3.縁談
エフド王国において刻者同士の婚姻が認められることは、如何なる場合においてもない。
それは過去、異なる術式刻印を継承した赤子が母子共々に例外なく全身が膨張・破裂するという事件が相次いだことに起因している。
刻者の減少は国家の損失に他ならない。
よって事件以降、刻者たちは術式刻印を持たない者――〝素者〟と婚姻を結ぶのが慣習となっていった。
また傾向として赤子の刻者としての力に、母体や子種の優劣で極端な差が見られないことから、健康でさえあれば一般庶民の誰にでも平等に名家の一員へ加わる可能性が生まれてもいた。
つまり、刻者からすれば縁談の場というものは気に入る相手を品定めする場と評しても過言ではない。
そして、ラズラプラ家の姉妹であるリリとユユにとって重要視するべき点は、ただ一つだった。
「――リリ様とユユ様はどういった方とご結婚をなさりたいのでしょうか……」
「あら、急にどうしたのかしら。ツキノ」
「えぇ、とても急にどうしたの。ですわ、ツキノ」
湯気に満たされつつある豪勢な浴室。
そこで生まれた今にも消え入りそうな音に、疑問符が重なって反響する。
ツキノの声にならない掠れ声は余程聴力に優れている者か、歪ながらも彼女を愛している姉妹以外には決して聞き取れるものではない。
ユユはリリの頭を優しく洗っていた手を止め、あまりにか細い声へ耳を傾けていた。
「……いえ。以前、執事の方々がお嬢様たちとご結婚というものをなさりたい、というような話を他の皆様としておりましたので……結婚の意味も含めてどういうものなのか、と」
「あら、一介の執事風情が何を思い上がっているのかしら。ねぇ、ユユ」
「えぇ、顔が比較的マシなだけの執事風情の思い上がりですわ、リリ」
何か余計なことを言ってしまったのかもしれない、とツキノは頭上より届く声音から推察する。
というのもツキノは今、リリの椅子として浴室で両手両膝を床につけていた。
自分たちの気に入ったモノにしか肌を許さない姉妹にとって、お互い以外が直接触れるこの光景は他の使用人たちからしても前例のない事態だ。
「いい、ツキノ。術式刻印を持つ刻者にとって結婚はね、相手をモノにするということなのよ」
「えぇ、ツキノ。私たちのように美しい刻者にとって結婚はね、顔さえさ良ければ誰でもいいのですわ」
「……お顔、で御座いますか」
「「そうよ。男は顔なのよ、ツキノ」」
姉妹はそれぞれツキノの顔へ手を伸ばし、割れ物を扱うように細い指先を添えて微笑む。
「あのね、ツキノ。呆れるほどにどうしようもない人間だとしても、顔さえよければ大抵のことは許せるものなの」
「えぇ、ツキノ。反対に呆れるほど醜い人間は、大抵のことを許せないのですわ」
「他所の家の赤子が大して愛おしく想えないのと同じですのよ。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。美しい男が語れば夢、醜悪な男がほざけば戯言。世の中そんなものですわ」
「「まぁ、ただ一人だけを一生愛し続けるなんて私たちには到底無理なのけれどね」」
「……そういうもの、で御座いますか」
姉妹は何も知らない彼女に強く頷く。
だが、どれだけ力説されようとも容姿の価値はツキノには響かなかった。
当然である。生まれ育った施設は信者という言葉で一括りにされ、容姿による差を感じられる機会も考えも彼女にはなく、このラズラプラ家にも劣る側の人間がいないのだから理解できるはずもない。
「ねぇ、ツキノ。もしかして他の刻者に助けてもらおうだなんて考えてはいないわよね」
「えぇ、ツキノ。刻者が婚姻を結べるのは何も刻まれていない素者だけですもの。無駄ですわ」
「素者……」
「刻者同士の赤子は母子ともに呪われるのよ」
リリが囁くように告げ、ユユが同意を重ねた。
口ぶりからして素者が術式刻印を持たない人間だという程度のことは、ツキノにも理解できる。
姉妹が言うような意図などは毛頭なかったが、ラズラプラ家とは無関係の誰かの手を借りなければこの境遇から逃げ出すのは実質的に不可能。それは事実である。
どの道、何らかの手段で運よくひとりで逃げ出したところで〝名家の庇護下にある少女〟から〝無学で身寄りのない少女〟になるだけ。今より状況が悪化するのでは逃げ出す意味がない。
「呪いさえなければ、今すぐにでもリエン様へこの身を捧げますのに。ねぇ、ユユ」
「えぇ、リリ。障害さえなければ、今すぐにでもリエン様へこの心を捧げているのですわ」
「……リエン様、で御座いますか」
大げさな身振り手振りで天に手を伸ばす影を淡々と見つながら、ツキノは名を反芻した。
「そうよ。エフド王国第二王子、リエン・オ・ヴァーツラヴ様」
「〝覇蛇天征〟の術式刻印を持つ……あぁ、蛇のことですわ。蛇が何か知っていて、ツキノ?」
(蛇……)
ツキノの不愛想な表情から読み取ったわけではないが、ユユが補足を付け足す。
「まぁ、そうですわね……細長い管、のような生き物ですわ」
「あなたも一度は会っているはずよ。だって私たち、あの方との縁も切ったのを覚えているもの。まぁ、縁を切られたあなたは覚えていないでしょうけど」
言われ、ツキノは三年前。デゼルネルピスの教団施設を襲撃し、自らに手を差し伸べた琥珀色の瞳を思い出した。
(細長い管……蛇の術式刻印……もしかするとあの方が、そのリエン様――……っ)
瞬間。胸の先端と下腹部に捻じれるような痛みが走り、わずかに表情筋が反応を示す。
「いい、ツキノ。もう切ったのよ、だから期待するなんて駄目。それは思い上がりだもの」
「えぇ、ツキノ。あの方は本来、あなたのような得体の知れない宗教女が関わっていい方ではないのですわ」
この気まぐれで向けられる暴力的な敵意さえなければ、今のままでも構わない、と。
ツキノも思ってはいるが、現実はそうでないのだから今のままでいるわけにはいかなかった。
(……わたしは直接的にはもちろん、字が書けませんから間接的に誰かに助けを求めることもできません。もし仮に示せてたとしてもその人物がラズラプラ家の邸内に入れて、かつ〝切断〟の術式刻印に対抗できる人間でなければ意味がない)
でなければまた〝縁〟を切られてそれっきり。
従順だからこそ許されている今も、たった一度でも叛意を見せれば消え失せるのは想像に難くない。
(とすると求められるのは、一度で問題を解決できるラズラプラ家より立場が上の人間であり、刻者。しかもわたしは家から出ることを禁じられていますから、その方にここへ来てもらうしかない……当然、そのようなあてはありません。候補も今は、お二人が慕っているというリエン様だけ)
物を知らずとも、これが実現性皆無の夢想であることはツキノもすぐに思い至れた。
(反抗すると決めてもこれでは、ただ巡り合わせを待つことしかできません……)
ツキノは改めて、自らの無力さを痛感する――――その時であった。
浴室の外。近づいてきた慌ただしい足音と息遣いが、勢いよく扉を開け放つ。
当然、三人の視線が音の先へと向かう。
そこに立っていたのは現ラズラプラ家当主、姉妹の実父。オグルだ。
「……いくらお父様とはいえ、これは」
「これはちょっと許せないですわ」
しかし、その怒気を含んだ眼差しはオグルの一言によって全て吹き飛んでいった。
「縁談……縁談をっ、取り付けてきた……!」
「「……取り付けてきた? お、お父様……まさか――」」
「そのまさかだ。相手はシャルアビム騎士団、独立遊撃隊の……」
「「ど、独立遊撃隊の……?」」
「オルトランド卿、であるっ!」
「「きゃああああっ、ヒスイ様ぁあああっっ!!」」
途端、姉妹の黄色い悲鳴が浴室に甲高く響く。
喜びのあまり二人は裸であることも忘れ、無邪気に父へ抱き着いた。
姿勢を正すことを許可されていないツキノはその場を動かず、ただ傍観する。
ややあってそれに気が付いたユユが嬉々として告げた。
「ほら、ツキノ。そんなところで遊んでないであなたも私たちの幸運を喜んで欲しいですわ」
「喜ぶ……そのヒスイ様という方は、お二人がお認めになるほど美しい御仁なのですか?」
「えぇ、もちろんですわツキノ。あなたも一目見ればそう思えるはず。いえ、思いなさい」
「それにね、ツキノ。ヒスイ様はリエン様の部下であり、古くからのご友人。つまり、私たちにとってこれ以上ない優良物件なのよ」
「? よ、よく聞き取れるな、お前たち……わ、私にはまるで聞き取れん」
人をモノに例えるのが適切なのか、とツキノは疑問に思いつつも言葉を呑み込む。
それから促されるまま四人で手を繋ぎ、まるで家族の一員であるかのように踊った。
だが、それは二人の機嫌がいい時だけの一方的な〝縁〟だとツキノもこの三年で理解している。
「……ですがお嬢様がた。お相手はひとりではありませんか? この場合、リリ様とユユ様のどちらがご結婚なさるのでしょう」
「「――……どちらともよ」」
一度お互いを見合い、一拍置いて小さく微笑んだ後。異性を惹きつけるためだけに発せられたような姉妹の声は、ツキノの鼓膜のみを妖しく震わせた。