消えた灯のあいだで
月曜の夕方、大学からの帰り道は妙に長く感じた。
ノートもそれなりに埋まり、課題の締切もまだ先だ。昼休みには、同じ学科の男子に学食の席で「この前の基礎演習、先生の声小さくなかった?」と話しかけられて、そこから数分だけ会話も続いた。
名前は確か、柴崎だったと思う。悪い感じの相手ではないし、むしろ話しやすい部類かもしれない。
けれど会話が終わると、関係まで始まったわけではないことも同時に分かる。
授業の終わった教室に残るざわめき。
階段を下りる学生の流れ。
駅のホームに並ぶ制服と私服。
どれも自分の外側で自然に動いていて、湊だけがそこへ少し遅れて混ざっていく感じが消えない。
だからなのか、帰りの電車を降りて海沿いの町へ戻ってくると、少しだけ息がしやすくなる。
自分の町ではまだない。けれど、自分が帰る部屋だけはある。その事実に、最近ようやく輪郭がついてきていた。
アパートへ着くころには、空は夕方を過ぎかけていた。
昼間は晴れていたのに、海のほうからまた薄い雲が流れ込んでいる。西の光が鈍く、手すりに触れると金属が少し冷たかった。
三〇二号室の前を通ると、ドアの下から細い明かりが見えた。
早い時間に灯りが点いているのは、少し珍しい。
ただそれだけのことなのに、湊は自分の部屋の鍵を開けながら、隣を気にしている自分に気づいた。
夕食は、日曜に買った卵の残りで雑に炒飯を作った。
塩加減は昨日よりはましだったが、ねぎを入れればよかったと食べ終わってから思う。流しで皿を洗いながら、窓の外を見る。海はもう見えない。隣の建物の屋根の向こうに、低い雲の底だけが暗く残っていた。
九時を少し回ったころ、急に風が強くなった。
ベランダの金具がかすかに鳴る。
ガラス窓に細かいものが当たる音がして、ほどなくそれが雨だと分かった。最初は粒が軽く、やがて少しずつ密度を増していく。天気予報をちゃんと見ていなかったが、この町ではそれも珍しくない。晴れていても、夜には平気で雨になる。
湊は文庫本を開きかけて、やめた。
なんとなく、ベランダへ出てみたくなる。
ガラス戸を開けると、湿った風が頬に触れた。
まだ本降りというほどではないが、雨は斜めに流れている。
仕切り板の向こう、三〇二号室のベランダからも同じように風の音がしていた。灯りはカーテン越しに淡く見えている。
今日はピアノ、鳴るだろうか。
そんなことを考えたところで、視界の端で一瞬、明かりが揺れた。
部屋へ戻る前に、灯りは消えた。
湊は立ち止まる。
隣室だけではなかった。向かいの建物の窓も、通り沿いの街灯も、一斉に落ちている。雨音だけが急にはっきりして、町の輪郭が夜の中へ沈んだ。
停電だった。
部屋の中は、窓の外から入るわずかな明るさだけになる。
まだ完全な闇ではない。けれど、家具の角や棚の位置が見えづらくなる程度には暗い。冷蔵庫の低い唸りも止み、換気扇の気配もなくなったことで、部屋の静けさが急に深くなった。
湊はスマホを手に取り、画面の明かりをつける。
時間は九時十四分。電波は生きていたが、通信は少し重い。ニュースアプリには、近隣で瞬間的な停電、という速報がまだ上がっていなかった。
外では風が一度、強く窓を叩いた。
その時、共用廊下のほうから小さな物音がした。
何かが倒れたような、軽い金属音。
湊は反射的にドアを開けた。
廊下は薄暗く、非常灯だけがぼんやり赤い。
その先、三〇二号室の前に人影があった。スマホの白い光に照らされて、雨宮さんの横顔が浮かぶ。足元には、倒れた傘立てと、転がった折りたたみ傘が一本。
「あ……」
向こうもこちらに気づいたらしい。
その声が暗さの中で少し近く聞こえた。
「大丈夫ですか」
湊が廊下へ出ると、彼女はしゃがみ込んで傘を拾い上げた。
「すみません。見えなくて」
「停電、ですよね」
「たぶん」
彼女のスマホも点いていたが、画面の明るさは湊のものよりかなり弱い。
それが余計に、夜の暗さを強く見せている気がした。
湊は足元の傘立てを起こして端へ寄せる。
雨宮さんは傘をまとめながら、「ありがとうございます」と言った。
「困りますよね」
湊が言うと、彼女は少しだけ間を置いた。
「電気、ないと広いですね」
「部屋が、ですか」
「夜がです」
彼女はそう言って、傘を持ち直す。
たしかに今のアパートは、部屋ごと停電しているというより、夜そのものが階段や廊下まで広がってきたように見えた。
雨音が共用廊下の外側を撫でる。
風に流されるたび、見えない海の気配まで少し近づく。
「懐中電灯とか、あります?」
「ないです」
「僕もないです」
二人とも少しだけ黙る。
こういう時、何を言えば正しいのか分からなかった。助けになるほどのこともできない。電気が戻るまで待つしかないなら、ただそれだけのことだ。
けれど、この暗さの中でそれぞれの部屋へ戻るのも、どこか中途半端な感じがした。
雨宮さんが、先に口を開く。
「階段の踊り場、少しだけ外の灯りが入るので」
湊はそちらを見る。
たしかに廊下の奥よりは、階段のあたりのほうが少し明るい。下の通りから反射する光と、雨の白さがわずかに回り込んでいるらしかった。
「戻るまで、あそこにいますか」
それは誘いというより、提案だった。
断っても不自然ではない程度の問い。
「はい」
湊は答えた。
二人で階段の踊り場へ移動する。
三階と二階のあいだの踊り場は、夜のわりに少しだけ明るかった。壁に小さな窓があり、そこから雨に濡れた外の白さが入ってくる。階段の鉄の手すりは湿気を含んで冷たく、下を見れば、アパートの入口に置かれた自転車のサドルがぼんやり光っていた。
雨宮さんは、壁際に立ち、湊は一段下に腰を下ろした。
正面から向き合う形ではなく、同じ方角を見ながらいるほうが、今の距離には合っている気がした。
「停電、長いんですかね」
「どうでしょう」
「こういうの、よくあります?」
「年に何回かは」
「慣れてるんですね」
「慣れる、というほどでもないです」
雨宮さんは窓の外を見たまま答える。
「毎回、少しだけ落ち着かないです」
「分かります」
湊も頷く。
停電そのものが怖いわけではない。ただ、いつもそこにあるものが急になくなると、自分のいる場所の形まで少し曖昧になる。
「子どもの頃は、もっと嫌でした」
珍しく、彼女が自分から続けた。
「真っ暗になると、家の中にいるのに、外に出されたみたいで」
部屋というのは、明かりがあって初めて部屋らしくなるところがある。灯りが消えると、家具も壁もただの影になる。
「今は、そこまでじゃないですけど」
「今は平気なんですか」
「平気、というより」
彼女は少し考えるように言葉を切る。
「何も聞こえなくなるわけじゃないので」
雨。風。遠くの車。海鳴り。
たしかに、電気が消えても夜そのものは消えない。むしろ明かりがないぶんだけ、音のほうがはっきりする。
湊は階段の窓の外を見る。
雨粒がガラスに斜めの線を引いて、その向こうに曇った町の明かりがぼけて見えた。
「昨日」
なんとなく口を開くと、彼女は視線だけをこちらへ向けた。
「ピアノ、鳴らなかったですよね」
聞いてから、暗い中ではこういう言葉は少し近すぎるかもしれないと思う。
けれど、雨宮さんはすぐに目を逸らさなかった。
「鳴らしませんでした」
「眠れましたか」
「少しだけ」
短い答えだった。
「朝は海にいました」
湊が言うと、彼女のまつげがわずかに動いた。
「見つかってましたね」
「見つけたというか、誘われたので」
「そうでした」
少しだけ、笑う気配。
こんな暗い中で笑うと、声のほうが先にそれと分かる。
雨はまだ続いている。
停電は戻らない。
それでも焦る感じは、不思議とさっきより薄れていた。
湊は階段の段差に肘を置いたまま、ぽつりと尋ねる。
「雨宮さんって、夜のほうが落ち着くんですか」
彼女はすぐには答えなかった。
窓に映る曇った自分の影でも見ているみたいに、外を向いたまま黙る。
「落ち着く、というより」
やがて返ってきた声は、いつもより少し掠れていた。
「昼より、ごまかしやすいです」
「何をですか」
そこまで聞いてから、踏み込みすぎたと思う。
けれど、問いはもう落ちてしまっていた。
雨宮さんは、長くは黙らなかった。
ただ、言葉を選ぶのに少しだけ時間を使った。
「いろいろです」
それ以上ではない。
湊は「すみません」と言いかけて、やめた。
謝ると会話ごと閉じてしまいそうだった。
「僕も、大学だとごまかしてる感じあります」
代わりにそう言った。
雨宮さんがこちらを見る。
「馴染んでるふり、みたいな」
言ってしまえば、少し情けない。
だが、暗い踊り場では、そのくらいのことを口にしてもいい気がした。
彼女はすぐに何も言わず、しばらくしてから小さく頷いた。
「それは、みんな少しはそうかもしれないですね」
「雨宮さんもですか」
「今は、前よりは」
その答えは、曖昧なようでいて、確かに“前”がある言い方だった。
前とはいつなのか。何が違ったのか。そこへ続く問いはすぐに浮かんだが、湊は飲み込んだ。
階段の下の方で、誰かのドアが開く音がした。
しばらくして閉まる。停電に気づいて様子を見に出たのかもしれない。アパートの中には自分たち以外の住人もいるはずなのに、いまはなぜか、この踊り場だけが少し切り離されている気がした。
「朝倉さん」
名前を呼ばれて、湊は顔を上げる。
「はい」
「この前の塩パン」
「はい」
「半分、本当に食べきれなかっただけです」
一瞬、意味が分からなかった。
少し遅れて、それが日曜の朝のことだと気づく。
「……そうなんですか」
「はい」
彼女の声は平坦だったが、どこか少しだけ照れ隠しみたいなものが混じっていた。
「でも、半分は、そうでもなかったです」
そこまで言って、彼女は口を閉じる。
暗いので表情までは見えない。見えないからこそ、その言葉だけがはっきり残る。
湊は答えに迷って、結局、
「おいしかったです」
とだけ返した。
それを聞いて、彼女が小さく笑ったのが分かった。
ちゃんと笑った、というより、笑いがこぼれるのを少し抑えたような気配だった。
その時だった。
階段の非常灯とは別に、廊下の先でぱち、と小さな音がした。
続いて、踊り場の上の蛍光灯が一瞬だけ白く明るくなり、すぐに安定する。共用廊下の灯りも、向かいの建物の窓の明かりも順に戻ってきた。
「あ」
湊は思わず瞬きをする。
急に光が戻ると、さっきまでの暗さが現実感を失う。
雨宮さんも同じように、少しだけ目を細めていた。
明るくなったことで、彼女の顔色も、濡れた髪の先も、手に持ったスマホの白さも、全部が急に現実のものとして見える。
「戻りましたね」
「ですね」
それだけの会話なのに、光の中ではまた距離が少し元に戻る。
暗がりで言えたことが、そのまま同じ温度では言えなくなる。その変化が、湊には少しだけ惜しかった。
二人は立ち上がり、三階へ戻る。
さっきと同じ廊下なのに、灯りがあるだけでただのアパートの通路に戻っていた。
三〇一号室と三〇二号室の前で、それぞれ足を止める。
「停電、長くなくてよかったですね」
湊が言うと、彼女は頷いた。
「はい」
それから、ほんの短い間を置いて付け足す。
「……でも、少しだけ長くてもよかったです」
湊は、彼女を見る。
彼女はもう鍵を差し込んでいて、こちらを見ていない。だから、その言葉がどんな顔で言われたものなのかは分からなかった。
分からないままでも、たぶんよかった。
「そうですね」
湊もそれだけ返す。
雨宮さんは、小さく会釈をして部屋へ入った。
閉まりかけたドアの向こう、部屋の奥には今夜もピアノがあった。灯りが戻ったせいで、その黒はさっきまでよりかえってはっきり見えた。
自室へ戻ると、冷蔵庫がまた低く動きはじめていた。
時計の数字も戻り、机の上のペンの影までいつも通りに落ちている。停電前と何も変わらないはずなのに、部屋の空気だけが少し遅れている気がした。
その夜、ピアノは鳴らなかった。
けれど湊は、静かな壁を前にしても、前みたいな空白は感じなかった。
階段の踊り場に残っていた暗さ。雨の白さ。夜が広い、という言葉。
そういったものが、まだ部屋のどこかに残っていて、音の代わりに静かに沈んでいた。
窓の外では、雨が弱くなっていた。
見えない海が、暗いまま低く鳴っている。
湊はベッドに入ってからもすぐには目を閉じず、天井の薄い影を見ていた。
停電のあいだに少しだけ近づいたものが、光の戻ったあとにまた元へ戻ったのか、それとも戻らなかったのか、自分でもまだ分からない。
ただ、暗い踊り場で交わしたいくつかの言葉だけが、眠る前の頭の中で小さく残り続けていた。
そのどれもがはっきりしていないのに、妙に消えにくかった。




