934 おじさんちになぜか帰ってくる蛮族
明けて翌日のことである。
今日も学園はお休みだ。
明日は舞踏会がある。
おじさんたちは朝から舞踏会の準備を整える予定だ。
というか学生会の一部の面々はこの休みの間もした準備をしている。
搬送されてくる荷物の確認などを行なっているのだ。
ケルシーはおじさんとの勉強会でいっぱいいっぱいだけど。
昨日今日とケルシーは、おじさんの掌の上で転がされていた。
文句はあれど、飴となるお菓子を用意されているのだ。
正解すれば食べられる。
おじさんの説明もわかりやすい。
ただし逃げようとすれば、顔に跡が残るくらいにぎゅっとされる。
そのお陰で予定していたよりも、早く分数の計算をものにしたのだ。
あの蛮族二号が。
――昼下がり。
すべての予定を消化したケルシーである。
最終確認として行われた試験にも合格した。
「よくがんばりましたわね!」
思わず、ケルシーの頭をなでてしまうおじさんだ。
あとは反復して練習すれば、しっかり覚えられるだろう。
「もう分数こわくない!」
ニヒヒと笑うケルシーだ。
そこへ響くドアをノックする音である。
侍女がおじさんの代わりに用件を聞いて戻ってきた。
「お嬢様、エーリカ様が来訪されているとのことです」
「ああ、遠征が終わったのでしょう。まさか報告の前にこちらに?」
おじさんの問いに頷く侍女であった。
「仕方ありません。こちらから神殿と、コントレラス侯爵家に報せを」
腰をあげるおじさんだ。
「エーリカ、帰ってきたの?」
「そのようですわね。出迎えに行きますか」
エントランスに聖女たちはいた。
お付きの神官たちまでいる。
「リー!」
おじさんが姿を見せると、元気に走ってくる聖女だ。
もはや飛びつく勢いである。
「おかえりなさい、エーリカ」
「あのね、悪いけど、お風呂入らせてくれない?」
「……かまいませんが。露天にしておきますか? 温泉地がいいですか?」
「温泉地がいい! あっちの豪華なお風呂に入りたい!」
「ちょ……エーリカ様。そんな恐れ多い」
年嵩の女性神官が聖女に声をかける。
それを手で制するおじさんだ。
「よろしければ神官の皆様もご招待しましょう。皆様も遠征ご苦労様でした。どうぞ旅の疲れを落としていってくださいな」
ニコリと微笑むおじさんだ。
超絶美少女の笑顔に神官たちは、ボケッと口を半開きにして止まっている。
あまりの美しさに見惚れてしまったのだ。
「失礼いたしました……その、正直に申し上げまして、私たちはこのような場でどう返答すれば良いのかわかりません。その……」
口ごもる年嵩の女性神官に聖女が言う。
「いーのよ! 極楽ってものを見せてあげるから!」
勝手知ったる我が家のように、ずんずん進む聖女だ。
そこにケルシーも合流する。
蛮族が揃ったのだ。
「エーリカの側付きなのでしょう? でしたら巻きこまれたと思って、楽しめばいいのですわ。おほほほ」
さぁと促されて、素直について行く女性神官たち。
彼女たちは後ほど語ることになる。
この世の楽園とはあの場所のことだ、と。
浮島のある幻想的な空間。
そこにあふれる清潔なお湯。
おもてなしで出された美酒、美食。
身体はほかほか。
心もほかほか。
恐ろしく髪がすべすべになる香油。
髪を乾かせる魔道具もある。
肌がぷるんぷるんになる美容液まで使わせてもらった。
雲の上で寝ているかと思う寝心地のいいベッド。
快適な部屋。
すべすべと肌触りのいい着替え。
女性神官たちは思った。
これはダメになる。
人をダメにするものがたくさんだ。
それに、おじさんちでは聖女の面倒を見なくてもいい。
あの蛮族から解放されるのだ。
――堕落。
そんな二文字が頭をよぎる。
が――抗うことなどできるわけもない。
「か、帰りたくなーい!」
年若い神官の一人が叫んだ。
それはもう仕方ないと思う。
「公爵家に雇っていただけないかしら?」
年嵩の女性神官たちは真剣な表情で相談している。
べつに神官としてじゃなくてもいい。
ここで住み込みで働かせてほしい、と思ったのだ。
だって、温泉に入れるのだから。
一方で聖女である。
のんびりと温泉に浸かって、はぁーと息を吐いている。
その隣に、おじさんとケルシーが並んでいた。
「リーにもらった携帯食あったでしょう?」
「フリーズドライのものでしたわね」
「あれ、めっちゃ美味しかった!」
聖女がにぱっと笑う。
「神官たちも気に入ってさ、一日で全部食べちゃった!」
さすがにぎょっとするおじさんだ。
確か一種類につき十二個パックでいくつか持たせたはずである。
それを一日で?
「さすがにそれは……よく食べられましたわね」
「勢いで食べちゃったんだよね。美味しくってさ」
おじさんの腕をちょんちょんと引っ張るケルシーだ。
「けーたいしょくってなに? 食べたい!」
まぁここで食べるようなものではない。
あれはあくまでも野営のときに……と思うも、考えを翻す。
納得しないだろうから。
「後で出してあげますわ」
いやっほおおおい! と喜ぶケルシーだ。
「まぁ……美味しいというのは良かったですわ。あとで追加の品を渡しますわね」
「ありがと! めっちゃ助かる! っていうかさ、一気に食べちゃったからその後が辛くってさ。もう、あの頃には戻れないのよ!」
聖女がシクシクと泣く真似をする。
わかりやすい嘘泣きだ。
「では、今日はうちのご飯をしっかり食べて行きなさいな。もうエーリカのお家と神殿には連絡を入れてありますので、泊まっていってもいいですわよ」
「じゃあ、勝負ね!」
ケルシーが目を輝かせている。
なんの勝負をするのやらと目を細めるおじさんだ。
「……舞踏会に間に合って良かったですわね」
「一大イベントだからね、絶対に間に合わせたかったのよ!」
聖女がなにやら悪い顔をしている。
「なにか企んでいるのですか?」
「むっふっふ。よくぞ聞いてくれました! 実はね、薔薇乙女十字団のうたを作っていたのよ」
おじさんは初耳である。
「そのお披露目をする、と。わたくしは聞いていませんけど」
「だって、リーのことを驚かせようと思ったんだもん」
その心遣いは嬉しい。
だが――一抹の不安も感じないではない。
お湯から出るおじさんだ。
近くにある四阿に移動する。
控えていた侍女がお水を用意してくれたので、ありがたくいただく。
「ほどほどにするのですよ」
「リーには明日、ちゃんと楽譜を渡すからね!」
おじさんなら初見で弾けるということか。
まぁそれはそれでいいのだけども。
「お腹すいたー! ご飯よ、ご飯!」
その日、聖女とケルシーは食べに食べた。
神官たちも別室ではあるが料理をいただいたそうである。
そして――全員がお腹をさすりながら、ウンウンとうなり声をあげた。
神殿では美味しいものが食べられない。
そんな風評被害が生まれそうな勢いであった。




