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【秋の文芸展2025】殺した友の幻と会話し続ける少年

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/07

 九月の風は、少しだけ金属の匂いがする。グラウンドの砂に混ざる血の匂いに似ているのは、僕だけの記憶のせいだろうか。放課後、校舎の影が長く伸びるころ、僕はフェンスにもたれて、空席のほうを見てしまう——教室の、一番後ろの窓側。そこに君が座っている気がして、僕は何度も視線を引き戻す。


「やめろって。そんな顔で見るなよ」


 声は、相変わらずよく響く。教室の蛍光灯が唸る音に溶けるみたいに、自然に入ってくる。僕の耳は、君の声の通り道を覚えてしまった。


「別に怒ってないし、恨んでもいない。ただ……」


「ただ、なに」


「今日のプリント、俺のぶんも取ってこいよ。おまえ、要領いいんだから」


 からかうように言うその調子は、生きていたころの君と変わらない。僕の指は勝手に動いて、プリントの束から二枚を抜き、机に置く。癖って、簡単には治らない。


 廊下を歩くと、窓の外に夕焼けが滲む。僕らが走った河川敷へ伸びる道が、オレンジ色の幕の裏で薄く揺れる。あの日も、こんな色だった。僕が君に、言わなくてもいいことを言った日も。


 ——おまえさ、ずるいよ。みんなに好かれて。なんでそんな簡単に笑えるんだよ。


 君は笑って、首をかしげた。

 ——ずるいって言われたの初めて。じゃあさ、競走にする? 堤防の上まで。


 何もかも、つまらない賭け。僕らは走ることで何度も仲直りした。でもその日は違った。湿った草に足を取られて、君は一歩、二歩、三歩——空を踏んだ。風の匂いが鉄に変わって、世界が傾いた。


 それから毎晩、僕は君と話している。話しているつもりだ。

 「つもり」なんて言葉を選ぶのは、先生が保健室で言ったからだ——ショックから来る幻聴や幻視は珍しくないのよ、と。

 珍しくない、が、僕にとっては唯一だった。



「おまえ、またコンビニのイートインにいるの?」


 スマホの画面に映る自分の顔は、驚くほど眠そうだ。テーブルに置いたおでんの出汁が、湯気で眼鏡を曇らせる。君は、湯気を割るみたいに現れる。


「牛すじ多くね? 俺にも一個」


「おあいにくさま。これで最後」


「けち。……なあ、最近さ、俺の家に行ってないだろ」


 ぎくり、と箸が止まった。

 君の家には、春先まで通っていた。線香の匂いがほこりっぽい廊下に残っていて、玄関のたたきに君のスニーカーが置いてある。サイズは僕と同じなのに、形は少し違う。君は爪先で地面を蹴る癖があって、靴の先がいつも丸く削れていた。

 おばさん——君の母さんは、お茶を入れてくれた。湯呑みの内側に浮いた茶渋が、やけに鮮明だった。僕はいつも、手のひらを膝の上できつく握って、爪の跡をつけた。


「行けよ。行ってこいって」


「なにを言えばいいの」


「なんでも。天気の話でも、俺のどうでもいいくせの話でも。ほら、言うことがないなら、伝言でもいい。あのさ——」


 君の声が、ふっと低くなる。

「そろそろ終わりにしようか、って」


 その言い方は、いつもと違った。軽いのに、重い。何かが抜け落ちる感覚——テーブルの端をつかみ損ねる瞬間の、胸の浮き。


「俺はさ、おまえと話すのが好きだよ。だって、他に話す相手がいないから」


「いるだろ。先生とか、あの陸上部の後輩とか。あいつ、ずっとおまえを追いかけてるぞ」


「それは、走り方の話でしょ」


「うん。走り方の話だ。走ってけよ」


 湯気が切れて、コンビニの蛍光灯が白く目に刺さる。僕は残りの出汁を飲み干して、席を立った。



 君の家の表札は小さくて、門柱の角にひそやかに留められている。インターホンを押す指が、思ったより冷たかった。

 扉が開く音も、春先と変わらない。おばさんは少しやせた。けれど、笑い方はまだ温かい。


「いらっしゃい。よく来てくれたね」


 玄関で靴を揃えていると、僕の横に君がしゃがむ。

「ほら、言えよ」と口パクで言う。

 僕は、喉の奥に溜まった言葉の塊を、ひとかたまりごと押し出した。


「お線香、あげさせてください」


 仏間は薄暗く、写真立てのガラスに外の光が跳ね返る。そこに君がいて、いない。僕は手を合わせて、何も祈らない。祈る資格なんてない、とずっと思っていた。でも、祈らなければ何も届かないのなら、資格なんてはじめからないのだ。

 手を下ろすと、おばさんが畳に座り、急須を回した。


「学校は、どう? 走ってる?」


「……まあ、ぼちぼち」


 同じ質問。同じ答え。間をつなぐための、習慣の会話。

 君が、ふと、仏壇の横に目を向ける。封の切れていない白い封筒が、写真立ての裏に差し込んである。


「それ、俺の卒業アルバムのやつだな」


 おばさんが気付いて取り上げた。

「学校から届いたの。渡す人がいないから、ずっと置いてあって。……見る?」


 胸の中で何かが跳ねた。僕は首を縦にも横にも振れず、ただ視線だけを落とす。おばさんは封を破り、アルバムを開いた。

 ページの隙間から、一枚の手紙が滑り出す。手のひらに落ちたその紙は、古びた匂いがした。


「……?」


 おばさんは首をかしげ、手紙を僕に差し出す。封筒の表に、細い文字で、こうあった。

 ——宛:未来の君へ。


 中身を読むべき人間は僕ではない。けれど、おばさんは「あなたが読んで」と言った。声は静かだった。

 僕は一度、君を見る。君は、わずかに肩をすくめる。読めよ、という合図。


 紙は、思ったより軽かった。


 〈未来の俺へ。今の俺は、いろいろ考えすぎて、いろいろ考えなさすぎている。どっちだよって話なんだけど、ともかく、俺は思っている。今はまだ言えないけど、卒業したら言うつもりのことがある。俺には大事な友達がいる。走るのが速くて、顔にすぐ出るやつ。そいつは、人より先にゴールに着くのが得意だけど、スタートの合図はいつも聞き逃す。俺は、そいつのスターターになりたい。もし未来の俺がまだ生きているなら、ちゃんと伝えてくれ。ちゃんと隣に立って、『よーい』って言ってやれ〉


 文字の端に、走り書きのように付け足しがあった。

 〈なんでこんな変なこと書いてるのか、自分でも分かんない。でも、もしも——もしも俺が先に行っちゃってたら、この手紙は誰かに読んでもらってるはずで、そしたらさ、俺のかわりに、その友達の背中を押してやってくれ。押しすぎない程度に、ちょっとだけ〉


 紙が、手の汗で柔らかくなる。

 君は、仏壇の前で体育座りをして、笑っている。

「俺、こんなの書いてたんだな。忘れてた」


 僕は、喉の奥から何かがせり上がるのを感じた。

「僕は——」


「言えよ」


「僕は、君を突き飛ばした。走りたくなかった。負けたくなかった。君の笑い方が、まぶしすぎて、目を細めた。……それで、手が出た。足が出た。君が落ちるのを、止められたのに、止めなかった」


 畳の目が、ぶれて見える。おばさんの息を呑む音が、遠くなる。

 君は、笑っていた。笑うな、と言いたかった。笑うと、僕は救われてしまう。


「終わりにしようか」


「勝手に終わらせるなよ」


「いや、もう、いいだろ。おまえはやっとスターティングブロックに足をかけた。俺はピストル役。パン、って鳴らして、おまえを出す。それで終わりで、いい」


「終わったら、君はいなくなる」


「そうだな」


「怖いよ」


「怖いのは、最初の一歩だけだよ」


 おばさんの手が、そっと僕の背に触れた。

「来てくれて、ありがとうね」と、彼女は言った。

 罰や赦しの話は、どこにも出てこなかった。出してはいけない、と分かっていた。大人の静けさは、時に残酷だ。



 翌朝、グラウンドの白線は引き直されていた。空気が澄んで、肺に入る音まで聞こえそうだ。陸上部の後輩が、遠巻きに僕を見ている。

 ——先輩、また走るんですか。

 彼の顔には、質問の言葉より先に、期待の光が走る。


「走るよ。……よーい、って言ってくれる?」


「え、僕が、ですか?」


「うん。君が」


 彼はおどおどと頷いて、ピストルのまねをした。

 腕を上げる動作がぎこちない。けれど、そのぎこちなさが、僕の足裏を地面に縫い付ける。


「よーい——」


 風が、頬を撫でる。君の手のひらみたいに、少しひんやりして、少しざらついている。


「——ドン!」


 地面が後ろに滑っていく。膝が、太陽へ向かって伸びる。

 スターティングブロックを蹴り出す瞬間、耳の奥で、もう一発の音がした。誰のピストルでもない、僕自身の足音だ。

 君の声は、しなかった。

 代わりに、風の中で、僕は僕に言った。

 ——走れ。


 百メートルを越え、二百メートルの向こう、フェンス越しに銀杏の並木が揺れている。葉はまだ緑だ。でもよく見ると、先端がうっすらと黄色い。季節の気配は、まず端からやってくる。

 僕はゴールテープを切った。誰も用意していないテープを、想像で切った。息が痛い。胸が焼ける。

 ふと空を見上げると、雲の縁が白く光っていた。誰もいないはずの隣に、誰かが立っている気がして、僕は笑った。君の笑い方の真似をして、目尻にしわを寄せて。



 放課後、僕は河川敷に向かった。あの日の草は、刈られて短くなっている。風に倒れることも、足を取ることもない。

 僕はポケットから、小さな紙切れを出した。昨夜の手紙の、端の切れ端。読み終えたあと、おばさんが「持っていくかい」と差し出したのだ。断ることも、受け取らないこともできなかった。


 切れ端には、君の字で、たった三文字が残っていた。

 〈よーい〉


「準備はいいよ」


 声に出して言う。風が、遠くで拍手をしている。

 君は返事をしない。もう、しない。

 それなのに、僕ははっきりと分かった。君は、許していないし、責めてもいない。どちらでもないところに立って、僕の背中を、押しすぎない程度に、ちょっとだけ押したのだ。


 僕は紙切れを、川面へ浮かべる。流れはゆっくりで、文字が水を含んで滲む。滲んだ「よーい」は、見たこともない形に広がって、やがて水と一緒になって消えた。


 帰り道、ポケットが軽い。体も、少しだけ。

 コンビニの角で、陸上部の後輩が手を振った。

「先輩、明日も走りますよね!」


 僕は頷く。

「ああ。明日も」


 角を曲がる。君の影は、もう曲がらない。

 誰かを失うということは、その誰かと別の道を歩くということだ。二つの道はもう交わらない。それでも、風の向きが変わるとき、葉の端にふっと色が差すとき、僕は君の名を呼ばずに、君のことを思うのだろう。

 ——それで、いい。


 家のベランダから見える空は、高くなっていた。夜のはじまりと昼の終わりが、痩せた指で握手する。

 僕は、窓を少しだけ開け、部屋の空気を入れ替える。

 机の上に置いたプリントは一枚だけだ。もう二枚重ねる癖は、やめた。

 代わりに、机の端にメモを貼る。

 〈七時起床。七時半、走る。〉


 ペンを置くと、静けさが戻る。静けさの中心に、白い丸がある。夏に、君と僕の間に残った、空白のような丸だ。そこへ、秋の風が入り込み、ゆっくりと広がる。

 僕は、目を閉じて、息を吸う。

 息を吐くと、胸の奥で何かが、少しだけ整う。


 ——よーい。


 僕は、僕にそう告げる。

 そして、朝へ向かう足音を、心のなかで鳴らした。


(了)

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