海原へ
休日の朝、湊は目が覚めてからもしばらく布団の中にいた。
大学がない朝というだけで、部屋の静けさは少し質が違う。平日なら、時間に遅れないよう起きなければならないという薄い緊張がどこかにあるが、今日はそれがない。
窓の外では、ベランダの手すりを風が撫でる音だけがしていた。潮の匂いは、晴れている日のほうがかえって淡い。乾いた光の奥に、遅れて混じってくる。
昨夜、ピアノは鳴らなかった。
それを意識したのは、眠る前ではなく、朝になってからだった。
待っていたつもりはない。けれど、何も聞こえないまま夜が終わると、あとから部屋のどこかが少し空いていた気がしてくる。
湊は起き上がり、カーテンを開けた。
空はよく晴れていた。昨日までの湿り気を押し流すような、白に近い青だった。
隣の三〇二号室のベランダには何も出ていない。仕切り板の向こうは静かで、ガラス戸も閉まったままだった。
朝食にしようと思って棚を開けると、食パンが一枚しか残っていない。牛乳も少ない。冷蔵庫の中の卵はあるが、どうせなら外へ出ようと思った。
部屋着の上にパーカーを羽織り、財布とスマホだけ持って外へ出る。
日曜の商店街は、平日より静かだった。
魚屋のシャッターは半分だけ開き、道端には濡れた発泡スチロール箱が積まれている。惣菜屋はまだ油を温めていないらしく、店先のガラスだけが光っていた。代わりに、駅前の小さなパン屋だけはもう開いていて、焼きたての匂いを狭い通りへ流していた。
湊はその匂いに引かれるようにして店へ入った。
店内は広くない。二人も入れば少し窮屈に感じるくらいの広さで、木の棚に丸いパンや細長いパンが並んでいる。トングを取って何を買うか迷っていると、入口のベルが鳴った。
振り返ると、雨宮さんが入ってきた。
珍しく、髪をひとつに緩くまとめていた。
白に近い薄いニットに、ベージュのロングスカート。
アパートで見る部屋着とも、クリーニング店の前で見たよそゆきの格好とも違う、朝らしい柔らかさがあった。
こちらに気づくと、少しだけ目を見開いてから、いつもの控えめな会釈をする。
「おはようございます」
「おはようございます」
朝に交わす挨拶は、こんにちは、より少しだけ近い気がした。
それだけで何が変わるわけでもないのに。
「パン、買いに来たんですね」
湊が言うと、彼女は棚のほうへ目を向けた。
「朝のうちだと、まだ残ってるので」
「午後だと売り切れるんですか」
「人気のものは」
それだけ言って、湊の持つトングの先を見た。
「塩パン、おいしいですよ」
すすめられた棚を見ると、確かに数が少ない。表面に薄く焼き色のついた、小ぶりのパンが並んでいる。
湊は一つ取り、ついでにクリームの入った丸いパンもかごに入れた。
「雨宮さんは、よく来るんですか」
「たまにです」
その答え方は、相変わらず簡潔だった。
彼女は食パンと塩パンを二つ、それから小さなあんパンを取る。無駄のない動きだった。
会計は偶然ほぼ同時になった。
先に支払いを済ませた湊が、店の外で待つともなく立っていると、雨宮さんが白い紙袋を手に出てくる。
日曜の朝の光は、まだやわらかく、紙袋の口からのぞくパンの焼き色までやけに鮮やかに見えた。
「これから帰るんですか」
「はい」
湊も自分の袋を少し持ち上げる。
「じゃあ、一緒ですね」
そう言葉にしてから、こういう言い方は少し馴れ馴れしかったかもしれないと思う。
だが、彼女は気にした様子もなく頷いた。
「海のほう、少し回りますか」
思いがけない提案だった。
湊は一瞬だけ聞き返しそうになって、それをやめる。
「海ですか」
「今日は、朝のうちのほうがきれいなので」
きれい、という言葉を使う時だけ、彼女の声は少し低くなる。
湊は「行きます」と答えた。
予定があるわけでもない。むしろ、そういう予定のなさごと、日曜日の朝には似合っている気がした。
二人は商店街を抜けず、一本脇の細い道へ入った。
住宅の裏手を通るような道で、塀越しに庭木が覗いている。洗濯物を干す音、掃除機の低い唸り、どこかの家のラジオ。
町がまだ完全には起ききっていない感じが、通りのあちこちに残っていた。
道を下るにつれて、海の匂いが少しずつ濃くなる。
やがて視界が開け、堤防のコンクリートが陽を返すのが見えた。朝の海は白っぽく光り、遠くの水面はほとんど空と境目がない。
釣り人が数人いるだけで、人影は多くなかった。カモメが一羽、風に押されるように低く飛ぶ。
「夜と全然違いますね」
湊が言うと、雨宮さんは海を見たまま頷いた。
「夜のほうが近いですから」
「近い、ですか」
「朝の海は、少し遠いですよ」
たしかに、目の前にあるのに、朝の海は夜ほど人に触れてこない気がした。明るさのせいか、波の音までどこか平たい。
堤防の手前で、雨宮さんは足を止めた。
紙袋の口を開き、中を覗く。
「塩パン、二つ買ったんですけど」
湊はそちらを見る。
「ひとつ、いりますか」
「いいんですか」
「食べきれないので」
食べきれない、というのが本当かどうかは分からない。
それでも、その言い方のほうが彼女らしいと思った。親切です、みたいな顔をしないまま、自然に何かを差し出す人なのだろう。
「じゃあ、もらいます」
受け取ったパンはまだ少し温かかった。
紙越しにバターの匂いがする。湊は礼を言って、それを片手に堤防へ上がった。
風はあったが、昨日までほど冷たくない。
二人は並んで座るのではなく、少しだけ間を空けて、堤防の端に腰を下ろした。コンクリートが朝の熱をまだあまり持っていなくて、布越しにもひんやりする。
湊は塩パンをひと口かじった。
表面の薄い塩気のあとに、じゅわ、とバターが滲む。思っていたよりずっとおいしかった。
「本当だ」
「おいしいですよね」
彼女の横顔は、アパートの廊下やベランダで見る時より少しやわらかく見えた。たぶん海に向いているせいだ。人と向き合っている時より、風景に向いている時のほうが表情がほどける人がいる。
「雨宮さん、よくここに来るんですか」
問いかけると、彼女はすぐには答えなかった。
紙袋を膝の上で押さえながら、海の向こうを見ている。迷っているのではなく、言葉を急がないだけに見えた。
「たまに」
やがて返ってきた声は、やはり短かった。
「眠れなかった朝とか」
その一言で、昨夜ピアノが鳴らなかったことの理由が、少しだけ別の形になる。
眠れなかった夜のあと、彼女はここへ来るのかもしれない。夜に音へ向かう時もあれば、朝に海へ向かう時もある。そのどちらも、誰かに説明するほど整理された行動ではないのだろう。
「海を見てると、眠くなるんですか」
聞くと、彼女は首を振る。
「眠くはならないです」
「じゃあ、何か変わりますか」
「少しだけ」
そこで彼女は言葉を切り、パンの袋の端を折った。
「夜が、朝のふりをするような気がするんです」
湊は塩パンを持ったまま止まった。
うまく意味を取れたわけではない。けれど、その言い方が妙に腑に落ちた。
夜に抱えていたものが、朝になると急になくなるわけではない。ただ、光の中ではそれが少しだけ別の顔をする。
たぶん、そういうことだ。
堤防の向こうで、波が小さく砕けた。
人の少ない日曜の海は、話している間も邪魔をしてこない。ただそこにいて、会話の端に白い音だけを置いていく。
「昨日の曲」
湊は、自分でも少し迷いながら口を開いた。
彼女は視線だけをこちらへ向ける。
「また、一音だけ先へ行きましたよね」
「そうでしたか」
「そうでした」
言い切ると、彼女はごく小さく笑った。
「じゃあ、本当にそうだったんですね」
「自分で分からないんですか」
「弾いてる時は、分からなくなることがあるので」
その答えは、どこか疲れたものでもあった。
弾いている最中に、自分がどこにいるのか分からなくなる。進んだのか戻ったのか、今の音が今のものなのか、前に弾いたものの続きなのか。
そういう時間の曖昧さが、彼女の夜にはあるのかもしれない。
「朝倉さん」
彼女は、海を見たまま言った。
「そういうの、気づかなくていいくらいのことなんです」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、自分に言い聞かせるみたいな、静かな声音だった。
「でも、気づいてしまうんですね」
「はい」
湊は正直に答えた。
「なんでかは、分からないですけど」
彼女はしばらく何も言わなかった。
風が一度だけ強くなって、彼女のまとめた髪の後れ毛が頬に触れた。細い指がそれを耳にかける。その仕草を、湊は見てしまってから、少し視線を海のほうへ逃がした。
「この町、好きですか」
突然、彼女がそう聞いた。
「まだ分からないです」
答えたあとで、それが思っていたより正直な返事だったと思う。
「嫌いじゃないです。でも、まだ自分の町ではない感じがします」
「そうですよね」
「雨宮さんは、好きですか」
彼女は、少しだけ考えるように間を置いた。
「好き、という言い方も、たぶん少し違います」
またその言い方だ、と湊は思う。
彼女は何かを簡単に「好き」とは言わないのだろう。
「じゃあ、何て言うんですか」
聞いてみると、彼女は海から目を離さないまま答えた。
「離れたくない、に近いかもしれません」
その言葉だけで、海の見え方が少し変わる。
好きだから見る風景と、離れたくないから見ている風景は、似ているようでたぶん違う。
そこには執着というほど強くない、けれど手放せないものの重さがある。
湊は、それ以上聞かなかった。
聞けば、たぶん何かに触れてしまう気がした。それが今ではないことくらいは分かる。
アパートへ戻る道は、来た時より少しだけ短く感じた。
朝の光が上へ昇りきって、住宅の窓も道路も白く乾いている。さっきまで人気の少なかった通りにも、自転車の学生や買い物帰りの老人が見えるようになっていた。
坂の途中で、雨宮さんが立ち止まった。
道端の花屋の店先に、切り花のバケツが並んでいる。白いカスミソウ、淡い黄色のスイートピー、小さな青い花。彼女はその中の一本も手に取らず、ただ少しだけ見ていた。
「花、好きなんですか」
湊が聞くと、彼女は首を振るでもなく、視線だけを花から外した。
「見るのは」
答えはやはり短い。
それ以上踏み込まず、二人はまた歩き出す。
アパートの前に着くころには、町はもう日曜の昼に近づいていた。
三階まで上がって、自分たちの部屋の前で足を止める。
ここで別れることが、少しだけ自然になっていた。
「塩パン、ありがとうございました」
湊が言うと、彼女は小さく頷いた。
「どういたしまして」
「おいしかったです」
「よかったです」
それだけで会話は終わるはずだった。
けれど、彼女はドアの鍵を差し込む前に、ふとこちらを見た。
「朝の海、少しは違いましたか」
湊は考える。
夜の海ほど近くはない。けれど、何も隠していないわけでもない。明るいぶんだけ、見ているこちらが勝手に安心してしまう海だった。
「遠かったです」
そう答えると、彼女は少しだけ目を細めた。
「ですよね」
彼女は、会釈をして部屋へ入る。
ドアが閉まる直前、室内の暗がりにピアノの輪郭が一瞬だけ見えた。今日は譜面台の上に白い紙が何枚か重なっている。
湊も、自室へ入った。
部屋には朝に残したままの洗い物が少しだけあり、ベッドの上には脱ぎっぱなしのTシャツが置かれている。
牛乳を冷蔵庫へ戻し、パンの袋を棚に置き、窓を少しだけ開ける。潮の匂いと一緒に、どこかの家の味噌汁の匂いが流れてきた。
日曜の午後は長い。
大学の課題に手をつけ、途中で飽きて文庫を読み、また机に戻る。時間は平らに進んでいく。けれど今日は、その平らさのどこかに朝の堤防の光が薄く残っていた。
その夜、ピアノはいつもより早く鳴り始めた。
まだ十時前だった。
湊は机に向かっていたが、壁の向こうで椅子の小さな軋みがした途端、自然にペンを置いていた。
いつもの旋律だった。
低いところから始まり、静かに、高いところへ向かっていく。
けれど今夜の音は、前までとは少し違って聞こえた。
明るい、というほどではない。ただ、音と音の間にあった迷いが、ほんのわずかに薄い。朝の海の光がまだ指先に残っているみたいに、乾いた響きが混じっている。
湊は壁にもたれて耳を澄ます。
またあの場所へ向かっていく。止まるだろう。たぶん、まだ止まる。
旋律が高いところへ届く。
沈黙が落ちる。
そして今夜は、そのあとに、もう一音ではなく、二つ続けて音が置かれた。
すぐに途切れた。
それでも確かに、二つだった。
湊は無意識に息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
壁一枚向こうで起きたほんの少しの変化を、誰に伝えるわけでもなく、自分だけが知っている。そのことが嬉しいのかどうかは、まだ分からない。ただ、他人のままで聞き流せる場所を、もう過ぎてしまったことだけは分かった。
窓の外では、夜の海がまた近くなっていた。
朝には遠く見えた水面が、暗くなるだけで部屋のそばまで寄ってくる。
湊は閉じたノートの上に手を置いたまま、続きの来ない沈黙を聞いた。




