第4章:絶望と覚醒
リサの不安は的中していた。
体内に入り込んだ細胞は狡猾だった。体内に入り込んだ「黒い細胞」は、自身の生存のため、ゆっくりと環境に合わせて変異していき、悪質化(のちにナミが魔癌化と名付ける)していく。
まるで寄生虫のようにリサの生命力を少しずつ吸い取りながら、彼女の体を内側から侵食していき、体調の変化がないのは「黒い細胞」がリサの生命活動を阻害しないよう巧妙に擬態していたからに他ならず、リサの無意識下では彼女の存在そのものを変質させていった。
「黒い細胞」がリサに侵入してから数週間が経った頃、城内で奇妙な事件が頻発し始めた。
夜な夜な飼育されている役畜が無惨に殺害されるのだ。
最初は単なる獣同士の争いと思われたが、その現場は異常だった。遺骸は貪り食われたかのように体組織が乱雑に食いちぎられており、血がほとんど残されていなかった。まるで、生き物の血を吸い尽くしたかのように乾ききっていた。
「一体、何者が……?」
城の騎士たちが捜査に乗り出す。
夜間の巡回が強化され、不審な人物の洗い出しが行われる。城内には得体の知れない恐怖が蔓延し始めており、夜になると固く門扉が閉ざされた。
そんな中、すぐに容疑者が浮上する。
「日野原リサ殿。貴殿に、家畜殺害の容疑がかけられている」
ある日、リサの研究室に突然、騎士たちが踏み込んできた。彼らの顔には疑念と警戒の色が浮かんでいる。
「わたしが…? 覚えがありません!」
リサは真っ向から否定した。しかし、騎士たちは冷たい目で彼女を見つめる。
「貴殿が夜中に研究室を抜け出し、家畜小屋の近くを徘徊していたという目撃情報が多数ある。それに、貴殿の能力は血液操作。家畜の血が異様に少ないという状況証拠もある」
リサは身に覚えのない事実に混乱し、言葉を失う。ナミが騎士たちに抗議の声を上げ抵抗しているが、乱暴に突き飛ばされる。
「やめて!あなた達に従います…乱暴は止めて…」
ナミを介抱しながら、リサは従う意思を示し、騎士たちも安堵の様子を見せる。
「貴殿には、しばらく牢屋で過ごしてもらう」
リサは呆然としたまま、王宮の地下にある薄暗い牢屋へと幽閉されてしまった。
冷たい鉄格子が彼女の自由を奪った。
冷たい石の床に座り込み、リサは呆然と過ごしていた。
牢屋の中は、湿った土とカビの匂いが充満し、わずかな光も届かない。なぜこんなことに。自分はただ、元の世界に戻りたかっただけなのに。人助けをしていただけなのに。この世界の人々は、私を信じてくれたはずなのに。
裏切られた怒り、無実の罪を着せられた悔しさ、そして、この異世界での孤独感がリサの心を蝕んでいく。
その頃、シンジとナミが救済に向けて関係各所を回っていたが芳しく、リサとの面会を許されず苦悩する日々を過ごしていた。
研究のため宰相の庇護を受けているリサだったが、許可なく王族財産である役畜を毀損させた事に面目を潰されたと、反宰相派の貴族が団結して強く訴えていた。その圧力に宰相も庇い切ることができなかった。ただ医療分野の貢献が大きいリサを処刑しようとは両派閥とも考えていなかった。ただ宰相としても、身分差を知らしめ、リサをより強い影響下に置く、という思惑もあって懲罰的な幽閉がなされていた。
ただ、この行為が自分たちの死刑台を用意することになる。
その様子を虎視眈々と窺っていた「黒い細胞」は、リサの心が折れかかっていることを察して、それを喰らうため隠れるのを止めて蠢動を始めた。
そして、泣き疲れて牢屋の壁に寄りかかり、うたた寝していたリサに突然、激しい口渇と飢餓感、そして全身に虫が這い回るような不快感が襲う。
それは細胞の奥底から湧き上がるような耐え難い渇望だった。狂気的な欲求が全身を駆け巡り、火傷のような痛みが脳髄を焼く。
「ぐっ……あああああああ!」
リサはのたうち回り、泣き叫び、暴れまわった。全身の細胞が、喰い物を求めて叫んでいた。意識が朦朧とし、理性が薄れていく。目の前が赤く染まり、耳の奥で、何かが囁く声が聞こえる。「喰らえ……喰らい尽くせ……」その声は、リサ自身の内側から響いているかのようだった。
騒ぎを聞きつけた守衛が、慌てて牢屋に駆けつけた。
「おい、どうした! 静かにしろ!」
守衛が暴れるリサを押さえつけようとした時、リサは獣のような唸り声を上げ、守衛の腕に噛みつき、深く食い込んだ。
「がはっ……!? ぐあああああああ!」
肉を食いちぎる感触と、口の中に広がる生温かい液体。それは、何よりも代えがたい芳醇な甘露だった。
飢餓感が魔法のように和らぎ、リサの意識は急速にクリアになった。正気を取り戻したリサの目に映ったのは、食いちぎられた腕を押さえ、痛みに悶え苦しみながらも、化け物を見る目で怯え切った守衛の姿だった。守衛の顔は蒼白になり、その瞳には純粋な恐怖が宿っていた。
「ひ、ひぃ……化け物だ! 化け物が出たぞ!」
守衛の叫び声に城の騎士たちが慌ただしく駆けつけてきた。
彼らは血まみれのリサと、腕を食いちぎられた守衛を見て、即座に状況を判断した。
「っ!!許可する!痛めつけてやれ!」
騎士たちは惨状に驚きつつも、問答無用でリサを何度も殴打する。ただ殺す意図はなかったようで、持っていた剣は鞘に納めたまま、鈍器のように殴りつけた。
頭部や腹部を狙って殴られたため、リサは命の危機を感じ、とっさに頭とお腹を守るように蹲る。血液操作で殴られた部分の痛みを和らげようとするが、血液は熱湯のように煮え滾っているようで熱くて、うまく操作できない。
体内の魔癌化細胞が、リサ自身の血液を拒絶し、さらに変質させているかのようだった。その痛みは、斬りつけられる痛みよりも、はるかに耐え難いものだった。
痛みと熱さ、絶え間ない飢餓感に耐えきれず、次第に意識が遠のいていく。
しかし遠のく意識に合わせるように、同時に彼女の体は皮膚は青白く変色し、血管は赤黒く浮き上がり、瞳から血のように赤い涙が止め処なく溢れ出る。髪は白く色落ちし、爪は鋭く伸びる。全身が軋み、骨が変形する音も聞こえる。体から腐敗したような、しかしどこか甘く、ヒトを誘惑するような香しい匂いが漂い始めた。
落ちかえる意識の中で、リサはぎょろりと目を回した。
磨かれた騎士の鎧にぼやけて映る、異形の自分の姿。それは、もう人間とは呼べない、醜悪な怪物だった。その姿は、人々が恐れるべき「魔物」そのものだった。
「……元に……戻りたい……」
人として、あの頃の自分に”元に戻りたい”と強く願いながら、リサの意識は闇に落ちていった。
しかし、その願いは、彼女の体を内側から侵食していた魔癌化した「黒い細胞」によって、皮肉な形で受け止められた。
創造主であり、宿主のリサのその願いは彼女の全てを乗っ取り、生命そのものを歪ませていく。
――生まれ変わった。
目覚めたリサだったものは、そう感じた。
全身を満たす新たな力。そして抑えきれない強烈な飢餓感。もはや空腹などではない。生命そのものを貪り尽くす根源的な渇望だった。目の前の生きた肉と血を求める純粋な欲求。
異様な風景に動揺していた騎士たちは即座に動く。今度こそ鞘から剣を抜いて、再度リサに刃を突き立てる。しかし、それはまるで痛痒を感じない。飢餓感の赴くままリサだったものは騎士に襲いかかった。
彼女の動きは、人間離れした俊敏さと力強さを備えていた。ただ、戦闘訓練を受けた騎士たちにすぐに敵うはずもなく、何度も傷を受けてもすぐに立ち上がり、そのたびに瞬時に傷は塞がっていく。再生能力はもはや常識の範疇を超えていた。致命傷を与えても何度も襲ってくるリサだったものに、恐慌と疲労で動きが鈍った騎士たちを最後には食い殺してしまった。
彼らの血肉は、飢餓感を満たすための供物と化す。
満足するまで騎士だったものを食らいつくし、リサだったものは牢屋から出て開けたところに出ると、そこには緊急報告を受けた城の上役が大勢の騎士・兵士を連れて取り囲んでいた。彼らの顔には、恐怖と混乱が色濃く浮かんでいた。
ぼやける視界と聴覚で、上役が何かを叫んでいるのは分かった。だが、それよりも周りから感じる”美味しそうな気配”に、それどころではなかった。それは、無数の生きた命が放つ、甘美な匂いだった。
一旦は満たされたはずの飢餓感が新たに湧き出す。
「これだけいれば、元に戻れるかな」
ポツリと、リサだったものが、かすかな期待と深い絶望が混じり合った呟きを漏らす。
それを城の上役に耳に届くと、彼は鼻で笑った。
「馬鹿め! 元の世界への帰還は、不可能だ……ッ! 貴様らは我が国の奴隷なのだからな!!」
その言葉が、わずかに残っていたリサだったものの、最後の人間としての意識を吹き飛ばした。
「……嘘……だ……」
その口から漏れる怨嗟の声は、もはや誰にも届かない。
「ふざけるな……ッ!」
絶望、裏切り、そして、この世界への限りない憎悪。
それらが、飢餓感と融合し、彼女を完全な「魔物」へ加速させる。
「……許さっナイ……!!」
後に歴史で最悪の魔王に数えられる『原始の不死者の女王』が誕生した瞬間だった。
彼女から、人の声とは思えない獣のような甲高い叫び声が上がると、体内から黒いモヤが溢れ出し、あっという間に広場を包み込む。そのモヤは生きているかのように蠢き、周囲の兵士たちにまとわりつく。モヤに触れた兵士たちは次々と苦悶の声を上げ、その場で倒れ込む。
「あああああああああ!」
囲んでいた兵士の何人かが、彼女に同調するように叫び声を上げ始めた。
彼らはリサの治療を受けた者たちだった。
血液を輸血された者たちの体内でも、細胞が異常な「魔癌化」を始めていたのだ。
瞬く間にその形を変え、本能のまま狂気と飢餓感に突き動かされる醜悪な不死者へと変貌していく。
かつての恩人であり癒しの血液が彼らを死者へと変える毒となり、彼らの姿は魔物のそれへと塗り替えられていった。
飢餓感に突き動かされた不死者たちは『原始の不死者の女王』から伝染した「人を襲って食らう」という本能のまま生者たちに襲いかかり、次々とすぐ近くの人を喰らう。
瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図が広がり、一夜にして王都全体が大混乱に陥る。
わずかな期間で王都は肉が飛び散り、血で塗れた死者の街と化し、戦う力のない生者は死に物狂いで王都から脱出した。
生者の中には、絶望的な状況でも、全ての原因と思われる『原始の不死者の女王』を討伐しようと戦い挑む者もいた。
ただ、その力は、この世界の魔法使いや騎士たちの常識を遥かに超えるものだった。彼女の体は、もはや刃も魔法も通じないほどに硬質化し、その瞳には、かつてのリサの穏やかな知性とは異なる、冷酷な光が宿っていた。
時には力によって、時には奸計によって、敵対した者たちを次々と葬り去り、自らの眷属へと加えていく。
徐々に魔王と呼ばれるに相応しき実力を蓄え、やがて王都の玉座に君臨し無数の不死者を従える真の魔王と化した。
下僕となった不死者たちは、自らの素体も含めた殺した者たちをまず魔癌化した細胞を通じて主に捧げており、捧げられた供物を得た女王は、それらから生前の知識や経験、魔法を僅かずつだが吸収していき、時が経てば経つほど強大な力を持つようになる。
王都が壊滅状態となる中、生き残った兵士や騎士たちが、かろうじて連絡を取り合った。
近隣の領主たちも、この異常事態に驚愕し、救援の兵を差し向けた。国を救おう、王を助けよう、名誉は思いのまま、と様々な思惑を持った者たちが王都に乗り込んで討伐を試みる。
しかし彼らは全て失敗してしまう。
討伐に向かった兵士たちは、数の暴力と不死性に抗い切れず次々と敗北し、不死者と化し新たな敵として立ち塞がる悪循環、実力と運で『原始の不死者の女王』の眼前に立つことができた者も、数多くの屍の上に立つ女王に敗れ去り、その軍門へと下った。
やがて王都周辺に抵抗する者たちもいなくなると、飢餓感に煽られた不死者達は王都を飛び出して、近隣の町村を襲い始めて被害が拡大していく。
「魔王だ! 新たな魔王が誕生した!」
「このままでは世界が滅ぶ!」
しかし王都に跋扈している夥しい不死者を前にして、下手に攻撃すれば犠牲者が敵に回ってしまうという状況に打つ手がなかった。
王国は王都を失い、風前の灯だった。




