2.ラズラプラ家
王都にレトロで大きな洋館を構える名家、ラズラプラ家の朝は常と変わらない空気に包まれていた。
手入れの行き届いた食堂でスコーンにクロテッドクリームを塗り、ベーコンエッグに羊の腎臓のソテー等を食す姿は、庶民のそれとはかけ離れた優雅さがある。
「……いまいちね」
ティーカップをテーブルにそっと置き、呆れ交じりでこぼれた声に食堂内の空気が緊張の糸を張る。
「そうは思わないかしら、ユユ」
「えぇ。もちろん同じ思いですわ、リリ」
しかし続く姉妹の言葉を聞いた使用人たちは一転、内心でまたか、とため息をついた。
そして彼らの想像通り、ラズラプラ家の朝は常と変わらない光景を繰り広げる。
「あぁ。やはり、姉妹ね」
「えぇ、美人双子姉妹ですわ」
「「――いらっしゃい、ツキノ」」
互いに笑みを浮かべた後。重なる声で呼ばれ、使用人の列から一歩前に出たツキノが二人の傍に目を伏せて静かにたたずんだ。
返事はない。
だがそのことをリリとユユだけでなく、当主とその妻も咎めようとはしなかった。
「ねぇ、ツキノ。この紅茶、飲めないの。だから上を向いて口を開けて、代わりに飲んでもらえるかしら」
命令されるがまま床に両膝をつき、ツキノは水面から顔を出して餌をねだる魚ような姿勢を作る。
「ふふ、素敵な間抜け面ね」
「えぇ、とても素敵な間抜け面ですわ」
そうお淑やかに言って、二人はツキノの――顔に、熱い紅茶をゆっくりと注いだ。
「あら、なんだか難しいのね」
「えぇ、どうしてか難しいですわ」
口の届かない鼻先辺りを重点的に攻めながら姉妹は白々しい声で笑う。
そもそも同時に別々のところへ注いでいる時点で、飲ませる気など到底ないことは明白だった。
真っ白な使用人の装いはすっかり色がつき、床はまるで粗相をしたような有様である。
「ふふ、赤ん坊みたいね。どうもありがとう、ツキノ」
「えぇ。朝からとてもいい気分ですわ、ツキノ」
「「――着替えてらっしゃい」」
ずぶ濡れのツキノは一切の表情を崩さず、ぎこちない一礼を返す。
それからずるずると足を引きずり、屋根裏に隔離された狭い自室へと向かった。
*
術式刻印。それは名家を名家たらしめる理由のひとつだ。
世界各地に跋扈する悪鬼や業魔を屠り、あるいは国の発展に多大なる恩恵をもたらす、人知を超えた超常の能力。
その力を己が肉体に刻む者たちを、人々は敬意を込めて〝刻者〟と呼んだ。
であれば当然、名家の一つに数えられるラズラプラ家にも代々継承されてきた術式刻印がある。
それが――〝切断〟の術式刻印だ。
ラズラプラ家に引き取られた後のツキノが、声を発することができないのも、上手く歩くことができないのも全て、この〝切断〟が原因であった。
(わたしの声帯は、もう二度と治らないのでしょうか)
濡れた衣服を脱ぎ捨て、姿見を前に下着姿のツキノは自身の喉に触れる。
今、彼女の声帯は切断されており、消え入りそうな掠れ声しか発することができなかった。
それからツキノは改めて足元へ視線を落とす。
こちらも一見、何の外傷もないように見えるが、両足の靭帯が見事に切断されていた。
つま先立ちなどは到底不可能で、屋根裏まで上がってくるだけでも常に怪我と隣合わせである。
デゼルネルピスの教団施設から救出され、身寄りのないツキノがラズラプラ家に引き取られてからすでに三年。
彼女は一度たりとも洋館の外へ出る機会を与えられていない。
初めて見る外の世界に右も左も分からなかったツキノは、気付いた時にはラズラプラ家へ引き取られることとなっており、そうして姉妹と対面した開口一番。
彼女たちはツキノにこう言った。
「「これからよろしくね、私たちの可愛い可愛いお人形さん」」
「よ――」
直後。返事をするよりも早く、ツキノの声帯と両足の靭帯は切断された。
さらに切断されたのはその二つだけではない、ということをツキノが知ったのは明らかに使用人の務めですらない仕打ちを知らず受け続けて、一か月ほどが経った頃である。
無知であるツキノは当初、生まれ育った施設同様に何らかの〝仕来り〟が存在しているのだろう、と認識していた。
だが彼女の後に働き始めた同じ年頃の少女との、扱いの差を目の当たりにし、比較することで理解した。自身の置かれた状況は客観的に見て劣位にあるのだと。
それでもツキノはそびえ立つ現実に対し、無力だった。
学どころか基本的な文字すらも知らない彼女は、他人を頼る他に選択肢を持たない。
当然の帰結。そしてそれは、姉妹にとっても想像の範疇にある思考に過ぎなかった。
(わたしはどうやら、周囲からあまり良く思われていないようですね)
同じ使用人に避けられている。恐らくは巻き添えを嫌ったのだろう、ということは感情を失ったツキノにもさほど時間は掛からず察することができた。
そんなある日、顔色ひとつ変えずに思案するツキノに姉妹――リリとユユが、くすくすと楽しげに告げた。
「あら。逃げようとしても無駄よ、ツキノ」
「そう。呆れるほど無駄ですわ、ツキノ」
「「――あなたはもう、私たちのモノなの」」
姉妹はツキノの肌に優しく触れながら、嬉々として続ける。
「身寄りはない、自分の名前も書けない、年端もいかない、無感情の宗教女」
「そんな子、どう考えても後で面倒ごとに巻き込まれそうですわよね」
「だからツキノ、あなたを預かろうと手を上げる家は全くと言っていいほどありませんでしたのよ。まあ、リエン様が誰もいないのならとおっしゃっていたそうですけれど。ですがそんな幸運……ちょっと受け入れられないの、当然でしょう?」
だから私たちが手を挙げたのだと、リリとユユは恍惚に微笑んだ。
「これはお互いのためになることなのよ」
「私たちは楽しい、あなたは路頭に迷って身を売る目には遭わない。ね、誰も損はしてないですわ」
物を知らないツキノにも彼女たちの言い分が身勝手で、自身が理不尽な境遇に閉じ込められていることは直感的に悟れた。
そう思い、ツキノは廊下の奥。顔を背けている女性に視線を送る。
「だから言ったでしょう、ツキノ。無駄なのよ」
「私たちがこの〝切断〟の術式刻印で断ち切ったのは、声帯と靭帯だけではないのですわ」
「「――あなたに繋がる〝人の縁〟。ツキノにも理解できる言葉で言うと、誰もあなたのことを気にかけてはくれないし、助けてはくれないということなの」」
助けを求める無機質な仕草を目にし、からからと笑う二人は雪のように白い肌をはだけさせ、刻まれた〝砕けた鉄鎖〟を思わせる証をツキノに突き付けた。
双子であるが故の、二人で一つの〝切断〟の術式刻印である。
「…………」
それからツキノの無反応さを、言葉を失ったと勘違いしたリリとユユは末っ子を可愛がるように耳触りのよい言葉を並び立てていく。
「でも大丈夫、決して悪いようにはしないと約束するのよ」
「えぇ。とても大切にすると約束しますわ。後見人として、当然の義務ですもの」
いつの日か、壊れるまでは――――。
彼女たちの双眸は、そう告げているようにしかツキノにも聞こえなかった。
やがて今朝の食堂の掃除を済ませた後。ツキノを含めた使用人たちは列を作り、王都きっての高等学院へ向かう姉妹を玄関先で見送る。
姉妹との歳は二つほどしか変わらず、本来自分にも学びの機会があったのだろうなとツキノは日々、他人事のように思っていた。
使用人たちがそれぞれの仕事へ戻っていく中、ツキノはひとり逡巡する。
この三年間、少なくとも自分は従順に振る舞ってきた。その確信がある。
しかしこの関係が改善されるような兆しは、一向に見られないことは明白。
ならば、もう――――
(決めた)
言葉の意味は知らずとも、その決断は確かに合理的な反抗心であると言えた。