その4
幻獣とは、異なる世界に暮らす、さまざまな能力を有した獣型生物の総称だ。
その中で、魔術士と契約するのは、契約に使われる幻獣記号や契約内容を理解する知性があるものに限られてくる。
幻獣記号というのは、種族や能力などを簡略的に表記するものであり、魔術士と幻獣間で共有されている。
一部の幻獣は直接記憶をやり取りすることが可能で、望めばすぐに記号の知識を受け取れるという。
なんて便利な能力なのか。
幻獣記号一覧を手元に広げながら、ティットは羨んだ。
必要な時に確認すればいいので、すべての記号を覚える必要はないが、基本の約五十記号は押さえねばならない。試験に出されるからだ。
複雑なものは少ないが、線の位置や本数で意味が変わるのが紛らわしい。
だからといって、この世界の古い言葉だという精霊言語を覚える方がいいかというと、それはない。
文法というものが絡んでくる。単語を並べるだけでは駄目なのだ。
さらには、言葉の選び方、韻律、声音などなど、なにを重視するかは精霊それぞれの好みによるという。高位の精霊になればなる程こだわりが強くなる傾向があり、契約を結ぶのは大変に面倒らしい。
古典文学なども頭に入れておかねばならず、契約書の作成が詩作のようなものだそうだ。
そうした方面の素養も才能もまるでないティットは、もし精霊使いになるのであれば、一生契約できなかったかもしれない。
珍味扱いされても、幻獣向きの魔力の質でよかった。幻獣は魔力の味と量、条件さえ合えばよい。実にシンプルだ。
やるか、とティットは一覧表と向かい合った。
しかし、どうやって覚えればよいものか。
ティットは自分なりの暗記法を身につけるほど勉強をしたことがない。これまで丸暗記で覚える必要があったのは、文字と数字と飾り彫り用の伝統図柄くらいである。
ティットは、木工道具などを仕舞い込んでいる物入れを見やった。
一抱えほどあるそれは、兄が習作としてつくり、ティットが飾り彫りの練習をしたものだ。兄はともかく、ティットの腕はまだまだだったが、気に入っている。
伝統図柄のなかでも好きなものばかり、もっぱら生物の図柄を彫り込んだからだ。
ちなみに、この物入れの後、練習を重ねて実際の商品にも彫った。地元有力者からの注文で、図柄を間違ってはいけないのでしっかりと脳に刻んだ。
おかげで今でも彫ろうと思えば彫れるくらい、きっちり覚えている。
よし、彫ろう!
ティットは決意した。
彫れば覚えるし、忘れない。
せっかくなので彫りを施した板をはめ込む形にでもして、後でなにか兄に作ってもらおう。それほどいい木材は手元にないが、自分が使うのなら十分だ。
まずはデザインを考えねば。記号だけでは味気ない。
空き時間に、ああでもない、こうでもないとティットは頭を悩ませながら図柄の制作に取りかかった。
祖父や兄ほどではないが、ティットもまた凝り性だ。一つの記号につき何パターンも考えた。
どうせなら、意味も分かりやすくなるものがいい。
ちなみに学業に必要なものとして、筆記用具は支給されている。使い放題なんて素敵だなとティットは上機嫌だった。
※ ※ ※
「楽しそうだから口を挟むのは控えていたけど、ティット、試験には間に合わないわよ?」
見かねたのだろう、同室のカーリアから指摘されたのは試験が二週間後に迫ったときだった。
ティットは我に返った。
単純に、記号を彫るだけでももはや時間は足りない。
そもそも試験は幻獣記号だけではないのである。
ティットは息を長々と吐いて脱力した。
肩を落としかけて、うん?と首を傾げる。
「……あれ?」
大丈夫かと気遣わしげに尋ねるカーリアの優しさにちょっと感動しつつ、ティットは大丈夫だったと明るく返事をした。
※ ※ ※
ティットの試験の出来はまずまずだった。幻獣記号の筆記と意味に関しては完璧だった。
記号の形の美しさは、教官からお褒めいただいたほどだ。
図柄を作るにあたって、記号の形と意味を繰り返し確認しつつ、何度も脳内で組み合わせ、試しにかき込んだのが功を奏した。
板には刻まれずとも、脳には刻まれた。
試験は無事通ったが、ティットはせっかくなのでと作業を続けた。
そして半年ほどかけて彫り上げたそれらの板を故郷の兄に送りつけた。
数ヶ月後、兄は加工した品を送り返してきた。
兄が遠方からやって来た職人に手ほどきを受けて作ったという、からくり箱だった。
決まった手順を踏まないと開かない仕掛けの施された引き出しのついた物入れで、普段使いするには面倒な代物だった。
ティットはしばらく用途を考え、学舎内にある共用の娯楽室に提供した。
開けるには、図柄の組み合わせを覚える必要があり、それは記号を覚える一助になったため、幻獣術士を目指す見習いたちに好評だった。
やがて引き出しを開けるまでの速さを競うのが、伝統になった。一定の時間内に開けられないと試験に落ちるというジンクスも生まれた。
「見習いたちのからくり箱」と呼ばれ、壊れたら同じものがまた作られるほどに愛用された。
ついでに、見習い時代の偉大なる魔術師が真っ先に開けたとの言い伝えも残った。
本来の持ち主だったので当たり前のことだったのだが、その辺りの由来はうまく伝わらなかったらしい。
このからくり箱をきっかけにティットの実家の工房へ幻獣術士たちによる注文が増えたことの方が、ティットにとっては重要だったので、由来が正しく伝わらなくても、なんら問題はなかった。