踊り場の雨
大学が始まって三日目、朝倉湊はようやく最寄り駅までの道を迷わず歩けるようになっていた。
海沿いの町は、晴れている日ほど風がある。
アパートを出て坂を上り、商店街を抜けて信号を二つ渡る。駅前のロータリーには古びたタクシーが二台止まり、屋根の低いパン屋からは朝いちばんの焼き上がりの匂いが流れてくる。そこまで来ると、潮の匂いはいくらか薄くなった。
大学は、電車で二駅先だった。
改札を出てから正門までの並木道は、海辺の町より少しだけ新しく見える。
けれど、だからといって急に自分の居場所になるわけでもなかった。
講義の教室に入って、空いた席に鞄を置き、前方のスクリーンに映る履修案内を眺める。隣の席では、もう名前を呼び合っている新入生がいる。笑い声が起こるたび、教室の空気だけが少し軽くなる。
ペンを持ったまま、ノートの隅に講義名を書いては止まり、また別の欄に時間割を書き写した。
誰にも話しかけられないわけではなかった。話しかけられても、最低限は返せた。
しかしそこから先、昼を一緒に食べるとか、帰りにどこか寄るとか、そういう流れへ自分を乗せていく感じがまだ掴めなかった。
それでも、大学生活は始まってしまえば案外平凡だった。
出席の確認。教科書販売。サークル勧誘の紙コップ。校舎と校舎の間を抜ける春の風。
始まりというのは、もっと劇的なものだと思っていたのに、実際は、気づけば昼になっていて、気づけば帰りの電車に乗っている程度のことだった。
夕方、アパートに戻るころには空が少し曇っていた。
湿った色の雲が海のほうから低く流れてきていて、ベランダの手すりに触れると、昼よりも冷たい。
部屋に入って鞄を下ろし、首からぶら下げていた学生証のストラップを外す。
まだ部屋は完全には片づいていなかったが、最初の夜の仮置き感は少し薄れていた。
本棚の上には読みかけの文庫が二冊並び、流しの横にはマグカップの置き場所が決まり、冷蔵庫の中には牛乳と卵と、値引きシールの貼られた豆腐が入っている。
暮らしている、というにはまだ頼りない。
けれど、泊まっているだけの部屋でもなくなってきていた。
カーテンを開けると、隣の三〇二号室のベランダには洗濯物が出ていた。
薄いタオルが二枚、白いシャツが一枚、それから濃い色の長袖。量は相変わらず多くない。風に煽られるたび、物干し竿の金具がかすかに鳴った。
雨宮さんの姿は、見えない。
その日の夜、十時を過ぎてもピアノは鳴らなかった。
湊は折りたたみテーブルに、教科書を広げていた。
ノートの端に講義の要点らしいものを書きながら、無意識のうちに壁のほうへ意識が向く。
昨夜も一昨夜も、音はあった。毎晩ではない、と彼女は言っていたが、三日続けば人は勝手にそれを習慣に変えてしまう。
静かな壁は、思っていたより何も返してこない。
部屋の中には、ボールペンの走る音と、たまに冷蔵庫が低く唸る気配だけがある。窓の外では風が少し強くなり、見えない海が鈍く鳴っていた。
十一時近くなっても、音はしなかった。
湊はシャーペンを置き、肩を回した。
別にどうということはない、と頭では分かっている。隣人がたまたま今日は弾かないだけだ。眠れているのかもしれないし、帰りが遅いのかもしれない。そう考えられる程度には、まだ他人のままだった。
それでも、静かな夜は少しだけ、部屋を広く感じさせた。
壁一枚向こうに何もないみたいだった。
翌日の午後、講義が一つ休講になった。
急に空いた時間を持て余して、湊は電車を途中下車せず、そのままアパートへ戻った。
まだ四時前で、海沿いの風も夕方には早い明るさを持っている。
商店街の惣菜屋ではコロッケが揚がる音がしていて、魚屋の発泡スチロール箱からは細い水が道路へ流れていた。
アパートの郵便受けには、自分宛てのダイレクトメールが二通と、大学からの封筒が一通入っていた。ついでにチラシも捨てて部屋へ上がろうとしたところで、背後に足音が近づいた。
「すみません」
振り返ると、雨宮さんがいた。
紺色の薄いコートを羽織り、片手に茶色い封筒を持っている。
雨が降る前の空気のせいか、髪が少しだけ重たく見えた。前に階段で見たときより、疲れている感じはない。
「あ……こんにちは」
「こんにちは」
彼女は郵便受けの前に立ち、鍵を差し込んだ。
その何気ない動作のすぐそばにいることが、まだ少しだけ不思議だった。湊は脇へ寄って、自分の手紙を持ち直す。
金属の蓋が開く。中から取り出したのは、白い封筒が二通と、薄い冊子、それからA4の大きな封筒だった。彼女はそれらを腕の中にまとめるように抱えたが、いちばん上の茶色い封筒が滑って床へ落ちた。
ぱさり、と軽い音がした。
封のされていなかったらしい中身が、さらに数枚、タイルの上へ散る。
「あ」
反射的にしゃがんだのは、湊のほうが先だった。
拾い上げてすぐ、それが楽譜だと分かった。
五線の上に並んだ音符。鉛筆で何度も書き直した跡。小節の端には細かな数字や記号が入り、ところどころ消しゴムで擦った白さが残っている。
上の余白にだけ、ひどく整った字で英語の題が一つ書かれていたが、そこだけは黒く塗りつぶされていて読めなかった。
「すみません」
彼女も膝を折って、一緒に紙を集める。
近くで見ると、指先に薄く鉛筆の黒がついていた。爪は短く切りそろえられ、左手の人差し指の先だけ少し乾いている。
「大丈夫です」
湊は一枚ずつ向きを、揃えながら返した。
紙は市販の印刷譜ではなく、自宅で出力したような質感だった。端が少しだけ反っている。上の方のページには、最後の数小節だけ不自然に空白があり、その手前で訂正が集中していた。
視線を落としたまま返したつもりだったが、見てしまったことはたぶん伝わった。
彼女は紙を受け取りながら、小さく息をつく。
「汚くて、すみません」
「そんなことないです」
それから少し迷って、湊は言葉を足した。
「……書いてるんですか」
訊き方としては曖昧だった。
作曲しているのか、譜面を起こしているのか、何をしているのか自分でも分かっていない。それでも彼女は、意味を汲んだようだった。
「昔のものを、直してるだけです」
その答えは短く、その先へは進ませない返し方だった。
「そうなんですね」
「はい」
会話はそこで終わってもよかった。
けれど、外で風が強く鳴ったのと同時に、アパートの前の道路へ大粒の雨が落ち始めた。
まだ数滴だったのが、あっという間に密度を増していく。屋根の端から水が跳ね、駐輪場のトタンが細かく鳴りだす。
「降りましたね」
湊が言うと、彼女も外へ目を向けた。
「今日、洗濯物を出したままで」
「あ……」
言われて、さっきベランダに出ていた濃い色の長袖を思い出す。
彼女は封筒と楽譜を抱え直したが、郵便受けの前で一瞬だけ動きを止めた。両手が塞がっている。鍵もまだ抜いていない。紙を濡らしたくないのだろうとすぐに分かった。
「持ちます」
湊は自分の郵便物を脇に挟み、彼女の腕から大きい封筒だけを受け取った。
彼女は一瞬ためらう顔をしたが、すぐに「すみません」と言って鍵を抜く。
二人で階段を上がる。
外の雨脚は見る間に強くなり、吹き込みで共用廊下の床の一部がすでに濡れていた。
三階に着くと、彼女は「ありがとうございます」と言いながら急いでベランダへ出た。仕切り板の向こうで、ハンガーの音が立て続けに鳴る。
湊は三〇二号室の前で、封筒を持ったまま少し待った。
ほどなくして、彼女が戻ってくる。腕には取り込んだばかりの洗濯物が抱えられていて、その上に細い雨の匂いが乗っていた。
「本当に、すみません」
「大丈夫です」
封筒を返そうと差し出すと、その拍子に、彼女の抱えた洗濯物の端から白いタオルが一枚滑り落ちた。湿り気を含んだ布は、廊下の床にくたりと落ちる。
湊は思わずそれを拾い上げたが、彼女は「そのままで」と言うより早く、一歩近づいていた。
タオルを受け取る。その一瞬だけ、互いの指先が触れた。
ほんの短い接触だった。
冷たい、と思ったのがどちらの手についてか、自分でもよく分からなかった。
「……ありがとうございます」
彼女はタオルを抱え直し、今度は少しだけ目を伏せて言った。
雨の音が共用廊下の先で反響している。すぐ隣のドアとドアの前に立っているだけなのに、その数秒だけ、町から切り離された場所にいる気がした。
「大学、慣れましたか」
不意に彼女がそう訊いた。
意外で、少し間を置いてから「まだ全然です」と答える。
「講義とかは始まったんですけど、なんか……まだ、通ってるだけって感じで」
「そういう時期、ありますよね」
「雨宮さんは、この町長いんですか」
「長いです」
短く答えて、それから少しだけ言葉を足す。
「一度だけ出ましたけど、戻ってきました」
そこで踏み込むのをやめる。
「じゃあ、海とかもう見慣れてますよね」
「見慣れてはいますけど」
彼女は抱えた洗濯物の上に視線を落としたまま、かすかに笑った。
「飽きないです」
その言い方が、湊には少し良かった。
好きです、でもなく、特別です、でもない。見慣れていても、飽きない。そういう距離感で町を見ている人なのだと思った。
会話がふっとやわらいだところで、彼女はドアノブに手をかける。
「封筒、助かりました」
「いえ」
「楽譜まで拾ってもらって」
「たまたま近くにいただけなので」
そう返すと、彼女は一度だけ湊を見た。
正面から目が合うのは、たぶんこれが初めてだった。近くで見ると、瞳の色は黒一色ではなく、雨の前の海みたいに少しだけ柔らかい色を含んでいる。
「……夜、うるさかったら言ってください」
前にも似たようなことを聞かれた気がして、湊は少しだけ笑う。
「言わないと思います」
「どうしてですか」
「もう、あるほうが普通になってきたので」
口にしてから、それが思ったより率直な言葉だったと気づく。
彼女の表情は変わらなかったが、沈黙の角度だけが少し変わった。
「そうですか」
その返事は、前に聞いた時よりわずかに低かった。
嬉しいとも困るともつかない声音で、それ以上何も足さない。
彼女は会釈をして部屋に入った。
ドアが閉まる直前、暗い室内の奥にピアノの黒い影がちらりと見える。今日は蓋が半分だけ開いていた。
湊も自室へ入る。
ドアを閉めたところで、急に雨の音だけが大きくなった。共用廊下で交わした数分間が、外の気配に包まれて少し伸びていたのだと分かる。
その夜、ピアノは十一時を少し過ぎてから鳴り始めた。
雨はまだやんでいなかった。窓ガラスに当たる水音と、遠くの海鳴りが重なって、部屋の輪郭を丸くしている。湊はベッドの上で文庫本を開いていたが、最初の一音が聞こえたところでページをめくる手を止めた。
いつもの曲だった。
低いほうから始まり、慎重に階段を上るみたいに高音へ近づいていく。
けれど今夜の音は、前に聞いたどの日よりも、輪郭がやわらかかった。雨のせいかもしれない。あるいは、あの楽譜の鉛筆の跡を見てしまったせいで、湊の聞き方のほうが少し変わったのかもしれなかった。
またあの場所で止まるのだろうと思って、耳を澄ます。
旋律は上っていく。
待っていた沈黙が来る。
来るはずだった。
その一拍先に、音がひとつだけ置かれた。
たった一音だった。
それだけで曲が先へ進んだとは言えない。けれど、今まで何度も止まっていた場所の、その向こう側へ、確かにひとつ分だけ足を出した音だった。
すぐに途切れた。
そのあと、また最初から弾き直される。
湊は本を閉じたまま膝の上に置いた。
気のせいかもしれない、と頭では思う。たまたま手が流れたのかもしれない。けれど、気のせいにするには、その一音はあまりにはっきりしていた。
壁の向こうで、雨宮さんは今どんな顔をしているのだろう。
雨の音を聞きながら、あの消し跡だらけの譜面を見ているのか。
それとも、もう目を閉じたまま弾いているのか。
もう一度、同じ旋律が始まる。
今度はやはり、その場所で止まった。
ひとつ前へ進んだのは、たぶん本当に一度きりだった。
それでも湊は、そのわずかなずれが妙に胸に残るのを感じた。
知らない町で、知らない隣人の弾く曲の、たった一音ぶんの前進。
それだけのことなのに、雨の夜には、不思議とそれが大きな出来事みたいに思えた。
窓の外で風が向きを変える。
ベランダの金具が短く鳴り、また静かになる。
その静けさの中で、湊は、あの踊り場で触れたタオルの湿り気と、指先の冷たさを、なぜかまだ覚えていた。




