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花が奏でる音

 停電の夜から三日ほど、雨は降らなかった。

 風だけが海のほうから毎日同じように吹いてきて、アパートの手すりに薄く残った白い跡を少しずつ目立たなくしていった。大学と部屋と商店街を往復するうちに、湊の一週間も、ようやく曜日の輪郭を持ちはじめていた。月曜の一限は眠い、火曜の昼の学食は混む、水曜の帰りはスーパーの卵が安い。そういう細かなことが、知らない町の中に少しずつ自分の線を引いていく。

 それでも、何かが定まった気はまだしなかった。

 大学では、柴崎という名前の男子と顔を合わせれば二言三言かわすようになった。講義の感想や、先生の癖や、購買の焼きそばパンが思ったよりまずくなかったこと。会話はそれなりに続くし、ぎこちなさも前よりは薄い。けれど、それが終わればまたそれぞれの流れへ戻っていく。自分の席ができたわけではないし、帰る場所の感覚もまだ借り物に近い。

 そのくせ、海沿いの町へ戻ると息が少し楽になる。

 アパートの階段を上がって、三階の廊下の匂いを吸った時だけ、自分の一日がやっと終わりの形を取る気がした。

 木曜の夕方、湊はいつもより少し遅く駅を出た。

 図書館で借りた本を返し、ついでに別の文庫を一冊手に取っていたら時間がずれた。空はまだ明るいが、日が落ちるのは思ったより早い。商店街に入るころには、魚屋の店先の銀色も、惣菜屋のガラスも、昼より少しだけ色を沈めていた。

 アパートへ曲がる角の手前に、小さな花屋がある。

 店先にバケツを並べただけの簡素な店で、季節の切り花が何種類か、いつも外まで顔を出している。湊はこれまで何度もその前を通っていたが、花を買うことのない生活では、せいぜい色を眺めるだけだった。


 その日、その花屋の前で足が少し遅くなったのは、見覚えのある後ろ姿があったからだ。

 雨宮さんだった。

 店先のバケツを前に立ち、白い花を見ている。

 薄いグレーのカーディガンの裾が風に揺れ、まとめていない髪が肩にかかっていた。買い物帰りらしい紙袋も何も持っていない。ただ、どの花を選ぶか決めきれずにいるような静かな立ち方だった。

 湊はそこで声をかけるか迷った。

 近づけば普通に挨拶はできる。けれど、花屋の前にいる人の背中には、日常のついでとは少し違う時間が流れているようにも見えた。

 迷っているうちに、店の奥から店主らしい女性が出てきて、何か一言二言話しかける。雨宮さんは小さく頷き、白い花と、淡い青の小さな花を二、三本ずつ選んだ。

 湊は結局、そのまま通り過ぎた。

 話しかけなかったことに特別な理由はない。ただ、そうしたほうが自然な気がした。まだ名字しか知らない隣人の、花を選ぶ時間まで自分のものみたいに横へ並ぶには、少し早い気がしたのだ。


 


 アパートへ着いて、自室の鍵を開けようとしたところで、下の階から足音が上がってくるのが聞こえた。

 振り向くと、やはり雨宮さんだった。右手に紙袋、左手に小さな花束。白い紙でくるまれたそれは、さっき店先で見た花よりもう少し近くに色を持っていた。白いスイートピーと、青いデルフィニウムに似た細い花。どちらも華やかというより、光の薄い夕方に似合う静かな色だった。

「こんにちは」

 先に言ったのは彼女のほうだった。

「こんにちは」

 湊も返す。

 階段の踊り場で足を止める。風が通って、花束の紙がかすかに鳴った。

「花、買ったんですね」

 言うと、雨宮さんは腕の中のそれへ一度だけ目を落とした。

「はい。珍しく」

 少しだけ、そう言う時の声は柔らかい。

「この前、見るのはって言ってましたよね」

 湊がそう言うと、彼女はほんのわずかに目を上げた。

「覚えてたんですね」

「なんとなく」

 本当は、なんとなくではなかった。

 あの日、花屋の前で足を止めた彼女の横顔も、「見るのは」という短い言葉も、思ったより長く残っていた。

「今日は、少しだけ置いておきたくて」

 彼女はそう言った。

 置いておきたくて。

 飾りたい、でも、好きだから、でもなく、その言い方を選ぶところが彼女らしかった。

「何かある日なんですか」

 湊は自分でも少しだけ踏み込んだと思った。

 けれど、問いは口を出たあとでは戻らない。

 雨宮さんはすぐには答えなかった。

 三階まであと数段のところで立ち止まり、花束の白い紙の端を指で整える。

「毎年、少しだけ」

 返ってきたのは、それだけだった。

 それ以上は聞けない、と湊にはすぐ分かった。

 「毎年」の中に、彼女が今日花を買う理由はちゃんと入っている。けれど、それを今ここで説明するつもりがないことも、同じくらいはっきり伝わった。

「そうなんですね」

 湊はそれだけ返す。

 彼女は小さく頷き、また階段を上がり始めた。


 


 三階に着くと、雨宮さんは三〇二号室の前で鍵を探した。

 花束と紙袋で片手が塞がっているせいか、鞄の中を探る動きが少しぎこちない。数秒してから、ようやく鍵が見つかる。だが、花束を抱えたままではドアノブを回しにくそうだった。

「持ちます」

 湊が言うと、彼女は一瞬だけ迷うように視線を上げた。

「……すみません」

 渡された花束は、思っていたより軽かった。

 包み紙の内側から、冷えた水気と、ごく淡い甘い匂いがする。近くで見ると、白い花弁の縁が少し透けていて、青い花のほうは夕方の光を吸ったみたいに静かな色をしていた。

 ドアが開く。

 室内から、いつもの淡い灯りが廊下へこぼれた。

「ありがとうございます」

 花束を返そうと差し出した時、雨宮さんは少し困ったように紙袋を持ち直した。

「……花瓶がなくて」

「え」

「いつも、持ち帰ることがないので」

 その言葉に、湊は自分の部屋の台所にあったジャムの空き瓶を思い出した。ラベルは剥がしてあるが、まだ捨てていなかった。使い道もないまま流しの隅に置いてある。

「うち、空き瓶ならあります」

 言った瞬間、少し出しゃばりすぎたかと思う。

 だが彼女は眉をわずかに上げてから、ほんの少しだけ笑った。

「借りてもいいですか」

「はい。すぐ持ってきます」

 湊は自室へ戻り、流しの横の瓶を一度だけ水ですすいだ。

 瓶を持つ手の中で、水滴が細く光る。自分でもよく分からない程度に、動きが少しだけ急いでいた。

 三〇二号室のドアは、完全には閉まっていなかった。

 軽くノックすると、「はい」と声がして、すぐに彼女が顔を出す。

「これでよければ」

 瓶を差し出すと、彼女は両手で受け取った。

「助かります」

 開いたドアの隙間から、室内が少しだけ見えた。

 テーブルの上に白い紙の束と、細い鉛筆。部屋の奥には黒いピアノ。窓際の棚には本が数冊と、フレームの小さな写真立て。写真の中身までは見えなかったが、ガラスだけが夕方の残り光を拾っていた。

「すぐ返します」

「急がなくて大丈夫です」

 そう言うと、彼女はまた少しだけ口元をやわらげた。

「じゃあ、甘えます」

 その言い方が、今までの彼女より少しだけ近かった。

 ドアが閉まる直前、花束を瓶に差す水音が小さく聞こえた。

 それはピアノの音ほどはっきりしないのに、なぜか長く耳に残った。


 

 その夜、十時を過ぎてもピアノは鳴らなかった。

 代わりに、隣の部屋から一度だけ、椅子の引かれる音がした。

 それからまた静かになる。

 湊は机に向かったまま、ノートの上でペンを止めた。

 花を置く日なのだ、となんとなく思う。何のための花かは知らない。誰に向けたものかも分からない。ただ、白い花と青い花がいま隣の部屋のどこかにあって、その前では今夜、いつもの曲とは違う時間が流れているのだろうと思った。

 十一時近くなって、ようやく音がした。

 けれど、それはいつもの曲ではなかった。

 低いところから始まるのではなく、最初から少し高めの音で、短い旋律がゆっくり繰り返される。子守歌というほど単純ではないが、誰かに聞かせるためではなく、誰かを思い出すための音に聞こえた。音と音の間に深い沈黙がある。弾き慣れた曲というより、触れるたび少しだけ傷む場所を確かめるみたいな弾き方だった。

 湊は本を閉じて、壁にもたれた。

 知らない旋律だった。

 今まで聞いたことがない。

 それなのに、不思議と、この部屋で聞くべき音のようにも思えた。

 何度か短く繰り返されたあと、その曲は途切れた。

 しばらく沈黙があり、やがて今度こそ、いつもの旋律が始まる。

 低い音。

 慎重に高いほうへ向かっていく流れ。

 何度も聞いた、あの止まる場所。

 湊は息を浅くした。

 今夜もそこまで行って、止まるのだろう。そう思ったところで、曲はやはり同じ場所で息をついた。

 けれど、そのあとだった。

 前に一音。

 次に二音。

 そして今夜は、三つ目の音まで、かすかに触れた。

 ほんのわずかだった。

 最後の音は輪郭が不安定で、すぐに崩れるように沈黙へ戻った。

 それでも確かに、今までより先だった。

 湊は壁にもたれたまま、しばらく動かなかった。

 白い花。青い花。毎年、少しだけ。

 そういう断片が頭の中でゆっくり結びつきそうになって、結びつききらないままほどける。

 壁一枚向こうには、まだ名字しか知らない人がいる。

 その人の部屋に今夜だけ置かれた花があって、そのそばで、終わりまで行くのが難しい曲が、昨日までよりほんの少しだけ先へ進んだ。

 窓の外では風が弱く、海の音も遠かった。

 だから部屋の静けさはいつもより深いはずなのに、今夜の沈黙は空白には聞こえなかった。花を水に差したあとの部屋みたいに、目には見えないものが少しだけ増えている気がした。

 湊は机の上のスマホへ目をやる。

 何かを調べることも、誰かに連絡することもなく、また視線を戻す。

 隣からは、もう音がしなかった。


 それでも、その夜の静けさには、確かに続きが含まれていた。


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