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『沈みゆく記憶の彼方へ ~日本沈没』

作者: 小川敦人

『沈みゆく記憶の彼方へ ~日本沈没』


空は青く澄み渡り、新緑の香りが漂う五月の初日。ゴールデンウィークの始まりだというのに、私は一人部屋に閉じこもって古いDVDを取り出していた。『日本沈没』。1973年、森谷司郎監督、小松左京原作の傑作パニック映画だ。


「懐かしいなぁ」


ケースを開け、ディスクをプレーヤーに入れる。モニターに映し出されるオープニングクレジット。懐かしい音楽が流れ始めると、私の記憶も遡り始めた。


1973年、私は大学3年生だった。あれから50年以上の歳月が流れたことが信じられない。今や私も老人になってしまった。それでも今日はまだ会社に出ている。「現役老人」という言葉が妙に気に入っている。


「確か…三津子の家族と見たんだったな」


誰にともなく呟いた言葉が、静かな部屋に響く。後に妻となる三津子。十五年前に病で失った最愛の人。彼女の父親の三郎さんと弟の康秀と一緒に観た記憶が鮮明に蘇ってきた。だが、なぜ私が彼女の家族と映画を見に行くことになったのか。それは今でも謎のままだ。


***


映画が始まった。深海潜水艇がD1海底断層を調査するシーン。藤岡弘演じる小野寺俊夫が潜水艇を操縦している。画面は暗く、緊張感に満ちている。


「この頃の藤岡弘は、まだ『仮面ライダー』の印象が強かったんだよな」


当時は特撮スターのイメージだった藤岡弘が、真面目な科学者役で登場したのは新鮮だった。


田所博士役の小林桂樹が重々しい声で語り始める。


「日本列島は今、未曾有の危機に直面している」


画面に見入りながら、私は1973年の映画館の風景を思い出していた。


***


「隆介君、早く!もう始まるわよ!」


三津子の父親である三郎さんが私を急かす。彼は大手交通会社の役員で、読書と映画が大好きだった。だから『日本沈没』という映画に興味を持ったのだろう。


「すみません。チケット買うのに時間がかかって」


「隆介さん、ポップコーン買ってきた?」


康秀が無邪気に尋ねる。まだ高校生だった彼は、私のことを兄のように慕ってくれていた。


「買ってきたよ。三津子は?」


「トイレに行ってる。すぐ戻るって」


私たちは銀座のオリオン座の前に立っていた。長蛇の列ができており、『日本沈没』の人気ぶりが窺えた。


「この映画、実は原作読んでないんだ」と康秀が言った。


「僕も読んでないよ。でも三郎さんが面白いって言うから…」


「小松左京は天才だよ」三郎さんが得意げに言った。「最近、会社の役員会で彼の本の話になってね。みんな読んでいるんだ。日本がまるごと沈むなんて発想、凄いだろう?」


その時、三津子が戻ってきた。


「お待たせ。もう入れる?」


「ああ、そろそろだね。みんな、チケット持った?」


私たちは列に並び、映画館に入った。座席は中央付近の良い位置だった。


「隆介君、隣に座りなさい」


三郎さんが私に言う。そして三津子が私の隣に座った。彼女との関係はまだ友人以上恋人未満。微妙な距離感を保っていた時期だった。


映画が始まると、観客は一気に物語の世界に引き込まれていった。


***


「小野寺!どうした?応答しろ!」


スクリーンの中で、基地からの通信が響く。小野寺の深海潜水艇が危険な状況に陥っていた。


「山が…山が動いている…!」


この有名なセリフが発せられた瞬間、当時の映画館はどよめいた。


「凄いな、この特撮」と康秀が小声で言った。


三津子が私の腕をぎゅっと掴んだ。彼女は怖がりだった。その温もりが嬉しかったことを、私は今でも覚えている。


***


そんな記憶を辿りながら、私は一人DVDを見続けた。山本総理大臣役の丹波哲郎が厳しい表情で語るシーン。


「我々は厳粛に受け止めなければならない。日本がなくなるんです。島国が一つ、まるごと」


このセリフを聞いて、当時の衝撃が蘇ってきた。「日本がなくなる」という概念は、それまでの日本映画にはなかったものだった。


画面は官邸での緊迫した会議シーンに移る。若手官僚を演じる山本圭が必死の表情で訴える。


「総理、時間がありません!国民の避難を最優先すべきです!」


丹波哲郎演じる総理大臣が重い口調で答える。


「分かっている。だが、混乱を起こさせることはできない。段階的に…」


「段階的に?そんな悠長なことを言っている場合ではないんです!」


映画の中の緊張感が、私の部屋にも満ちていく。


***


「すごい映画だったね」


映画館を出た後、康秀が興奮した様子で言った。


「うん、特に最後のシーンは印象的だった」と私。


「日本人として死ぬのか、人間として生きるのか…というセリフが心に残ったわ」と三津子。


彼女の父である三郎さんは、企業人らしく冷静に分析していた。


「実現可能性は低いとしても、危機管理という観点では考えさせられる内容だな。小松左京の想像力は素晴らしい」


私たちは映画の余韻に浸りながら、銀座の街を歩いていた。夕暮れ時で、ネオンが灯り始めていた。


「隆介君、うちで食事していかないか?母さんが待ってるんだ」


三郎さんの突然の誘いに、私は戸惑いながらも喜んで承諾した。


「ありがとうございます。お邪魔します」


三津子が嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。隆介さんが来てくれるなんて」


その言葉に、私の心は少し躍った。


***


私たちは大場家へと向かった。閑静な住宅街にある洋風の家だった。


「ただいま」と三津子が玄関を開ける。


「お帰りなさい。あら、隆介さん」


三津子の母親である政子さんが出迎えてくれた。温かい笑顔の素敵な女性だった。


「こんばんは、お邪魔します」


「いいえ、どうぞどうぞ。ちょうど夕食の準備ができたところよ」


家の中は整然としていて、知的な雰囲気に満ちていた。書棚には学術書が並び、壁には西洋の風景画が飾られていた。


食卓には、すでに料理が並べられていた。


「映画はどうだった?」政子さんが尋ねた。


「とても面白かったよ」と三郎さん。「隆介君も楽しんでいたようだ」


「はい。特撮の迫力に驚きました」


「隆介さんは映画好きなの?」政子さんが私に微笑みかける。


「はい、よく観に行きます。特に邦画が好きで」


「そう、三津子も映画好きなのよ。二人で観に行くといいわね」


その言葉に、三津子は少し頬を赤らめた。


「お母さん…」


三郎さんが咳払いをした。


「さて、食事にしよう。冷めてしまう」


私たちは食卓を囲んだ。和やかな雰囲気の中、話題は再び『日本沈没』に戻った。


「あの映画、現実味があったわね」と政子さん。


「ええ」と三郎さん。「特にニクソンショックの後で、日本の将来に不安を感じている人も多いからな」


「ニクソンショック?」と康秀。


「そう」と私が説明する。「1971年にアメリカのニクソン大統領がドルと金の交換停止を発表したんだ。それまで1ドル=360円の固定レートだったのが崩れて、世界経済が混乱した」


「隆介君、よく知っているね」と三郎さんが感心した様子で言う。


「経済学部ですから」と私は照れながら答えた。


「ニクソンショックは日本経済に大きな影響を与えたわ」と政子さん。「物価も上がったし」


「確かに今の時代、地政学的には日本も沈んでいるようなものかもしれないな」と三郎さんが哲学的に語った。


「でも、映画のようにまるごと沈むことはないでしょう?」と三津子が不安そうに尋ねる。


「もちろん」と三郎さんが娘を安心させる。「あれはあくまでSFだよ」


***


食事の後、三郎さんは私を書斎に招いた。


「隆介君、少し話があるんだ」


緊張しながら書斎に入ると、壁一面の本棚が目に入った。ビジネス書や経済誌、そして映画関連の書籍が並んでいた。


「座りなさい」


三郎さんが椅子を指さす。私は言われるままに座った。


「君は真面目な学生だね」


「ありがとうございます」


「三津子のことだが…」三郎さんは言葉を選ぶように間を置いた。「彼女は君のことをとても信頼しているようだ」


私は何と答えていいか分からず、黙ってうなずいた。


「彼女は繊細な子でな。映画でも怖いシーンで君の腕を掴んでいたようだが」


三郎さんは知っていたのか。私は少し赤面した。


「いや、別に咎めているわけではない。むしろ…」


彼は立ち上がり、窓の外を見た。


「彼女にとって良い友人でいてほしい。それだけだ」


それが許可なのか、警告なのか、私には判断できなかった。ただ、三津子との関係に三郎さんが関心を持っていることだけは確かだった。


「はい、分かりました」


「よろしい」三郎さんは私に向き直り、微笑んだ。「さて、君は経済学を学んでいるそうだな。将来は?」


「できれば商社に入りたいと思っています」


「そうか、良い選択だ。日本の経済は今後も成長するだろう。若い君たちの時代だ」


三郎さんとの会話は、私にとって貴重な経験だった。彼の博識と洞察力に感銘を受けた。


書斎を出ると、三津子が廊下で待っていた。


「何を話したの?」と彼女が小声で聞いてきた。


「君のお父さんは素晴らしい人だね」と私。


「それだけ?」


「うん、それだけ」


三津子は安心したように微笑んだ。


***


私が大場家を辞する時、三津子が玄関まで見送ってくれた。


「今日は楽しかった」と彼女が言う。


「うん、僕も。映画も食事も、とても」


「また…一緒に映画、観に行かない?」


彼女の誘いに、私の心は躍った。


「うん、行こう。来週は何がいい?」


「考えておくね」


別れ際、彼女は小さく手を振った。私はその姿を見つめながら、帰路についた。


***


DVDの映画は終盤に差し掛かっていた。運命の日、日本列島が沈み始めるシーン。壮大な特撮が画面いっぱいに広がる。


「これは当時としては驚異的な映像だったな」


独り言を呟きながら、私はグラスのウイスキーを飲み干した。


いしだあゆみ演じる阿部玲子が悲痛な表情でカメラに向かって語りかける。


「日本列島は今、沈みつつあります。これが最後の放送になるかもしれません。しかし、私たちは諦めません。日本人として…いえ、人間として生きるために」


このセリフ。「日本人として死ぬのか、人間として生きるのか」。1973年当時の観客に深い感銘を与えたフレーズだった。


終盤のクライマックス。日本人が国を捨て、世界各地に避難していくシーン。


「あの時は、こんな事態が現実に起こるなんて想像もしていなかったな」


言葉が、空虚に響く。


***


エンドロールが流れ始めた。懐かしい音楽と共に、出演者の名前が次々と表示される。


「藤岡弘…いしだあゆみ…小林桂樹…丹波哲郎…」


私は立ち上がり、窓を開けた。初夏の風が部屋に流れ込む。


「あれから何年経ったんだろう」


1973年。私が三津子と出会った年。そして彼女の家族と『日本沈没』を観た年。


私たちはその後、交際を始め、大学卒業後に結婚した。彼女の両親も私たちの結婚を祝福してくれた。康秀とも仲良くなり、兄弟のような関係を築いた。


しかし、時は残酷だ。


「三津子…」


彼女の名を呼ぶと、胸が痛んだ。十五年前に彼女は病で亡くなった。その後、私は仕事に没頭し、彼女の家族との交流も自然と途絶えていった。三郎さんと政子さんも既に他界し、康秀とは十数年間音信不通だ。


「山が…山が動いている…!」


映画のセリフが頭の中で反響する。そして奇妙な連想が浮かんだ。土井たかこ氏の「山が動いた」発言。1993年の衆議院選挙での社会党躍進を表現したあの言葉。彼女の頭にこの映画のセリフが残っていたのだろうか。


窓の外を見ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。かつて三津子と見た同じ空。


「山が動いている…か」


そのセリフを反芻していると、不思議と心が動き始めた。人生の山も、動かすことができるのではないか。私はまだ、健康で、仕事もある。現役老人として、残された時間を悔いなく生きることができるはずだ。


「三津子、映画を観終わったよ」


誰もいない部屋で、私は亡き妻に語りかけた。


「あの日、一緒に観た映画だ。覚えてる?」


返事がないことは分かっている。しかし、話さずにはいられなかった。


「君のお父さんと康秀と一緒に。なぜか僕は君の家族と映画を観に行ったんだ。あれは不思議な縁だったね」


グラスにもう一度ウイスキーを注ぐ。琥珀色の液体が灯りに照らされて輝いた。


「あの日から始まった僕たちの物語。君との人生は幸せだった」


グラスを掲げる。


「乾杯、三津子。そして三郎さん、政子さん。康秀もどこかで元気でやっているといいな」


一人で乾杯し、一気に飲み干す。喉を灼くような辛さと共に、懐かしさと寂しさが込み上げてきた。


「山が動いている…」


もう一度、あのセリフを呟く。私の人生も、あの映画のように大きく揺れ動いてきた。出会いと別れ。喜びと悲しみ。そして今、孤独。


しかし、映画の登場人物たちは最後まで希望を失わなかった。私もまた、そうありたい。残された時間を、悔いなく生きたい。この歳になっても、人生の山はまだ動かせるはずだ。


「もう一度、康秀に連絡してみようかな」


ふと、そんな思いが浮かんだ。十数年の空白を埋めるのは難しいかもしれないが、挑戦する価値はある。


「三津子、少し勇気を貸してくれ」


私はスマートフォンを手に取り、古いアドレス帳をめくった。康秀の名前を見つけ、深呼吸をして電話ボタンを押した。


「…もしもし?」


懐かしい声が聞こえた時、私の目に涙が溢れた。


「康秀か?俺だ、隆介だ」


長い沈黙の後、彼の声が震えながら応えた。


「隆介兄さん…久しぶりだね」


「ああ、本当に久しぶりだ。…聞いてくれ、今日ね、『日本沈没』を観たんだ」


「えっ?あの映画?」


「そう、みんなで観に行ったあの映画だ」


電話の向こうで、康秀が笑い始めた。その笑い声が、私の孤独を少しずつ溶かしていくようだった。


「覚えてるよ。ポップコーンを落として、姉さんに怒られたんだ」


「そうだったな」


「隆介兄さん、久しぶりに会わないか?来週、時間あるかい?」


康秀の誘いに、私は迷わず答えた。


「もちろん、いつでも」


「じゃあ、来週の土曜日はどうだ?妻と子どもたちも連れてくるよ。兄さんのこと、いつも話していたんだ」


「ありがとう、康秀。楽しみにしているよ」


電話を切ると、部屋の空気が一変したように感じた。暖かい何かが胸に広がっていた。


「三津子、聞いていたかい?」


私は微笑みながら天井を見上げた。


「山は確かに動いている。僕の人生も、これからだ」


窓の外では、新たな日が始まろうとしていた。私は残りの人生を、悔いのないように生きていこうと決意した。

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