T君の訃報
中学の頃の友人が亡くなったという知らせを受けました。ここではT君としますが、T君は私と同じ年なので、三十代後半で亡くなった事になります。若死と言っていいでしょう。
死因その他の詳しい事情は全く聞いていません。ただ突然の訃報を知っただけです。
あまりに意外だったので現実感が乏しいのですが、(人って死ぬんだな)と改めて思いました。我々が経験できるのは他人の死だけですが、その死の知らせも突然やってきます。
訃報を受けて、何年か前に、T君と、もう一人、Y君と三人で鍋を食べた事を思い出しました。Y君は、中学・高校の友人で今も親しくしています。Y君の発案で、T君の家で三人で鍋を食べたのでした。
その後、Y君がボードゲームを取り出して、三人でボードゲームをやりました。楽しい時間でした。
T君が亡くなったと聞いて、私はその時の事を思い出しました。勝手な話ですが(亡くなる前に、ああいう時間を過ごせて良かった)と思いました。
もちろん、この感傷は、生き残った人間の勝手な思惟に過ぎません。亡くなったという事実から逆算して、過去を組み立て、物語とする。そういう思考を私の脳は、ほとんど自動機能にように行いました。
「彼が死ぬ前にああいう楽しい時間を一緒に過ごせて良かった」という感情は、自分自身が生き残った人間の側であるという後ろめたさを消去しようとする気持ちもあるでしょうし、一人の人間の突然の死という不合理性を合理化しようとする目的もある。
実際の所、一人の人間の生ー死は、ギザギザとしたもので、脈絡がなく、突然の中断である事がほとんどです。しかし残された側の人間は納得できないので、合理化しようとして考える。
私も頭の中でそのような合理化を、かなり速い速度で行いました。それを今ここでこうして自己批判してみせているというわけです。
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古代の人間も私と同じような事を考えたのだと思います。キリスト教を最近調べていますが、例えば、キリストが「復活した」というのは後代の人間の創作でしょう。あれも、一人の人間の生ー死というギザギザしたものを丸くして、わかりやすくする試みでしょう。一人の人間の死を合理化し、物語とする事によってキリスト教は生まれた。西欧全体が一つの物語の上に乗っかっていると言ってもいいほどです。
しかし、あくまでも一人の人間の生ー死は、ギザギザとした、形の定まっていないものであって、ほとんど全ての人間が、未完成の生を突然中断されるように死んで行きます。
完成された物語の頂点として死ぬ人間はほとんどいません。人間の本質を考えると、そういう人は一人もいないのではないかと思います。ですが、人生というものを合理化しようとする我々の試みはあまりにも強く、全ての人間の死に何らかの意味を見つけようと思えば見つけられるはずです。
死によって生は中断する可能性があります。当たり前の話ですが、それ故に、生きている時間を利用して人は、やるべき事をやっておかなければならない。
やるべき事とは何か。それがわからない人に私はそれを授ける力を持たないし、社会は「やるべき事」など持たれては困るので、絶えず生を社会システムに組み入れる為に、消費される商品を大量に生み出し続けます。しかしそんなものはどうでもいい。やるべき事のある人はやるしかありません。
死は生という、中途半端な、ギザギザとした広がりを切断するように現れてくる。人はいつ死ぬかわからない。だからやるべき事をやらなければならないのだと思います。作家のプルーストが「成熟」に到達し、自らの作品を書き始めるのは、彼の両親が亡くなった影響が大きい。プルーストは愛する親を失って、はじめて自分のすべき事を始められました。ここでは死という切断が、新たな始まりを意味した。人はいつも、死を背後に抱えて生きなければならない。この度の旧友の訃報は私にそんな事を思わせました。T君の魂に安らぎあれ。