牢番と魔女
「ねえ、お兄さん」
女は鉄格子の中から涼やかな声で言った。街から離れたこの地下牢に他に人はいない。呼ばれたのは自分だろうと気づいてはいたが、罪人と会話してやる義理もない。俺は何も言わなかった。
「ねえったら聞こえてるんでしょ」
女は今度は擦り寄るような声で言った。この牢にどんな罪人がどんな罪で入っているかは知らないが、おそらく魔女だろう。最近、都心では大規模な魔女狩りが行われ、遠く離れた町や村でも多くの女が捕らえられた。魔女に会ったことは無いが、男に取り入る浅ましい奴らだと聞く。返事をしたってろくなことにならないだろう。もとより俺の役目はここに入っているやつを逃げないよう見張ることだけだ。
「はぁ無視するの、冷たいねえ」
女は深くため息をついた。途端にあたりはシンとなる。やっと静かになったかと安心したのもつかの間、女は明るく話し始めた。
「今日は雪かしら、ここは寒くて嫌になるねぇ、お兄さんも仕事とはいえ、こんな暗くて狭いところ嫌になるでしょ」
ペラペラとよく喋る。俺は静かにしろと怒鳴りつけようか迷って、やっぱり押し黙った。ここで口を開けば女の思うつぼだ。きっと口調からして人を嘲笑うような奴に違いない。黙っていればいつかは静かになるはずだ。
「もう交代の時間?時間はあっという間ね、お兄さんまたあしたね」
俺が立ち上がると女はそう言った。結局その日女はえんえんと話し続けたが、俺は最後まで何も言わなかった。死刑の日が来るまでひと月もない。こいつはいつまでしゃべり続けていられるだろう。きっとあと数日も経てば、心を壊してブツブツとつぶやくだけになる。そういう罪人を沢山見てきた。
だが女は3日経っても5日経っても同じように話し続けた。天気の話だとか、好きな食べ物だとかくだらない話を1人でずっと喋る。あまりに罪人らしさが無いものだから俺はうっかり返事をしそうになっては、はっとなって口を一の字に結んだ。
「私はねえ、小さな村で生まれたの。両親のいない私を育ててくれたのは村で嫌われ者のお婆さんでねえ」
いつものように女は自分語りを始めた。どうもこの女は話をするのが上手くて困る。聞かないようにするのが一苦労だ。そんな俺の心を知ってか知らずか女は喋り続けた。
「それはそれは厳しい人だった、いじめられて服が泥だらけになって帰ってきた私を叱り付けてこう言うの、もっと強くなりな誰より強くなりなって、じゃないとお前みたいな子捨てちまうからねって」
「だから私強くなろうって決めてさ、いじめられたらその都度仕返ししてやったんだ」
「そしたら村で爪弾きにされてねえ、魔女狩りの連中が来たとき、村のヤツらは私とお婆さんを指さしていっせいに言うのよ」
「アイツらが魔女だって」
女の声は冷たく響き渡った。俺は魔女が俺を騙しているのだと頭で理解しようとしたが、女のその話はゾッと身震いするような迫力があってつい聞き入ってしまっていた。
「正直言って、お婆さんのことは嫌いだった。口調だってね、お婆さんを真似てこうなったのよ。他に教わる相手がいないから」
「それにあんまり厳しくされるものだから、私も嫌われてるんだと思ってた……でもねえお婆さん、庇ってくれたのよ」
「私は魔女でもなんでもいいけどこの子は違うって、連れていかないでくれって。私の髪を引っ張って連れていこうとする魔女狩りの連中の足にしがみついて」
「私は泣きながらお婆さんの姿を見てた。そしたらねぇ、お婆さん思いっきり蹴られて殴られて次第に動かなくなった。私はね、何も出来なかったの。足掻いたけれど何も出来なかった。抵抗すればお前もここで殺すと言われて大人しくなるしか、無かった。白い雪の上に倒れた小さなお婆さんの体を、私は見えなくなるまでずっと見てた。でも最後までピクリとも動かなかった……」
「村では嫌われ者でも私にとってたった一人の家族だった」
女はその日、それ以上は何も話さなかった。
しんとなった牢は底から冷気があがってくるようだった。家族を全員亡くしている俺にとって、その話は心臓を突き刺すような痛みがあった。
「今日は少しだけ暖かいね、もうすぐ春かしら」
次の日、女は何も無かったかのようにまた陽気に話し始めた。
「よく喋るな」
生い立ちを聞いて絆されたつもりはなかったが、ついそう答えてしまってハッとなる。すると女は静かになって、少ししてくすくすと笑いだした。
「まぁね、村じゃ誰も話し相手になってくれなかったから死ぬ前にいっぱい話しとこうと思って」
俺は笑い声でやっと気づいた。牢にいる女は年端の行かぬ少女ではないか。今まで振り向くこともしなかったため気づかなかったが。随分と背伸びした声色と口調で勘違いしていた。
そうだと気づくと、己の中の良心がズキズキと痛み出すのを感じた。もしも彼女の話が本当ならば、彼女は罪人なんかじゃない。哀れな1人の娘だ。
「どうして返事をしてくれたの?私が可哀想になったから?」
鋭くそう聞かれて、俺は本気でしまったと思った。彼女をいくら哀れんだって、彼女がいくら潔白だからと言って俺にはどうすることも出来やしない。俺の仕事はこの牢を見張ることだ。たとえ中にいるやつが罪人だろうとなかろうと、少女だろうと年寄りだろうと、俺には関係ない事だ。
「お兄さんすごく真面目な人ね、私が思ってたよりうんと普通の女の子だって気づいたはずなのにちらりともこっちを見ない」
俺がまた黙りこくると、ふふっと諦めたように彼女は笑った。
「夜来る牢番の人はねぇ、私が話しかけたらうるさい黙れって言ってきたのよ。彼は最初に値踏みするみたいにじろじろと私の姿を見てきたから気持ち悪くってねぇ。仕事ほったらかしてすやすや寝てるし、私はもう喋りかけないことにしたの」
彼女はいつもの様に喋る。俺はもう二度と返事をしてはいけないと思い直して、ぎゅっと拳を握った。惑わされるな、絆されるな。罪人にしてやれることは無い。何かをしてやろうとすれば、俺も罪人になるだけだ。
「お兄さんは私の話を聞いていないふりをして実はちゃんと聞いてくれてるでしょ?だからお兄さんのことは好き」
次第に痛みが強くなる心臓を俺はどうにか抑えるしか無かった。大した覚悟もないくせに勝手に哀れんで返事をして、こうやって無情になりきれない自分が嫌になった。
「ねぇ、こっち見ないでいいからね、お兄さん真面目でいい人だからきっと可哀想な私をみたら良心が痛むでしょ」
その言葉が、俺の中の何かを動かしてしまった。欠片ほど残った正義感だろうか、すでに痛みに耐えきれなくなった良心だろうか。
俺はゆっくり振り返った。牢に向きあってドスンと腰を落とす。こうまで言わせた責任はとるべきだし、どんな結果が待っていても罪悪感は俺が抱えるべきものだ。
「話し相手くらいにはなってやる、悪いが俺に出来るのはそれだけだ」
牢の隅に縮こまって座っているのは、痩せ細った小さな女の子だった。驚いたように見開かれた瞳をじっと見つめ返すと、くすくすと笑いだした。
「馬鹿ねぇ」
姿を見た今では無理に大人になろうと強がる少女の声にしか聞こえなかった。なぜ今まで分からなかったのか。先入観とは不思議なものだ。どんなに若くとも30手前の女だろうと思っていたのだから。
「でもありがとう」
ふわりと消え入りそうに笑う少女は、この冷たく暗い地下牢にはあまりにも不釣り合いだった。こんなところにいるべき存在ではない。だが自分にはどうしてあげることも出来ない。この世の不条理にこの上なく腹が立った。
「お兄さんの話を聞かせて」
彼女は膝を抱えたままこてんと首を傾げた。聞きの姿勢に入ったようだ。俺はすっかり困ってしまった。話すのはあまり得意じゃない。
「好きな季節は?」
彼女がそういうので俺はうーんと迷って、「春だ」と答えた。
「どうして?」と聞かれてまた唸りながら、「暖かいしなんか良い匂いがするだろ」と当たり障りのないことを言う。
「確かにね」
少女はおかしそうにくすくすと笑う。どうもくすぐったくなって俺は一生懸命口を開いた。
「俺には5つ歳の離れた妹がいたんだ。妹は春が好きだった」
「妹?……今はどうしているの?」
過去形だったのに気づいたようで、彼女は恐る恐ると言ったふうに聞いてきた。
「流行病で死んじまった、お袋も親父も」
「……私の両親もよ」
「……そうか、お互い運がよかったな。まぁ生き残るのが良いことなのかはわかんねぇけどよ」
その言葉を最後に静けさが地下牢に訪れた。不思議とその沈黙に気まずさはなかった。なんとなく通じ合ったような、お互いに少し心を開いたようなそんな静けさだった。
「私の牢を見張るのが、お兄さんで良かった」
少女が小さくそう言ってしばらくすると、スゥスゥと寝息を立てはじめた。俺は冷たい鉄格子をそっと撫でて彼女を見下ろした。小さく丸まって眠る少女の、つぅーと流れる一筋の涙が脳裏に焼き付いて離れなかった。
あっという間に死刑の日はやってきた。
これから彼女は都心に連行され、見せしめのように火炙りにされる。軍に引き渡すまでが地方の罪人を監視する俺の役目だ。
朝、いつもの様に見張りを交代してしばらく経ったがお互い言葉はない。牢に向き合ったその日から背を向けることはしなかったが、今日ばかりはなんて言葉をかければいいのか分からなかった。
「ねぇ」
少女は変わらず涼やかに言った。
「手、貸してくれない?」
俺は戸惑ったし躊躇った。談笑するくらいには心を通わせてしまった今では、さすがに何か良くない一線を、俺の心の一線を超えてしまう気がしていた。
「ねぇ、お願い」
いつもは歳に不相応な軽やかさを孕んでいる彼女の声色は、今までにないくらい切実だった。俺はそれくらい大丈夫だと自分自身に言い訳をした。哀れなこの子に、もし自分が騙されていたとしても。それでいいと思った。それでこの子が本当に魔女で、俺を利用してここから逃げ出せるのなら、むしろその方がいいとさえ思ったのだ。
鉄格子の隙間に右手を差し入れた。彼女は大事なものを受け取るように俺の手をぎゅっと両手で掴んだ。そして左手を合わせてにっこり笑った。
「お兄さんの手、大きいね」
冷たくて小さな手。ささくれていて霜焼けになったその手を俺は、気づいたら指を絡めてぎゅっと握っていた。
彼女は俺の手を握り返すとじっと俺の目を見た。大人びた表情に、寂しさが張り付いているように見えるのは俺の勘違いだろうか。
「……ありがとう」
するりと離れていく手を、俺はつかみ直すことが出来なかった。まだ子供のくせに、本当は泣きそうなくせに、俺なんかよりずっとずっと賢くて冷静な彼女は助けを求めることすら出来ない。
馬の鳴き声が聞こえてきて、軍の小隊が近づいているのが分かった。たった一人のちっぽけな女の子を連行するために大層な事だ。
彼女もそれに気づいたのか、一瞬顔をひきつらせて、でもまた諦めたように穏やかな笑みを浮かべた。まるで連れていかれる準備をするようにフラフラと立ち上がる。そんな彼女を見た俺はもう限界だった。牢の鍵を開けて、強引に中に入る。俺の突然の行動にびっくりして固まっている彼女の腕を掴んだ。
「こっちを見てくれ」
驚いたまま彼女は俺を見上げる。こぼれそうなおおきな瞳は、ちゃんと助けを求めていた。そうしてやっと俺の心は決まった。
「逃げるぞ」
そう言った瞬間、彼女の顔はみるみるうちに青ざめていく。
「……そんなことしたらお兄さんまで」
震える声でそう言った。こんな小さな体のどこに、人の心配をする余裕があるんだろう。もう俺には彼女の全てがいっぱいいっぱいに見えて仕方がない。もっとわがままに生きて欲しい。年相応に笑って泣いて。そうあるべきなんだ。
「安心しろ前にも言ったが俺に家族はいない、誰にも迷惑はかからない」
「絶対にダメ!私を引き渡せば済むことじゃないの?どうして今そんなこと言うのよ……」
「前から考えていたことだが、あいにく今日しか牢の鍵を持たされてないんだ」
今日まで沢山会話する中ですっかり俺は絆されてしまっていた。陰気な仕事をこなす日々。娯楽もない。そんな俺にとって彼女は、いつの間にか守りたい唯一の何かになったんだ。
「なに、助けてやるとは言ってない。一緒に死んでくれと言ってるんだ」
申し訳ないが、国境まで逃げ切れる自信はあまりない。途中に湖があるので、そこまで何とか逃げ切って心中するのが関の山だろう。
「……いっしょに死んでくれるの?」
大きな瞳からぼろぼろと涙を零す彼女を見て、ああやっぱりこれでいいと思った。俺の選択は間違ってないと思った。
「当たり前だ」
彼女の小さく弱々しい体を抱きあげて、俺は走り出した。