三〇二号室
引っ越し初日の夜だった。
三〇一号室の床には、まだ段ボールが三つ開いたまま転がっていた。
台所からは、新品のスポンジに含ませた洗剤の匂いがうっすら漂っている。カーテンは既製品の丈が合わず、窓の下だけが少し空いていて、その隙間から海の湿った冷気が入り込んでいた。
朝倉湊は、半分ほど剥がしたガムテープを指に巻きつけたまま、ふと手を止めた。
音がした。
壁の向こうからだった。
はじめは何の音か分からなかった。椅子を引くような、ごく小さな軋み。
それから少し遅れて、鍵盤の音が静かに部屋へ流れ込んできた。
ピアノの音色だった。
上手い、と思うより先に、夜に馴染みすぎた音だと思った。
旋律はゆるやかに、高いほうへ伸びていった。
次の一音が来る、と分かる。
しかし、その音は来なかった。
湊は膝をついたまま、段ボールの前でしばらく動けなかった。
終わったのではないと、なぜかすぐに分かった。実際、数秒後にはまた最初のほうから弾き直される。同じ曲だった。少しだけ間の取り方が違って、けれど必ず同じ場所で止まる。
窓の外では、見えない海が低く鳴っていた。
知らない町の、知らない部屋の、まだ何ひとつ馴染んでいない夜の中で、壁一枚向こうにだけ、もう長いこと続いている時間がある気がした。
その晩、湊は荷解きをほとんど進められなかった。
隣室で誰かが、何度も同じ数小節を弾いていたから。
翌朝、目が覚めた時、部屋は思ったより明るかった。
薄いカーテン越しでも光が白く回り込み、壁際に積んだ段ボールの角をはっきり浮かび上がらせている。
引っ越し疲れで深く眠ったつもりだったのに、体のどこかがまだ宙に浮いているようだった。知らない場所で迎える朝は、起きた瞬間だけ、自分がどこにいるのかの認識が、少し遅れてくる。
湊は布団の上で、上半身を起こし、窓を開けた。
海が見えた。
隣の建物の屋根越しに、鈍く光る帯のような水面が少しだけのぞいているだけだった。
それでも、風はまっすぐ海の匂いを運んできた。湿っているのに、どこか乾いている匂いだった。
都会とも地元とも違う、金属と塩の混じった朝の匂い。
ベランダの手すりには白っぽい粉が薄くこびりついていた。指で触れるとざらりとして、すぐに潮だと分かる。
昨日、不動産屋の人が「ここらへんは洗濯物、たまに硬くなりますよ」と笑っていたのを思い出した
朝食代わりにコンビニのおにぎりを食べてから、湊は近くを歩いてみることにした。
大学の入学式は明後日で、今日はまだ何の予定もない。部屋にいても荷解きは進みそうになかったし、進める理由も、今はうまく見つからなかった。
アパートを出ると、すぐ先に細い坂道が続いていた。
道の左側には、同じように古い二階建ての建物が並んでいる。軒下に植木鉢を吊るした家、窓にレースのカーテンをかけたままのクリーニング店、入口ののれんが日に焼けて色の抜けた定食屋。
人通りは少なく、たまに原付が通るたび、狭い道の空気だけが短く揺れた。
坂を下ると商店街に出た。
魚屋の店先だけはもう濡れていて、氷の上の銀色が朝日を返していた。惣菜屋から揚げ油の匂いが流れてくる。個人経営らしい小さな書店の前には雑誌が縦に並び、その隣の八百屋では店主が段ボールを潰していた。
どこも賑やかというほどではない。それでも、生活はちゃんとここにあるのだと分かる程度には、音と匂いがあった。
商店街を抜けた先に、防波堤が見えた。
ようやく、町の海をまともに見た。
広い、というより遠かった。
水面は春の朝らしく白く霞み、近くの波だけが砕けて細かく光っている。
釣り人が二人、間を空けて立っていた。どちらも無言で、肩だけが風に押されている。
防波堤に打ち寄せる波の音は、夜に部屋で聞いたものよりずっと平凡だった。昼の海は、どこまでも穏やかだった
しばらくそこに立っていたあと、湊はポケットのスマホを取り出した。
地元の友人から、着いたか、という短いメッセージが来ていた。母からは「ちゃんと食べてる?」の一文と、絵文字が一つ。
返信を打ちかけて、やめた。何を返しても、いま自分のいる場所の手触りまでは伝わらない気がしたから。
画面を消して歩き出す。
返事を後回しにする癖は、祖父が亡くなったあとから少し増えた。すぐに言わなくても大丈夫だと思って、気づけば時間だけが過ぎる。大事なことは、たいがい、そうやってあとになっていた。
防波堤の端まで行ったところで、湊は踵を返した。
風が思ったより冷たく、耳のあたりがじんとした。
アパートへ戻ったのは昼前だった。
三階までの鉄階段は日が当たると白く熱を持つらしく、手すりに触れるとひんやりしていた朝とは感触が違っていた。
階段の踊り場まで上がったところで、上から誰かが降りてくる気配がした。
湊は半歩だけ脇へ寄った。
先に見えたのは、薄い色のカーディガンの袖だった。
続いて、長い指先。手すりにそっと触れた手の甲が白い。そこから肩、髪、顔が下りてくる。
女の人だった。
年上だ、とすぐに分かる。二十代の後半か、もしかしたらもっと上かもしれない。
髪は肩にかかるくらいで、きちんと結んでいるわけではないのに不思議と乱れて見えなかった。目元には少しだけ影があったが、不健康というほどではない。
たぶん、隣の人だ。
昨夜の音が先に浮かんだ。
「すみません」
踊り場が狭いせいか、相手のほうが先に立ち止まった。
声は小さいのに、よく通った。
「いえ」
湊も短く返す。
そのまますれ違って終わるものだと思った。だが、彼女は一段下りたところで振り返った。
「三〇一号室、でしたよね」
「はい。昨日、越してきました」
「やっぱり」
それだけ言って、彼女はわずかに口元をやわらげた。笑ったというほどではない。
けれど、無表情なままではない程度に、角度だけが変わった。
「隣の三〇二です」
「あ……どうも」
挨拶としては、ひどく頼りない返しだった。
相手は気にした様子もなく、小さく会釈をする。
「雨宮です」
「朝倉です」
その名を、湊は心の中で一度だけ繰り返した。
雨宮。妙にこの町の空気に合っている気がした。
彼女――雨宮は、そのまま階段を下りていった。
下の階へ消えるまでの数秒、髪の先だけが外から入る風に揺れていた。
姿が見えなくなったあとも、踊り場にはさっきまで誰かがいた気配だけが残った。
香水ではない。柔軟剤とも違う。乾いた布に、ほんの少し雨の匂いが移ったみたいな、淡い匂いだった。
湊は階段を上がりきってから、自分の部屋のドアを開けた。
隣の三〇二号室の表札は空白だった。名前を差す透明の板だけがあり、その奥に白い紙が入ったままになっている。
夕方までかけて、本棚と衣類だけはどうにか片づけた。
だが、生活はまだ部屋の隅々に馴染まず、テーブル代わりの段ボールの上には充電器とペットボトルと大学の案内封筒が並んでいた。
台所に立ってレトルトのカレーを温めていると、西日が窓から斜めに差し込み、壁の白さを妙に冷たく見せた。
湊は食べ終えた皿を流しに置き、洗う気になれないままベランダへ出た。
夕方の海は、朝よりも色が重い。風に押された雲が低く、水平線の輪郭が少し曖昧だった。
下の通りから、自転車のブレーキが鳴る。犬の吠える声。遠くの防災無線。
夕方というには遅く、夜というには早い、町の音がばらばらに浮かんでいた。
隣のベランダとの境には、薄い仕切り板が立っている。
人ひとり跨げそうなほど頼りない板で、下のほうには潮気で少し反っている箇所があった。
その向こうから、かすかな物音がした。
ハンガーの金属が触れ合うような音。
続いて、ガラス戸の開く音。
湊は反射的に顔を向けそうになって、やめた。
見てもいい距離なのかどうかが、まだ分からなかった。
「朝倉さん」
名前を呼ばれて、結局そちらを向く。
仕切り板の向こうから、雨宮が少しだけ顔をのぞかせていた。
薄い部屋着の上に、カーディガンを一枚羽織っている。昼間見た時よりも輪郭がやわらかく見えるのは、夕方の光のせいだけではなさそうだった。
「昨日、音、うるさくなかったですか」
湊は一瞬、答えに詰まった。
おそらくピアノのことだろう。
「いや、全然。……むしろ、その」
上手かったです、と言うのも何か違う気がした。
きれいでした、では軽すぎる。
言葉を探しているうち、間の悪い沈黙ができる。
雨宮はそれを急かさなかった。
ただこちらを見て待っている。
「夜に合う音だな、って思いました」
出てきたのは、思っていたより曖昧な言い方だった。
けれど雨宮は、小さく目を伏せた。
「そうですか」
その返事だけでは、喜んだのか困ったのか分からない。
風が一度強く吹いて、彼女の髪が頬に触れた。細い指がそれを耳にかける。その仕草だけが、妙にゆっくり見えた。
「毎晩、弾かれるんですか」
訊いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
だが雨宮は少し考えるように間を置いてから答えた。
「毎晩、ではないです」
「でも、昨日は弾いてましたよね」
「はい」
そこで言葉は一度切れた。
彼女はベランダの手すりの向こうへ目をやる。海の方角だと分かる視線だった。
「眠れない日に」
その一言は、説明のようでいて、何も説明していない。
けれど湊には、その言い方のほうが、かえって現実味があった。
「そういう日、ありますよね」
合わせるように言うと、雨宮はわずかに笑った。今度はさっきの階段よりはっきりしていたが、それでも一瞬で消える程度のものだった。
「朝倉さんも?」
「たまに」
本当は、たまに、ではなかった。
祖父が亡くなってから、夜が急に遠くなる日があった。眠いはずなのに、体だけが布団に置き去りになるみたいな夜だ。そういうことを知らない相手に説明するには、まだ近くなかった。
雨宮はそれ以上は訊かなかった。
代わりに、「洗濯物、風で飛ばされないように気をつけてください」とだけ言った。
「ここ、けっこう飛びますから」
「そんなにですか」
「海が近いので」
それは、当たり前の説明だった。
けれど、その町で長く暮らしてきた人の口ぶりに聞こえた。昨夜の音だけではなく、今日までの風の強さまで、この人は知っているのだと思うと、壁一枚の距離が急に具体的になる。
話が終わる気配を感じて、湊も「ありがとうございます」と返した。
雨宮は軽く会釈して部屋へ引っ込む。ガラス戸が閉まる直前、部屋の中に黒いアップライトピアノの端が見えた。艶のない暗い木目。蓋は閉じられていた。
その夜も、十時を少し回った頃にピアノは鳴りはじめた。
今度は最初から、湊は部屋の電気をひとつ消していた。明かりが少ないほうが音は近くなる。理由は分からないが、そう感じた。
机代わりの箱の上に教科書とノートを広げてはみたものの、文字はまったく頭に入らない。昨日と同じ旋律。やはり少しずつ違う間。けれど止まる場所は変わらない。
湊は、ノートから視線を上げ、壁を見る。
もちろん向こうは見えない。白いクロスが貼られた、ごく普通の壁だ。それなのに、いまそのすぐ先に雨宮が座っていて、細い指で鍵盤に触れていることだけが妙に生々しく想像できた。
あの人は、どんな顔でその先を止めるのだろう。
譜面を見ているのか、それとも見なくても弾ける曲なのか。
何度も同じところで止まるのは、そこから先を知らないからなのか。
知っていて、弾かないだけなのか。
旋律がまた高いところへ届く。
次が来る。
来ない。
沈黙。
昨日と同じはずなのに、その数秒は、昨日より長かった。
湊は息を浅くした。
やがてまた最初から音が戻ってくるのを待つ。だが、今夜はすぐには再開しなかった。
代わりに、微かな音がした。
何か小さなものを落としたような、あるいは、指先が鍵盤の端を掠めたような音。
そのあとも、しばらく静かだった。
ドアを開けて、隣を見に行くほどのことではない。
たぶん、そうだった。
それでも湊は立ち上がりかけた自分の膝を見て、少しだけ戸惑った。まだ名前を知っただけの相手だ。昼と夕方に、短い会話をしただけの隣人。それなのに、壁の向こうの沈黙が、思っていたより気にかかる。
数十秒ののち、ようやくピアノは戻ってきた。
最初からではなかった。止まったところより、少しだけ手前からだった。
そのずれが、ひどく人間らしく思えた。
湊は椅子に座り直し、ノートを閉じた。
窓の外では、見えない海が、昨夜より重たく鳴っている。
部屋の隅の段ボールはまだ片づききらず、洗ったばかりのマグカップが流しの上で乾いていた。
今日という一日は、たぶんもうこれ以上何も起こらない。大学も始まっていない。友人もいない。土地勘もない。食器の置き場所さえ決まっていない。
それでも、壁一枚向こうに雨宮という人がいて、眠れない夜にピアノを弾く。
その事実だけが、この町での最初の輪郭になりつつあった。
旋律は三度目の高音へ向かう。
またあそこで止まるのだろう、と湊は思う。
そして実際、その通りに止まった。
けれど、止まったあと、ほんの一拍だけ長く余韻が残った気がした。
気のせいかもしれない。
海鳴りと混じっただけかもしれない。
それでも湊は、そのわずかな違いを覚えておこうと思った。
知らない町で暮らし始めるというのは、案外こういうことなのかもしれなかった。
大きな出来事ではなく、壁の向こうで誰かが毎晩同じ場所で止まる、その小さな反復から、自分の時間が少しずつ新しい場所に繋がっていく。
夜は静かだった。
静かなまま、どこかだけがまだ終わらずに残っていた。




