希薄な空気の中で
雨の翌朝、町は思っていたより早く乾いた。
空にはまだ薄い雲が残っていたが、アパートの手すりに触れると、夜のあいだにこびりついた湿り気はもうほとんど消えている。
ベランダの床にだけ、水が引いたあとの白い筋が細く残っていた。潮と雨が一緒に乾くと、こういう跡が出るのだと、湊はこの町へ来て初めて知った。
大学へ向かう支度をしながらも、昨夜の一音がまだ耳のどこかに引っかかっていた。
たったそれだけのことだ。
曲が最後まで進んだわけではない。
壁の向こうで、たまたま指が滑っただけかもしれない。
それでも、止まり続けていたものがひとつ先へ出た、という感触だけが、思ったより長く残っていた。
湊は歯を磨きながら、洗面台の鏡越しに自分の顔を見る。寝不足というほどではないのに、目元だけが少しぼんやりしていた。
新しい生活は、疲れるというより、輪郭が定まるまでに時間がかかる。毎朝同じ道を歩いても、大学の教室に座っても、自分だけが少し遅れてそこへ着く感じが抜けない。
講義は相変わらず平凡だった。
前方のスクリーン。配布プリント。出席確認の小さなざわめき。
昼休み、学食の端の席で一人でうどんを食べていると、窓の外の木々が風に押されているのが見えた。海辺の風と違って、内陸の風はどこか乾いて見える。
大学の友人になりそうな知り合いがいないわけではなかった。名前と顔がなんとなく結びついた相手は何人かいる。けれど、昼を一緒に食べるところまではまだ届かない。話せば終わる距離はあっても、黙って隣にいても平気な距離までは遠かった。
帰り道、湊は商店街の手前にある小さなスーパーに寄った。
牛乳と食パン、それから特売のキャベツをかごに入れる。惣菜売り場で立ち止まり、コロッケと春巻きの値札を見比べる。
暮らしというものは、こういう些細な迷いの回数で、少しずつ形になるのかもしれなかった。
レジを済ませて外へ出ると、空はまた曇りはじめていた。
雨になるほどではない。ただ、海の方角だけが少し低く暗い。
商店街を抜け、坂を上がる。アパートのある通りへ曲がる角に、古いクリーニング店がある。
ガラス戸に色褪せた「当日仕上げ」の張り紙が残っていて、いつ見ても、今も本当にそうなのかは分からない。湊がその前を通り過ぎようとした時、中から見覚えのある横顔が出てきた。
雨宮さんだった。
薄いベージュのコートを着て、左腕にクリーニングのカバーが掛かった服を二着抱えている。片方は紺のジャケットで、もう片方は黒いワンピースのように見えた。
普段アパートで見かける時より少しだけよそゆきの格好で、そのせいか、同じ人なのに輪郭が少し遠く感じる。
向こうもすぐに気づいたらしく、小さく会釈をした。
「こんにちは」
「こんにちは」
道幅が狭いので、そのまま立ち止まる形になる。
すぐそばの惣菜屋から油の匂いが流れてきて、通りの向こうでは自転車のベルが鳴った。町の午後の音に紛れて、二人の声だけが少し静かに響く。
「お買い物ですか」
雨宮さんの視線が、湊の持つスーパーの袋へ落ちる。
「はい。あんまり買うものないんですけど、何もないと困るので」
「分かります」
彼女はそれだけ言って、少しだけ口元をやわらげた。
「一人分って、難しいですよね」
「難しいです。キャベツとか買うと、ずっとキャベツですし」
言ってから、妙に生活感のある返しだったと思う。
だが雨宮さんは、小さく笑った。
「確かに」
その一言が意外と自然で、湊の肩から少し力が抜けた。
「大学の帰りですか」
「そうです」
「慣れました?」
湊は少しだけ考えるふりをした。
「行くだけなら、たぶん」
「行くだけなら」
「でも、まだ自分の居場所ではない感じはします」
うまく言えないまま出した言葉だった。
教室のどこに座っても、自分だけ借りてきた場所にいるような感じ。
雨宮さんにそれが伝わるかは分からなかった。
彼女は、その問いの答えを、すぐには返さなかった。クリーニングのカバーの端を指で整えながら、少しだけ遠くを見る。
「馴染むのって、たぶん時間の問題じゃない時もありますよね」
湊は頷く。
その言い方は、自分のことを話しているようにも聞こえた。
だが、そこを拾うにはまだ早い気がして、別のことを聞いた。
「クリーニング、よく使うんですか」
彼女は腕の中の服へ目を落とした。
「たまにです」
それ以上は広がらない答えだった。
そこで、店の中から年配の店主らしい女性が顔を出し、
「雨宮さん、ハンガー来週でいいからね」と声をかけた。
雨宮さんは振り返って「ありがとうございます」と返す。
その呼ばれ方が自然で、湊はあらためて、この町にとって彼女は“隣室の人”ではなく、もっと前からここにいる人なのだと感じた。
「すみません、引き止めて」
湊が言うと、彼女は首を振った。
「いえ。私も、ちょうど帰るところだったので」
二人で並んで坂を上りはじめる。
並ぶといっても肩が触れるほど近くはなく、半歩ぶんくらいの距離がある。アパートまではほんの数分だが、その短さがかえって会話を難しくした。
通りの脇では、どこかの家の庭木が風に揺れていた。
路面に落ちた椿の花がひとつ、踏まれないまま端に寄っている。空は低く曇っているのに、雨はまだ来ない。その来そうで来ない感じが、どこか会話の間に似ていた。
「昨日」
先に口を開いたのは雨宮さんのほうだった。
湊はそちらを見る。
「夜、少しだけ、違ったの分かりましたか」
思っていなかった問いかけで、足がわずかに遅れる。
「……はい」
否定する理由がなかった。
むしろ、聞かれてしまったことのほうが不思議だった。
雨宮さんは前を向いたまま、ごく小さく息をついた。
「やっぱり」
「たまたまじゃなかったんですか」
「たまたま、ということにしようか迷ったんですけど」
その言い方に、かすかな苦笑いの気配があった。
「でも、たぶん、違いました」
坂の途中で、二人は一度立ち止まった。
上から原付が下りてくるので、道の端へ寄るためだった。すぐ脇の塀に背を寄せた拍子に、クリーニングのカバーが軽く鳴る。原付が通り過ぎて、また歩き出す。
湊は、どこまで聞いていいのか分からないまま口を開く。
「大事な曲なんですか」
質問にしてから、自分でも少し踏み込んだと思った。
けれど、彼女はすぐに拒まなかった。
「……そうですね」
しばらくして返ってきた声は、柔らかいというより、丁寧という言葉が似合うものだった。
「大事、という言い方が合ってるかは分からないですけど」
「合ってないんですか」
「大事、だと少し綺麗すぎる気がして」
その返しは、これまでのどの言葉よりも彼女らしい気がした。
好きとか嫌いとか、大切とかつらいとか、そういう分かりやすい言葉の前で一度立ち止まる人なのだと思う。
「じゃあ……難しい曲、とか」
言ってみると、雨宮さんは少しだけ笑った。
「技術的には、そこまでじゃないです」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってます」
笑いがすぐに消える。
「終わりまで行くのが、難しい曲です」
アパートの階段が見えてきたところで、その言葉が落ちた。
湊はすぐには、返せなかった。
終わりまで行くのが、難しい。
単純な意味のはずなのに、そこには曲のこと以上のものが混じっているように聞こえた。
二人はそのまま階段を上がった。
三階に着くころには、さっきまで持ちこたえていた空が、ようやく細かい雨を落としはじめていた。共用廊下の外側にだけ、銀色の筋が斜めに見える。
三〇一号室と三〇二号室の前で、自然に足が止まる。
「この辺り、ほんとに雨、多いですね」
湊が言うと、雨宮さんはドアの鍵を出しながら頷いた。
「急に降ることが多いです」
「洗濯物、今日は大丈夫そうですね」
「今日は出してないので」
「昨日、危なかったですもんね」
「助かりました」
鍵が回る音がする。
ドアを開ける前に、彼女は一瞬だけ振り向いた。
「……昨日の音、気づいてくれてたなら、少しだけ救われます」
何か言おうとして、言葉がすぐに見つからなかった。
大げさなことを言う場面ではない。かといって、そうですか、で返していい気もしたなかった。
「気づきました」
結局、出てきたのはそれだけだった。
けれど彼女は、それ以上を求めなかった。
小さく会釈をして部屋に入る。閉まりかけたドアの隙間から、暗い室内の奥に黒いピアノの影が見えた。その前に、譜面台だけが淡く浮いている。
湊も自室へ入った。
ドアを閉めると、雨の音が少し遠くなる。スーパーの袋を台所へ置き、牛乳を冷蔵庫へ入れ、食パンを棚にしまう。単純な動作なのに、さっきの会話がそのつど間に入ってきて、妙に手が遅くなった。
夕食はキャベツと卵の炒め物にした。
塩を入れすぎた気がして、水を飲む。窓の外ではまだ雨が続いていた。ベランダの手すりを打つ細かい音が、時々風に流されて遠くなる。
その夜、ピアノは十時半ごろに鳴り始めた。
湊は最初の一音を待っていたわけではない。
テレビもつけず、文庫本を膝に乗せていただけだ。けれど、壁の向こうで椅子が小さく軋んだ時、体のどこかが先にそれを分かった。
いつもの旋律だった。
低い音から始まり、静かに高い方へ向かっていく。
雨の音は昼より弱くなっていた。だから今夜のピアノは、昨日より輪郭をはっきり持っていた。
湊は本を閉じて、壁にもたれた。
昨日と同じ場所で止まるのか、それともまたあの一音が先へ置かれるのか。そんなことを考えながら聞くようになった時点で、もうただの生活音ではなくなっているのだと分かっていた。
旋律は高いところへ届く。
止まる。
数秒の沈黙。
それから今夜は、もう一度、同じ場所の少し手前へ戻った。
弾き直しではなく、確かめるように。
迷いながら指先で輪郭をなぞり直すみたいな音だった。
そのあと、昨夜と同じ一音が置かれた。
またそこで途切れる。
けれど昨日より、沈黙は少しだけやわらかかった気がした。
湊は息を浅く吐いた。
たった一音だ。まだ何も変わっていない。終わりまでは遠いままだろう。それでも、壁一枚向こうで起きている小さな変化が、なぜか他人事のままでは聞けなくなってきている。
知らない町で、まだ名字しか知らない隣人。
その人の部屋で、毎晩同じところで止まっていた曲が、わずかに先へ触れようとしている。
外の雨は、いつのまにかほとんどやんでいた。
海鳴りだけが低く残っている。
湊は閉じた本を膝の上に置いたまま、壁の向こうの沈黙を聞いた。
それは前より少しだけ、途切れた音のあとに残るものを含んでいた。
寂しさに似ていて、けれどそれだけでは終わらない、何か名前のついていない余韻だった。




