9.二日後
「――ん、ん……」
微睡んでいた意識が覚醒し始めたのを感じ、ツキノはゆっくりと目を開いた。
普段使っていたものと比較しても、数段上等なベッドの上。自身の置かれた状況を呑み込めず、彼女はぼやけた視界を眠たげに擦りながら身体を起こしていく。そして、
「「…………」」
感情の起伏に乏しい、人形のようなメイドと視線が重なった。
その手にはタオルがあり、近くには湯を張った木桶も用意されている。
汗を拭いてくれようとしたであろうことは、疎い彼女にも理解できた。
「どなたか存じ上げませんが、おはようございます」
「おはようございます。お目覚めになられてなりよりです、お客様。今、人を呼んでまいりますので少々お待ちくださいませ」
慎ましやかに頭を下げたメイドが部屋を去っていく。
その背を見送りつつ、ツキノは改めて見覚えのない室内を見渡した。
(ここは、どこでしょうか……)
物の少ない、よく手入れの行き届いた部屋だった。
元が空き部屋でなければ、この部屋の主が相当な無趣味であることは明白だろう。
ツキノはベッドを降り、ひとまず日を浴びるために窓を開けることにする。
(分かってはいましたが、情報に価値を与えられるほどの知見がわたしにはありませんね)
王都内の地図すら目にする機会を与えれられなかった彼女には、少なくともラズラプラ邸から見えた景色は存在しないことだけが全て。
あとはこの部屋が三階に位置する程度の理解しか得られられるものはなかった。
(……ですが、思い出してきました。確か、お嬢様たちが倒れられた後。わたしもすぐに気を失って――するとここは、リエン様かヒスイ様の邸宅ということになるのでしょうか)
そんなツキノの疑問に答えるように、部屋のドアが音を立てる。
現れたのは先程のメイドと、一人の細い目元をした柔和な印象を抱かせる女性だ。
「目が覚めたのね。良かった、良かった。私はこの独立遊撃隊宿舎の管理を任されているパーラ・ラパーラです。よろしくね」
「わたしはツキノと申します。姓はありません」
「えぇ、ツキノちゃん。リエン様から聞いています。体調はどう? 良さそうなら食堂でお昼にしようと思うのだけど」
「良好です」
「ふふ、それなら行きましょうか」
パーラは薄目のまま愛想よく微笑みを返し、彼女と共にツキノは部屋を出た。
主張の激しくない廊下を進み、ゆったりと弧を描く階段を降りていく。
「二日も眠っていたからお腹が空いているでしょう?」
「わたしは二日も眠っていたのですか……」
「えぇ。それとリエン様が仰るには〝恐らく行く当てもないだろうからここで面倒を見る〟ということだそうだけど。そのつもりでいいのかしら?」
「……はい、ご迷惑でないのでしたら是非。わたしには頼れる家族がひとりもいませんので」
それに嘘偽りはない。ラズラプラの〝切断〟によって、ある意味で幸運なことに父であるデゼルネルピスの総大主教との縁も切れているのだ。
聖女という鎖で縛られることもないが、同時に信者として似たような場所へ戻ることはツキノとしてもあり得ない選択肢だった。
「苦労、してきたのね……」
「いえ。苦労と呼べるような経験はありませんでした」
これも感情の有無とは無関係に本心からの言葉だった。
自らの置かれた状況を、他者の力と偶然だけで打破してきたことを苦労とは呼べないのだから。
しかし、受け取る側からすればツキノの特殊な事情など想定できるはずもなく。身寄りのない少女の苦労は、三十を過ぎた女性の想像力に掛かればいくらでも補えてしまうものだ。
「ところでパーラ様。あちらの方は?」
「え? あぁ、ごめんなさい。説明していなかったわね。あれは娘の術式刻印で増えた、娘の分身のようなものなの。少し不愛想なのが玉に瑕なのだけど、優しくしてあげてね」
「つまり人間ではない、ということでしょうか」
ツキノの疑問符にパーラが頷く。
事実。同じ容姿・体格をした若いメイドは数多くおり、それぞれが屋敷の管理に務めていた。
(この分では人手は足りていそうですね。わたしにやれることはあるのでしょうか)
お世話になる以上、何もしないというわけにはいかないだろう。
それから一階に設けられた食堂で席に着き、ツキノは姿勢を正して静かに待つ。
ラズラプラ家では愛玩動物のように床で食べさせられる頻度が高かったため、座りながらの食事はどことなく彼女の中で違和感があった。
「さぁ、召し上がれ」
「はい。いただきます」
慣れとは恐ろしいですね、と。ツキノは他人事のように思いつつ、空腹もあってか十分と経たずにロースト肉を煮込んだシチューやジューシーで風味豊かなミートパイなどを平らげていく。
そうして、食後。一息をついたツキノは改めてお礼を伝えてから一つの提案をした。
「わたしも、リエン様に食事をお作りして差し上げてもよろしいでしょうか。わたしにできる恩返しはあまり多くはありませんから」
「……そう、ねぇ。私個人としては、まだ認めてあげることはできません」
難しい表情になったパーラは、なるべく言葉を選びながら丁寧に続ける。
「でもリエン様が食べると仰るのであれば、それは構わないでしょう。だからリエン様の分をいつも通り用意はさせてもらうけれど、気を悪くしないでね」
「いえ。当然の判断だと思います」
――毒殺。
ツキノが聖女として祭壇に縛られていた頃も万が一に備え、食事には必ず毒見役がいた。
そのため、主を想う従者としての危惧はもっともだと彼女も首を縦に振る他ない。
「あと一応、メイドたちをお目付け役で置かせてもらうけれどいい?」
「構いません。わたしもあまり得意な方ではありませんので。おかしなところがあれば言って頂けると、より助かります」
この三年もの間。稀に面白半分でやらされていた程度では、大した調理技術が培われていないのは当然だろう。
ツキノが言うと、パーラは一瞬ぽかんとした表情を作った。
一人で生きてきたのなら自炊はできるはず、と。そういう顔である。
「そうなの? じゃあ、いっそ一緒にやりましょうか」
「よろしいのですか」
「えぇ。それにどうせ、シェフをやっているのは私の夫だもの」
パーラはまるでささやかな楽しみを見つけたように、朗らかな笑みを浮かべる。
こうしてツキノにとって義務ではない、誰かのために作る初めての料理が始まったのだった。