6.転写
――今後、二度と訪れない幸運だと。
彼の瞳を目にした時、ツキノはこの日の巡り合わせに感謝を覚えた。
(……わたしは覚えている。あの日、あの時。わたしを連れ出してくれた彼の瞳を覚えている。だからきっと間違いない。顔も、髪の色も違う。それでも、この方は〝蛇〟の方……リエン様だ)
ツキノは無表情にリエンの琥珀色の瞳を見つめながら確信する。
それは言わば、生まれたばかりの雛が初めて見たものを親と認識してしまう感覚に近いものだった。
(ですがまだ、置かれている状況を正確に伝える手段がないという問題に変わりはありません……言葉や文字以外の方法……縁談が始まれば、きっとわたしはお嬢様たちの傍を離れられない。かと言って今、何かを訴えかけたところで、この場の誰かがすぐにでも二人に伝えに行ってしまう)
機を逃すのは論外としても、時機を見誤るわけにはいかない。
己の立ち位置を理解する彼女にできる最も簡単なことは、ただ彼を真っ直ぐに見つめ、少しでも印象に残ることだけであった。
(わたしの顔が、好みでしたりするのでしょうか……少し、目が合った時間が長かったような気がします)
屋敷へと向かう背を見送りながら客観的にそう思う。
(縁を切断されてしまっている以上、リエン様にわたしの記憶は残っていないはず。ご友人らしいヒスイ様の縁談に姿を変えて付き添っているのも、恐らくは〝切断〟の術式刻印を警戒してのことでしょう)
「――おい、何をしている。お前はお嬢様たちに呼ばれているんだろう、早く行ったらどうだ」
隣から届いた不機嫌さを隠さない声に促され、ツキノはゆっくりと歩き出した。
そうして、〝侍女が来るのを待つ〟という常人には理解不能の状況から縁談が始まる。
ツキノはただ扉の傍に立ち、じっと行動に移すべき機を待ち続けた。
(お嬢様たちは排泄行為をなさる際、必ずお二人で行かれる。もしもわたしを一緒に連れ出さないのであれば、動くべきはその時しかないでしょう。そして、伝えるべきはわたしとお嬢様たちの関係性。この両足と失った声の理由を、身振り手振りで悟って頂くしかありません)
言葉にすれば容易ではあるものの、実際は今よりも更なる幸運に身を任せる選択だろう。
たとえ状況を伝えられたとしても〝今、この場で救われなければ〟後日、再び縁を切られて全てが終わってしまうからだ。
しかし、現実は彼女の想定よりも遥かに運命的な幸運であった。
読唇術。やはりこれも言葉の意味は理解できずとも、唇を読むことの価値は彼女にも理解できるものだ。
『――助けてください、蛇の方。三年ぶりで御座いますね』
「…………っ!」
仮面の従者の瞳に驚愕の色が見え、ツキノは自身の見立てが間違いではないことにわずかな安堵をこぼす。
それから相手の返答を待たず、返ってくるであろう疑問を想定して一方的に話し始めた。
『教団の祭壇で初めてお会いしました。デゼルネルピスの〝聖女〟という言葉に覚えは御座いませんか』
声を出すわけにはいかない以上、どちらかが聞き手に徹するのが最善。
状況を鑑みれば、リエンが適しているのは明白だろう。
『わたしは〝切断〟により縁も身体も切られてしまいました。自分の力だけではどうすることもできません。ですので助けては頂けませんか。できれば今日、ここで』
「…………」
ツキノから伝えるべき言葉はこれ以上、存在していない。
だから、ここから先のことは全て、彼――リエン・オ・ヴァーツラヴ次第だ。
視線が重なる。
無機質で儚げな蒼氷と、縛り付けていた人形が無抵抗を演じていたことを知った〝女〟の憎悪の双眸が。
「……許しませんのよ」
「……許せないですわ」
「読唇術ができるなどとそちらの方が言い出した途端にこれ、ですのね」
「えぇ、起動の準備をしておいて正解でしたわ」
姉妹の肌に刻まれた〝砕けた鉄鎖〟の刻印が強い光を放ち、激情を発露させていく。
刻印や刻者自身の体質に左右されるものの、鍛錬で起動までに要する時間をある程度短縮することは可能だ。
(見かけによらずよく鍛錬している……っ!)
中でもリエンが刻む〝覇蛇天征〟は、起動まで例外的に速い部類に属している。
だが、仮にこちらが起動させたところで蛇が刻者へ到達する前に、相手が起動を完了することが直感的に理解できた。
「――ヒスイ、やめさせろッ!」
瞬間。応答よりも素早く打ち出された拳が、ユユの顔面に迷いなく叩き込まれる。
そこには女を前に狼狽える男は既に影もなく、ただ一人の騎士がいた。しかし、
「ふふ、ほんの少しだけ。遅かったですわね」
「ふ、ふふふふ」
姉妹の笑みが見据える先。〝切断〟の刻者のみに許された視界の中。
張り巡らされた無数の糸の合間を、流星の如き刃が疾走していく。
刃は瞬く間にツキノから伸びる二本の糸以外の全てを鮮やかに断ち切って見せた。
(――糸が、視える……?)
そして本来、視えるはずのない世界は。素者に過ぎないツキノにも観測できていた。
だとしても術式刻印の効力の前では、無力であることに変わりない。
「…………私は、何故。今、殴れなどと言った……?」
「…………?」
縁を切られたリエンとヒスイが状況を飲み込めず、混乱に陥る。
伴ってツキノの身体から琥珀と翡翠の糸がはらりと落ちていく。
反射的に手を伸ばすも、糸は呆気なく手のひらをすり抜けていった。
彼女の動作の意味を理解できるのは無論、刻者のリリだけだ。
「……ツキノ、あなた。まさか私たちと同じ世界を……」
ユユは血の混じった唾を吐き捨て、感嘆するリリと共に嗤いながらゆっくりと侍女のもとへ歩みを進める。
それから頬を思い切り引っぱたき、リリも無防備になった腹部を蹴り飛ばした。
声にならない苦悶が、ツキノの鉄面皮を強引に反応させる。
「嬉しいわ、ツキノ。でも今後一切、あなたには私たち以外の誰とも会わせません」
「えぇ、当然その程度の覚悟はしていたでしょう? ツキノ」
素直に頷いて見せた顔が、再び何度も乱暴に扱われた。まるでモノのように。
やがて何度目かの躾を終え、ある程度満足した二人は身を翻し、微笑みを浮かべながら告げる。
「婚約は確定事項ですから、また後日。仕切り直しと致しましょう、ヒスイ様」
「えっ、あぁ……その。突然、申し訳ございませんでした」
「構いません。言ったはずですわ、少し乱暴なくらいが好み、と」
本心からの言葉だった。口の中を切り、鼻から血を流したユユもそれは同様である。
何故ならば〝顔が良ければある程度のことは許せるから〟だ。
「それと、そちらは従者ではなく。リエン様でしたのね。全く気が付きませんでしたの」
「……何を仰っているのか、分かりかねますが」
「ふふ、否定に意味は御座いませんのよ。だってリエン様と同じ琥珀色の糸でしたもの」
言ってリリは床に力なく倒れるツキノを乱雑に掴み、部屋を後にしようとした。
だが、その時――――
「「――――っ!?」」
素者であるはずのツキノの肌が、眩い光を放ち始めた。
ユユは彼女が身に着けていた衣服を強引に破り捨て、発光の原因を明らかにする。
それを目にした直後。反射的に姉妹は自らの刻印へ視線を向けざるを得なかった。
「こ、こんなのあり得えない……」
「み、認められませんわ……」
肌に刻まれているはずの〝砕けた鉄鎖〟に似た術式刻印は、明確に色褪せていたのである。
もう一度、視線を戻す。しかし結果は変わらず、むしろ対照的なまでにそれは色濃く在った。
ツキノが突如として、輝き始めた理由。
それは、彼女に刻まれた〝砕けていない鉄鎖〟に似た術式刻印が原因であった。