13.距離
昼の入り口を過ぎた空の下。行き交う人々の喧騒の背を見ながら、二人のメイドが石造りの街並みをゆったりとした歩幅で進んでいく。
「……想像していたよりも、ずっと多くの方々がここには住んでいらっしゃるのですね」
「はい、王都だけで八十万ほどの人口が御座います」
「八十万……」
フリエ分体から淡々と告げられた数字を、ツキノが小さく繰り返す。
果たしてそれがどの程度の規模であるか、やはり彼女には理解できなかった。
「はい」
そう静かに頷くフリエ分体が言葉を続ける。
「それとツキノ様。王都全域を見て回るには、一日ではとても時間が足りません。ですので本日のところは何か所かに絞る方がよろしいかと」
「分かりました。ではフリエ様にお任せしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
再び淡泊な声音で応じると、彼女は迷いのない足取りで先導していく。
やがてツキノが目にしたのは、大広場という表現ですら不足があるほどの広さを持つ場所だ。
そこには多くの商いをする者、芸を披露する者を始めとした確かな賑わいがある。
「こちらが中央広場で御座います。ここから大抵の区画へ向かうことができ、単純な人の往来……通りかかる人数で言えば、ここが最もですから常に何かしらの催し……誰かが何かをやっておられます」
「区画、とは?」
「例えば工房、農業、商業、学院、居住などと言ったものが御座います。主に物を作るための場所、食べ物を作るための場所、物を売るための場所、学ぶための場所、住むための場所といった認識でよろしいかと存じます」
だいぶ噛み砕いた言い回しではあるが、ツキノが納得を得るには十分な言葉だ。
「学院……」
ふと、リリとユユ。ラズラプラ姉妹の顔が脳裏に浮かぶ。
自分は物を知らな過ぎるという自覚はツキノにもあるし、このままではいけないという理解もあった。
とはいえ偶然救われた身でありながら今以上を望むのは、とうに失ったはずの傲慢だろう。そう客観的に思考したツキノは、ただフリエに訊ねる。
「学院とは、学びとは、楽しいと思える場所なので御座いましょうか」
「…………」
が、彼女の素朴かつ純粋な問いかけに返るのは短い沈黙だった。
「フリエ様?」
「……人それぞれなのではないでしょうか。ではまず、こちらからご案内いたします」
わずかな間を置き、ここまでとは打って変わって歯切れ悪く視線を逸らすフリエ分体。
彼女の意図や意識はツキノに汲み取れるものではなく、ひとりきょとんと疑問符を浮かべるだけに終わる。
やがて二人が訪れたのは、あちこちで煙突から立ちのぼる白もやと熱気にあふれた工房区画――職人街の一角だ。
何か特別な印象を受けたわけではないが、建ち並ぶ工房の一つにツキノはふと目を止めて、中へと足を運ぶ。
チリン、と。心地の良い爽やかな音が鳴り、工房内を見渡すと、いくつもの色鮮やかな器などが置かれていた。
既にいた他の人々がそれらを手に取り、物色している。
だが、より彼女が気になったのは火のついた炉に棒を差し、中でほんのりと赤い半透明な液状のものを掬い取っている精悍な男の背中であった。
「こちらは?」
「ガラス工房で御座います」
「ガラス」
「窓にも使われておりますよ」
なるほど、とツキノは頷きながら小さなガラス細工の一つに手を伸ばす。
程々に大きい、紋様の彫られた青白い瓶だ。
目線より高い位置まで上げ、まじまじと観察する様子は周囲から見て子供らしい。
「フリエ様の手にある刻印と少し似ているような気がします」
「そうで御座いますね」
「……ん」
と――瓶の下に隠れていた、数字が書かれた札に気付いて瓶を一度置く。
それからパーラにもらった財布を取り出し、フリエに預けた。
「フリエ様。わたしが今持っているお金で、こちらを買うことはできますか」
「……できますが、よろしいのですか? ひと通り目を通した後の方が合理的……後悔がないと思われますが」
「いえ。初めて入った場所の、初めて目ついたものでしたので。わたしには物の好みや欲求がありませんから、そういった理由で欲しいものを選ぶ方がわかりやすいと考えました」
「そう、で御座いますか……ではこの銅貨を一枚、あちらの方に渡せばよろしいかと」
「ありがとうございます、フリエ様」
言われるがままツキノはあちらの方へ向かい、列に並んで瓶を台に置いてから銅貨を手渡して――
「はい、確かに。じゃあ、お釣りが鉄貨二枚ね。毎度ありーっ!」
紙袋に入れられた瓶と二枚の硬貨を受け取ったのち、ジッとそれを見つめながら密やかに漏らす。
「……フリエ様、お金が増えました」
「減りましたよ」
合いの手を入れるように出入り口の風鈴がチリンと鳴った。
その後。ガラス工房を出た二人は、そのまま大通りを端から見ていくことに。
職人街ではガラスの他、木はもちろんあらゆる金属の加工に取り組んでおり、感情のないツキノにとって確かな刺激を与えてくれる光景が続いていた。
道中。ツキノが本当に物を知らないと理解して以降、問いを口にせずとも視線だけでフリエは解説を入れるようになっていったのは言うまでもない。
こうして、ツキノの腹がささやかな自己主張をし始めた頃合い。
彼女たちは工房区画を抜けて、商業区画へとたどり着いていた。
「お腹がすいてしまいました」
「屋内よりも屋外にある露店の方が安く済みますから、そちらがよろしいかと」
「そうなのですね、ありがとうございます。ところで今のフリエ様には空腹があるのでしょうか?」
「ほとんどありませんが、就寝前に本体と一日の記憶を共有する際。問題が出てしまうため、ある程度の食事を必要としてはいます」
「なるほど」
納得を返しつつ、通り中から漂う香りと客を呼ぶ声を頼りに露店を探す。
だが好物もなく、かと言ってフリエの趣向もツキノは知らない。
ゆえに今、彼女の頭にあるのは今朝と昨晩の献立であり、それとの接点を選択の基準に置くこととしていた。結果、導かれた露店は――
「あちらは何でしょうか?」
「フリッターで御座います」
揚げ焼きから連想されたもの。つまりは、揚げ物であった。
ツキノは店前に出されたメニューの数字だけを確認し、恰幅のいい女性へ声を掛ける。
「二人分、頂けますでしょうか」
「野菜、魚、肉、どれが多めがいいとか注文あるかい?」
「お任せ致します」
「はいよ。銅貨一枚、鉄貨二枚ね」
支払いを済ませると、フリエ分体が自らの財布から硬貨を取り出して言う。
「ツキノ様、鉄貨六枚を」
「いえ、フリエ様。わたしの案内に付き添って頂いたのですから、受け取りません」
「……そういうことであれば」
受け取れないではなく、受け取らない。
そうまで明確に言われてしまえば、ここまでのやり取りでツキノの感覚を納得させられないと思い至り、フリエは素直に硬貨をしまい込んだ。
距離を感じる二人の会話を聞いていた露店の女性が、揚げる手を止めず愉快そうに笑う。
「なんだか面白いねぇ、あんたたち。お互い様付けで呼び合うだなんて」
「どこかおかしいでしょうか」
「ん? 見たところ歳もそう違わなそうだし、別にどっちかの身分が上ってわけでもないんじゃないのかい」
「年齢に違いはないそうですが、わたしは拾われてお世話になり始めたばかりの身では御座います」
ツキノが平坦な声音で応じると、女性は少し困った様子でフリエの方へ視線を向けた。
「おや、そうだったのかい……だとしても寂しいことだと思うけどねぇ。そっちのお嬢ちゃんはリエン様の宿舎の、増えるメイドだろう? 人見知りって聞いてるからしょうがないのかね」
「人見知り」
「ん? なんだい、知らないのかい。まぁ簡単に言えば、人と距離を詰められるようになるまで時間がかかるってことさね」
「距離、で御座いますか」
言われ、思い出すのは彼女と初めて会った時。一歩引いたところで挨拶をされた記憶だった。
受けてツキノは、物は試しとばかりにフリエとの距離を一歩、物理的に詰めてみる。
「!」
「なるほど……」
すると呼応するように同じく一歩下がられ、淡々と納得を得ては小さく頷いた。
「なんだいなんだい、ずいぶんと面白いお嬢ちゃんだね」
「? ありがとうございます」
「はいよ、二人分。面白ついでにババアが一つ、良いことを教えてあげようじゃないか。人と距離を縮めたければ手を繋ぐことさね。男なんかは特にそうだよ、基本は根がバカだから。どぅあはははっ!」
意味を図りかねながら揚げ物が詰め込まれた紙袋を受け取るツキノ。
しかし両手が塞がってしまうこともあり、露店の近くにある木製ベンチで腰を下ろすこととした。
一息をついた後。ツキノは紙袋の中を確認することなく、適当に一つを選んで掴み取る。
「これがフリッター、で御座いますか」
「極東で言うところの、天麩羅に近いもので御座いますね。食感は正反対ではあるそうですが」
ツキノという名がヒナトのものだから勘違いをさせたのだろう、とは思いつつもそれを指摘するよりも食べた方が話が早いと結論したツキノは、艶やかな小麦色をひと口かじった。
「リンゴで御座いました。甘い……」
「エフド王国では揚げ物が主流な調理法で、フリッターもその一つで御座いますね」
(ん……少し苦み、のようなものがあります。これは皮でしょうか)
もしかすると他の食材の味が移ったりしているのかもしれない、と。
そんな予測を立てつつ、ツキノとフリエは揃って顔色一つ変えないままフリッターを次々と口へ運んでいく。
((おいしい……))
彼女たちは一切気にしていなかったが、周囲からしてみればメイドがベンチで黙々と食事を摂っているだけならばまだしも、どちらの感情も覗けないことが異様と感じさせる光景を作り出していた。
およそ十分後。昼食……というより軽食を終え、紙袋を露店前のゴミ箱に捨てたツキノは、フリエ分体が持ち歩いていたハンカチで手を拭きながら提案する。
「ではそろそろ戻りましょう、フリエ様」
「もうよろしいですのか?」
「はい、今日のところは」
ならばと意識が帰路へ向いたフリエに、ですが、と言葉が一つ付け加えられた。
「フリエ様、お手をお借りしてもよろしいでしょうか」
「? 構いませんが」
困惑する瞳がほっそりとした滑らかな手のひらを差し出す。
ツキノはその柔らかな手をただ握り締め、会釈を添えて言った。
「ありがとうございます。では、参りましょう」
「……このままで、で御座いますか」
「はい。何か問題があるのでしょうか?」
「も、問題は…………いえ」
何かあるのだろうとは察しつつ、しかし口に出しはしないのだから重要ではないと判断したツキノは、彼女の態度を特に気にすることをしなかった。
そうして手を繋いだまま来た道を通り、遊撃隊の宿舎まで戻ると――
「あら、二人とも戻っ――……おかえりなさい」
「…………っ」
「?」
自分たちを目にしたパーラが浮かべた微笑みの意味が分からず、小首をかしげるツキノであった。