昼の音色
花を置いた日から二日ほど、三〇二号室は静かだった。
まったく音がしないわけではない。椅子を引く気配や、水を使う音、ベランダのガラス戸が開く短い響き。そういう生活の輪郭は変わらず壁一枚向こうにあった。けれど、夜になるといつもどこかで始まっていたピアノだけが、そのあいだ鳴らなかった。
湊は大学へ通い、講義を受け、商店街で牛乳を買い、帰ってから適当な夕食をつくる。生活はそれなりに進んでいく。けれど、一度耳が覚えてしまったものが欠けると、その欠けた形まで部屋に残るのだと分かった。
花瓶代わりに貸したジャムの瓶も、まだ返ってこない。
別に急ぐものではなかった。
急ぐ理由もない。
それでも流しの隅を見るたび、そこにない瓶の輪郭だけが妙にくっきり思い出された。
木曜の夕方、講義をひとつ終えて部屋へ戻ると、ちょうどドアを開けようとしたところで、隣の三〇二号室のドアが静かに開いた。
雨宮さんだった。
片手に、あの瓶を持っている。
透明なガラスは水気を拭き取られていて、夕方の廊下の光を淡く返していた。
「これ」
彼女は瓶を少し持ち上げる。
「遅くなってすみません」
「いえ」
湊は受け取りながら首を振った。
「全然、大丈夫です」
瓶は冷たくも温かくもなく、手の中で軽かった。
中は空で、きれいに洗ってある。けれど、近づけるとほんの少しだけ、甘いような青いような、花のあとの匂いが残っていた。
「花、もうだめになりましたか」
聞くと、雨宮さんは短く頷いた。
「昨日で、だいぶ」
「思ったより、早いですね」
「そういうものみたいです」
そう言ったあと、彼女は少しだけ目を伏せる。
「でも、十分だったので」
その言い方が、花そのものより、それを置いた時間に向けられている気がした。
湊は瓶を持ったまま、うまく返す言葉を探した。
きれいでしたか、と聞くのも違う。何の花だったんですか、と聞くには少し近すぎる。
「よかったです」
結局、出てきたのはそれだけだった。
けれど彼女は、それで足りるように小さく頷いた。
「この前、ありがとうございました」
「こっちこそ」
「何がですか」
「……貸しただけなので」
そう返すと、彼女は少しだけ笑った。
その笑いは、廊下の薄い明るさの中ではっきり見えるほどではなかったが、声の終わりにだけ残った。
会話はそこで終わってもよかった。
けれど、彼女はドアを閉める前に、もう一度だけこちらを見た。
「一昨日の夜、少し長く弾いてしまって」
湊は言葉の続きを待つ。
「うるさくなかったですか」
「大丈夫でした」
「そうですか」
その返事のあとに、ごく短い沈黙が落ちる。
彼女は何かを確かめるように一度だけ頷いて、それから部屋へ戻った。
閉まりかけたドアの向こうには、いつもの黒いピアノと、もう花のないテーブルだけが見えた。
瓶を流しへ戻したあとも、湊はしばらくその匂いのことを考えていた。
洗ってあるのに、ほんの少しだけ残っている。
まるで花そのものではなく、花が置かれていた時間の匂いだけが、ガラスの内側に薄く残っているみたいだった。
その夜もピアノは鳴らなかった。
けれど不思議と、前みたいな空白には聞こえない。
ないはずの音の代わりに、瓶の内側に残った匂いみたいなものが、部屋のどこかに漂っている気がした。
翌日、四限の講義が急に休講になった。
まだ陽の高い時間に電車へ乗り、海沿いの町へ戻る。
商店街は夕方の仕込みには早く、昼の終わりには少し遅い、中途半端な明るさの中にあった。魚屋の前の床はまだ濡れていて、惣菜屋のショーケースには新しいコロッケが並ぶ前の空き皿だけが見える。
アパートへ戻り、鍵を開けて部屋へ入る。
鞄を下ろし、窓を少し開けたところで、音がした。
ピアノだった。
湊は思わず動きを止める。
夜ではなく、午後の明るい部屋の中で聞くのは初めてだった。
いつもの曲ではない。六話の夜に少しだけ聞こえた、あの短い旋律だった。高すぎない音域で、ゆっくりと反復される。暗い場所で触れれば沈んでしまいそうな音が、昼の光の中では輪郭だけを薄く見せていた。
不思議な聞こえ方だった。
夜のピアノは部屋の内側へ沈んでくるのに、昼のピアノは窓から入る風と同じように、光のあるところへ漂っていく。隠している感じが少ないぶん、かえって剥き出しに聞こえる。
湊は机の前に立ったまま、その短い旋律を聞いた。
何度か繰り返され、少しだけ間を置いてから、今度はいつもの曲へ変わる。
低い音。
慎重に高いほうへ向かう流れ。
毎晩、止まり続けていたあの場所。
昼の光の中でも、やはりそこは同じだった。
そこで一度息をつき、引き返しそうになって、それでも今までよりほんの少しだけ先へ進む。音はまだ不安定だ。けれど、前の夜までの「触れる」より、今日はほんの少しだけ「留まる」に近い。
曲が途切れたあともしばらく、湊は窓のそばから動けなかった。
明るい部屋の中で聞くと、夜には見えなかったものまで少し見えてしまう気がしたからだ。
それが何なのかは、まだ分からないまま。
夕方、ゴミを出しに一階へ下りた時だった。
共用のゴミ置き場の前に、雨宮さんが立っていた。
片手に小さなゴミ袋を持っている。袋の口は結ばれていたが、中に細い茎のようなものが透けて見えた。
「あ」
向こうも湊に気づいたらしく、少しだけ肩の向きを変える。
「こんにちは」
「こんにちは」
近づくと、袋の中身がもう少しはっきり分かった。
萎れた花弁の白と、青い色の薄い残り。新聞紙にくるまれて、茎ごとまとめられている。
見ないふりもできた。
けれど、わざと視線を逸らすのも変だった。
「花、もう捨てるんですね」
湊がそう言うと、彼女は袋のほうへ目を落とした。
「はい」
それから、少しだけ間を置いて。
「置いておくと、きれいだったほうまで残らなくなるので」
その言い方に、湊は何も返せなくなる。
枯れたから捨てる、ではなく、きれいだったほうまで残らなくなる。
彼女が物の終わりをそういうふうに見ていることだけが、妙に胸に残った。
「……昼、聞こえました」
代わりに、湊はさっきのことを口にした。
彼女は少しだけ目を上げる。
「珍しいですよね」
「少し驚きました」
「すみません」
「いや、そうじゃなくて」
湊は首を振る。
「夜と違って聞こえたので」
どう違ったのかは、自分でもうまく言えなかった。
近いのに、隠れていない。明るいのに、どこか危うい。
そういう感覚をそのまま渡せる言葉が見つからない。
雨宮さんはゴミ袋の口を少し握り直した。
「花があるうちに、弾いておきたかったんです」
やがて出てきた言葉は、短かった。
「昼のうちに?」
「はい」
「夜まで待てなかったんですね」
そう言うと、彼女は一度だけこちらを見た。
その視線はまっすぐだったが、強くはない。ただ、少しだけ誤魔化しにくい静けさを持っていた。
「たぶん、そうです」
ゴミ置き場の上で、風がネットを揺らした。
それが止むまでの数秒、二人とも何も言わなかった。
「雨宮さん」
湊は自分でも少し迷いながら口を開く。
「その曲って、花に関係あるんですか」
問いの形にした瞬間、近づきすぎたかもしれないと思う。
けれど彼女は、すぐに閉じなかった。
「直接、ではないです」
「じゃあ、何で」
「……思い出すので」
返ってきたのは、それだけだった。
何を、誰を、という言葉は続かない。
けれど、その続きを無理に聞かないほうがいいことくらいは、湊にも分かった。
「そういう日、あるんですね」
自分でも曖昧な返しだと思った。
だが彼女は小さく頷く。
「あります」
それ以上でも以下でもない、静かな肯定だった。
ゴミ袋を置き、ネットを戻す。
彼女はそこで一度だけ空いた手を見た。ついさっきまで花を持っていた手だと思うと、その仕草さえ少し頼りなく見えた。
「瓶、助かりました」
彼女が言う。
「花瓶、ちゃんと買えばいいんですけど」
「買わないんですか」
「たぶん、またしばらく使わないので」
それは冗談でも照れ隠しでもなく、本当にそう思っている声音だった。
年に一度か、あるいはそれより少ない頻度でしか花を部屋へ入れない人。
その静かな偏りが、彼女の生活の輪郭を少しだけ見せる。
「じゃあ、また必要になったら」
そこまで言って、湊は少しだけ言葉を止めた。
軽く聞こえすぎるだろうかと思ったからだ。
「……貸します」
けれど彼女は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
それだけでよかった。
その夜、ピアノは十時前に鳴り始めた。
最初は、昼に聞いたあの短い旋律だった。
白い花と青い花のあいだに置かれていたみたいな音。
暗い部屋の中では、昼より少し深く沈む。それでも今夜は、夜の音である前に、まだ昼の続きでもあるように聞こえた。
湊は机の上の空き瓶へ目をやる。
返されたそれはもう流しの隅ではなく、いつのまにか机の端に置かれていた。自分でそこへ移した覚えはあるのに、その理由ははっきりしない。
部屋の明かりがガラスに映り、その底に、ごく小さな青い花弁がひとひらだけ張りついているのに気づいたのは、その時だった。
洗ったはずなのに、残っていたらしい。
ほんの欠片みたいな青だった。
湊はしばらく、それを見たまま動かなかった。
壁の向こうで、曲が変わる。
いつもの旋律が始まる。
低い音。
ゆるやかに上がっていく流れ。
止まる場所。
そこで一度、呼吸のような沈黙。
それから今夜は、今まででいちばん先まで行った。
一音。
二音。
三音。
そして四つ目の音が、前よりずっとはっきりした輪郭で置かれる。
次は来なかった。
けれど、その四つ目は、もう偶然や手探りだけではないところまで来ていた。
湊は息を止めていたことに気づいて、ゆっくり吐いた。
机の上の小さな青い花弁は、部屋の明かりの下で、水のない底に静かに張りついている。
花はもう捨てられた。
瓶は返ってきた。
昼の光の中で弾かれた音も、もう今は夜の中に沈んでいる。
それでも、終わったとは思えなかった。
窓の外では、海鳴りが低く続いている。
遠いのに、部屋のすぐそばまで来ているみたいな音だった。
湊は壁にもたれたまま、もう続きの来ない沈黙を聞いた。
それは前より少しだけ、何かを失ったあとの静けさではなく、
何かがまだ残っている静けさに近づいていた。




