谷は、そこで一度、本を閉じた。
三十年前。
確かに、自分は誰かに傘を渡した。
当時飼っていた犬のシールを、持ち手に貼っていた。
あの犬が好きで、何となく貼っただけだった。
雨の日のことだった。
駅の名前までは、もう思い出せない。
大谷は、もう一度ページを開いた。
文章の最後には、こうあった。
――あの人は名乗らなかった。だから私は、今でも名前を知らない。
――けれど、あの日、あの人から受け取った傘が、私をこの街につなぎ止めた。
――もし声をかけてもらえなかったら、私は故郷へ帰っていただろう。
大谷はページから目を離せなかった。
自分にとっては、たった一度のことだった。
傘を貸した。
それだけだった。
翌日には忘れていた。
その人がどこへ行ったのかも、何をしていたのかも知らない。
けれど、その人の人生には残っていた。
「それ、三十年以上前の本ですよ」
帳場から声がした。
大谷が振り返る。
老人がこちらを見ていた。
「この人を、ご存じなんですか」
「知っているというほどじゃないけどね」
老人は雑誌を見た。
「この文章を書いた人は、しばらくこの街に住んでいた。
小さな保育園をやっていたよ」
「保育園……」
「ああ。もう閉じたけどね」
老人はそれ以上、何も言わなかった。
大谷も聞かなかった。
聞けば、知らなくてもよかったことまで知ってしまう気がした。
大谷は雑誌を閉じた。
自分がしたことの、その先に何があったのか。
それを知ることができる人間は、きっと少ない。
誰かに席を譲った。
落とし物を拾った。
道を教えた。
雨の日に傘を渡した。
その一つひとつが、その人の中にどんな形で残ったのか。
本人には分からない。
分からないまま、時間だけが過ぎていく。
大谷は雑誌を買った。
店を出る。
初夏の光が、路地の奥まで差し込んでいた。
古い電柱も、閉まったクリーニング店も、
角の自動販売機も、さっきまでと何も変わっていない。
それなのに、少しだけ違って見えた。
三十年前の自分は、誰かの人生を変えようなどと思っていなかった。
ただ、雨に濡れている人がいたから、傘を渡した。
それだけだった。
大谷は胸ポケットの雑誌に触れた。
家に帰れば、いつもの静かな部屋がある。
誰もいない。
けれど、今日はそれでいいと思った。
駅へ向かう途中、いつもの角で足を止める。
右へ曲がれば家。
左へ行けば商店街。
大谷は少しだけ立ち止まり、それから右へ曲がった。
夕方の光が、古い街並みを琥珀色に染めていた。
大谷は、その光の中をゆっくり歩いていった。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




