1.序章
少女が生まれたのは母が十四の歳の頃であった。
少女が聞かされた話によると、母はヒナトという極東の島国から遥々やって来た熱心な信者のひとりであり、ひどく華奢で薄い身体の幼子だったという。
やがて母は日々の中で、その幼さに秘めた情熱を偉大なる父から認められ、父の子を身ごもることを許された。だが元より身体の弱かった彼女は、出産と同時にその命を落としてしまったのである。
それが今から、およそ十二年前の出来事だった。
「聖女様、おはようございます。本日も、わたくし共の度重なるご無礼をお許しください」
少女の世話人を務める女がそうへりくだり、礼をする。
彼女の後ろに控えていた十数名の女性、童女たちも同じように規則正しい流れで深く頭を下げた。
右の手のひらを心臓に当て、一度両手を合わせてから胸の辺りで合わせたままの両手を滑らせる。
左の甲が上に来るのが、目上に対する一般的な挨拶だった。
「聖女ツキノの名に於いて、汝の罪を許します」
凛とした言葉が、神秘さと妖しさの双方を孕んだような広い神殿に響き渡る。
聖女と呼ばれた少女――ツキノの姿は、その神殿の頂である祭壇に在った。
母と同様、華奢な腕に薄い胸、儚げな蝶を思わせるまっさらな白銀の髪と冷たく鋭い蒼氷の瞳。
陶器のように割れやすい様相をしたツキノは、どこにでもいるようでどこにもいない、齢十二の少女だった。
ただ一点、四肢が鎖に繋がれていることを除けば。
ツキノは御神クォセヴィトニアを降臨させるための贄――つまりは、聖女であった。
術式の紋様が刻まれた祭壇の上だけで生活をし、特殊な鎖を通じて供物たる〝感情〟を差し出す。
それが聖女の適性を持ったツキノに、生まれながらにして与えられた役割。
たった13㎡程度の空間だけが物心ついて以降、彼女の世界の全てだった。
それでもツキノの保護者――宗教団体〝デゼルネルピス〟にとって御神クォセヴィトニアの降臨は大命であり、悲願。
基本的には現総大主教の父よりも生存が優先される存在と言える。
故に置かれた状況に反して、待遇そのものは司祭や信者の誰より優遇されていた。
端的に言えば、大事にされていたのである。
しかし無論それはツキノというひとりの人間としてではなく、聖女としてに過ぎない。
彼女がそのことに初めて気が付いたのは、皮肉にも感情の大半を失った後だった。
無感情。無感動。無表情。無関心。
あらゆる事象が他人事のように感じ始め、自身の置かれた状況を冷静に俯瞰して客観視できるようになってしまった結果である。
何より毎日のように接する相手の明確な変化を目の当たりにし、何の疑問も驚きも示さない世話人や無数の信者たちの反応が決定的だった。
この場所では誰ひとり、聖女を名前で呼ぶことはない。
だから無意識に〝聖女ツキノ〟と名乗っていたのだろう、と彼女は淡々と自らを分析していた。
――この場所を抜け出して、外に出たい。
それは搾りかす同然の〝強欲〟だった。
だが聖女であるツキノにそのような機会など与えられるはずもない。
文字通りの皆無。選りすぐりの狂信者だけが集められたこの施設で、彼女を連れ出してくれるような味方などできる道理もなかった。
であれば、ツキノに取り得る選択肢はただ一つしか存在していない。
それは、やり遂げたら自身の存在がどうなるのかも定かではない儀式の完遂。
感情が少しずつ吸われていく日常を送り続け、最後に芽生えた欲も目が覚めるといつの日か泡沫の如く消え失せていた。
結局、彼女に残されたのは〝外に出たいと思っていた自分の目的を果たす〟という無機質な義務感に似た何かだった。
(わたしは……自分が。不幸であることすら知らず、死ぬのでしょうか)
死への恐怖はない。未来への失望も、自身への落胆も。
何もない。ツキノという人間は、本当に何ひとつ持ってはいなかった。
だが――降臨の儀式が完遂間近となったある日。最初にして最大の転機が訪れた。
この場所を突き止めたエフド王国から派遣された、騎士団による襲撃があったのである。
さらにその日は主要な司祭の大半が出払っており、恐らく最も警備が手薄な日の一つだった。
本当に、偶然と言うには奇跡に等しい幸運――〝運命〟のようだと、目下で次々と倒れていく信者たちを前にツキノは静かに思った。
「おのれ、デゼルネルピス……攫って来た幼い少女にこのような仕打ちなどと」
祭壇の上。鎖で繋がれたツキノを目にし、返り血を浴びてなお淡い輝きを放つような煌めきを含んだ褐色肌の青年が唇を強く結ぶ。
それから彼は、左手首から上半身にかけて刻まれた蛇の紋様を起動させる。
途端、細い指先から現出した〝蛇〟が〝聖女〟を縛っていた鎖を噛み千切った。
その様子を無感動に捉え、ツキノは自らを解き放ってくれた男の琥珀色の瞳を仰ぎ見る。
「――さぁ」
ツキノは差し伸べられた手をそっと取る。
これがのちに無感の花嫁と呼ばれる少女と、彼女の隣を歩んでいく男――リエンの一番最初の出会いだった。