14.レーシス
「ツキノ、外に出る支度を。趣向が分からず、お前の部屋には必要最低限の物しか用意できていないからな。時間があるうちに買い揃えておくべきだろう」
「承知いたしました」
陽が傾き始めてしばらく。シャルアビム騎士団の詰所から戻ったリエンは、敷地内の厩舎で馬の世話を手伝っていたツキノを見つけるなりそう言い、彼女も頷いて頭を下げる。
少し汚れとにおいがついていたため着替え等を済ませた後。御者と付き添いでフリエ分体も二人連れ、ツキノはリエンと共に馬車で出発した。
「お前がうちに来て三日だが、不都合はあるか」
「いえ。皆様、大変よくしていただいております」
「そうか、ならいい」
ツキノと正対で座り、窓に頬杖をつくリエンが続ける。
「王都を見て回ったそうだな」
「はい。フリエ様と、工房区画と商業区画を少し」
「何か興味を惹かれるようなものはあったか」
「ありませんでした。暮らしている人々の数が多いと感じ、わたしの知らない匂い、色、音が広がっていたことに目新しさを覚えたのは確かでしょう。ですが、それだけでした」
「……なんとも寂しいものだな」
「…………」
「そうでしょうか、わたしはそうは思いません。楽しさや嬉しさを知らないのであれば、理解できないのであれば。寂しさも苦しさの存在も認めることはないでしょう」
憐憫に陰るリエンの瞳を、彼女はただ真っ直ぐ見ていた。
フリエ分体もツキノの隣でその淡々とした物言いに、目を伏せながら耳を傾けている。
喜びや悲しいといった感情は表裏であり、それぞれが持つ価値観の基準と比較した結果に過ぎない。
そう考えるツキノはしかし、だからこそこうも思う。
今まで自分が感情を失ったままでいられたのは、己の知っている世界の境遇が少なからず似ていたからなのではないか、と。
「興味とは違いますが。初めて買い物をして、瓶を買いました」
「瓶か。何か入れたいものでもあったのか?」
「いえ、特には。この程度の大きさなのですが、何を入れるのがよいでしょうか」
腰幅程もない大きさを手振りで伝えるツキノ。
その問いに対し、リエンは素直に答えかけて一旦返答を吞み込んだ。
「私が何か提案するのは簡単だろうが、それでは意味があるまい。しかしそうだな……ここはあえて入れたくないものから考えてみるのはどうだ?」
「入れたくないもの……そうで御座いますね。生き物は、あまり好ましくないように思えます」
「それは?」
「わたしがそうでしたから」
「なるほどな。まぁ、時間はある。もう少し考えてみるといい」
ツキノが淡白な頷きを返す。
「他には何かあるか?」
「フリエ様と手を繋ぎました」
「手?」
「フリッターを売っていた方が仰っておりました。人との距離を縮めるためには、相手の手を握るとよいそうです」
「ある意味、間違いではないだろうな。特にフリエには効果的かもしれん」
「リ、リエン様……」
背筋を伸ばして静観していたフリエ分体が言葉をわずかに詰まらせ、頬を赤く染める。
彼女の初々しさに笑みをこぼしたリエンは、ツキノの視線が自身の指へ向けられていることに気が付いた。
「だがまあ、私とはやめておいた方がいいだろう。そうだな……仮に私と手を繋いでいるところを誰かが目にすれば、その者がお前に嫉妬してしまうかもしれない」
「嫉妬、で御座いますか」
「この場合、お前が私をどうも思っていないことは関係がない。その者がどう思うかどうかだからな」
「なるほど」
少なくとも七つの大罪に数えられる〝傲慢〟〝強欲〟〝嫉妬〟〝憤怒〟〝色欲〟〝暴食〟〝怠惰〟については知識としての理解があり、そういうものかとツキノも納得する。
「質問ばかりで悪いが、他にはあるか。些細なことで構わない、道中退屈だからな」
「そう、で御座いますね。しいて言うのでしたら――街には〝術式刻印が関わっていそうなもの〟があまり目につきませんでした」
「ほう。続けてみろ」
思いがけない答えに、リエンの瞳が関心の色を宿す。
「刻者で御座いましたか。術式刻印をお持ちの方がどれほどいらっしゃるのかは分かりませんが、無から有を生み出すような、たとえば水を出すような刻印があるのであれば。多くの水を活かした街作り……という表現でよいのでしょうか、がなされているのではないかと思います。ですがそういったものは、少なくとも工房区画と商業区画の一部には見られませんでした」
「くっ、く。まずそこに着目するとは、本当に面白いな。ツキノ、お前は。まぁ疑問に答えよう、エフド王国の総人口九百万に対して刻者は約三千人といったところだ。そして、その三千人を中心とした生活基盤……要するにその者たちがいなければ成り立たないような国作りはしない、とエフドは決めている」
だが――
「一方で素者にも刻者と同様の事象が再現できないか、という目的で〝印具〟と呼ばれるものの研究が進んでいるのも事実だ。どうだ、興味を持てそうか?」
「いえ、そういったものとわたしは関わらない方がよろしいでしょう。また何か遭ってはいけませんから」
「……ふむ、まぁな」
「それとリエン様、術式刻印というものについて改めて考えたのですが〝切断〟で縁を切られたはずのわたしは、リエン様……いえ、それどころか父やそれ以外の者たちの記憶も保持し続けておりました。これは何故でしょう?」
「あぁ、恐らく初めから二本のうち一本しか縁が切れてなかったのだろう。お前は術式刻印に対する何らかの抵抗力……つまり、効き目が薄い体質である可能性が高い」
言われ、思い至ることがあったツキノはフリエ分体に視線を向ける。
触れることが条件だったのならば〝増殖〟も〝切断〟と同様の事態になるかもしれないからだ。
「ではその場合、フリエ様たちはどうなるのでしょう? 既に何度か触れてしまいましたが」
「そうだな。結果的にだが、刻者側に敵意がなければあの時のようなことにはならない、のかもしれない。当然、断言はできないが」
「――リエン様、間もなく到着なさいます」
フリエ分体の声に二人が外を見やれば、目的地である商業区画の一角に構える建物が見えていた。
ここはリエンも普段から訪れることが多い――というより家具や衣服に特別な関心を持たないため、割とどこでもいい――インテリア等を扱う王都でも一、二を争う有名店である。
「案外、早かったな。ツキノと話していたおかげか」
店の前に着くと遠目で来店を視認していたのか、店主と思わしき男性と数名の店員たちがメイドの馬車を出迎えていた。
まず席を立ったフリエ分体が扉を開け、その後にリエンが続く。
(わたしが最後でよろしいのでしょうか)
そう思う心へ答えるように。先に降りたリエンが振り返り、ツキノへと手を差し伸べた。
「――さぁ。ツキノ、手を」
「? 握らない方がよろしいのではありませんか」
「くっ、く。今だけはひとまず、それは忘れていい」
「? 承知いたしました。では――」
差し出された指先にそっと触れながら、ゆっくりと地に足をつける。
当然、一介のメイド風情に対する王族の態度としては異様なものであり、そのため店主たちがツキノのことを〝さぞ良いところのお嬢さんだろう〟と勘違いをするのも無理のないことだろう。
「ようこそいらっしゃいました、リエン様。本日はどのようなものをお探しで」
「彼女の部屋の家具一式を揃えたい。あぁ、部屋は宿舎のものだから広さは――……」
「私が把握しております、お任せください」
「助かる、フリエ。そういうわけで二人が買うと言ったものを後日、送ってくれ」
「畏まりました」
「ツキノ、値段は見ずに好きなものを買え。私は適当に暇を潰しているからゆっくり見るといい」
「ありがとうございます、リエン様」
遠慮というものを知らない彼女のさっぱりした態度に、内心で驚きを隠せずにいる店員たちはツキノに畏怖すら覚えるほどだ。
特に女性陣は一度でいいから「値段を気にせず買い物をしていい」と異常に面のいい男性に言われたい人生だった、と切に願っていた。
そうして、ゆっくりでいいというリエンの言葉とは正反対に。ツキノとフリエの買い物は、一時間と経たずあっさり決着することとなったのである。
「――ゆっくりで構わないと言ったはずだが、もう終わったのか」
「はい」
「髪の白銀と瓶の青さから、選ぶもの全てを白と青に統一しようと決められてからすぐで御座いました」
「なるほど。彼女とは大違いだな……この程度で済むなら私も付き合えば良かったか」
「彼女?」
そう、ツキノが疑問符を浮かべた時だった。
自信に満ち溢れた甲高い笑い声が店内に鳴り響き、それを耳にしたリエンは眉間を抑えて微妙な表情を作る。
フリエ分体も不意に訪れてしまった嵐がジッと待つような静けさで佇んでいた。
「あ~~~~ら、あらあらあら~~~。奇遇ですわねえ~~~、リ、リ、リっ! リエン様ぁ~~~っ!」
声の先。縦に巻かれた真っ赤な長髪を豪快に揺らす背の高い女性が、店員よりも遥かに多い従者を連れて店内を我が物顔で闊歩する姿がある。
彼女の纏う赤黒いドレスは、ツキノが選んだ青白さとは文字通り対照的な印象を与えるものだ。
「あちらは?」
「――レーシス・ティミアパダ様。リエン様の、現在の婚約者であられるお方で御座います」