幸せのシーソー
朝早く、香津奈が起きてきた。
二人でテレビを見ていたが、
「じゃあ仕事に行くよ」というと、
「もう少しそばにいて」と言われて、ドキッ、とした。
遥かかなたの昔、僕が保育園に行ってた頃、毎日のように泣いていた。
母親に、保育園においていかれることが寂しくて、保母さんの目を盗んでは脱走して、母を追いかけていた。
ある日、保母さんが優しく話してくれた。
「みんなの心の中には、ギッタンバッコンがあるんだよ。片方には幸せの水が入った樽が、もう片方には、幸せじゃない水が入った樽がのってるの。
幸せの水が出てる間は、あなたは幸せだけどいずれ、ギッタンバッコンは傾いて、バランスを取るために、幸せじゃない水を出し始めるの。
その間、あなたはとても悲しいけど、心配しないで。必ず、幸せの水が流れ出すんだからね」
その先生は翌年、結婚してしまって、僕の初恋は見事に砕け散った。
小5の時に、家を買った。
元父親は、気持ちが大きくなったのか、とたんに働かなくなり、生活は困窮し、あっという間に家は手放すことになった。
母が一生懸命に貯めた、頭金五百万は、泡と消えた。
夫婦間は冷え込み、両親が別居することになって、僕と4つ下の弟は、母方の鹿児島へ行くことになった。。
小6の半年間通った小学校で、卒業。母校になった。
中1になり、愛知県へ戻ることになった。
元父親が、事業を始めたからと言うので、母が最後の望みをかけて、引っ越したのだ。
でも、金の無心のために、母を、呼び寄せただけだった。
引っ張り回された母は、疲れていたんだろう。
もう、鹿児島には帰られん、と言った。
初夏の頃だった。
窓は締め切られていた。
明かりの消えた家の中。外ではカエルの鳴き声と飼い犬の低いうなり声がきこえた。
それまで、黙っていた母が、言った。
「ごめんね」と堰を切ったように、繰り返す、母。
その言葉が合図のように、窓の外の雑踏が黙りこんだ。
シュー、という音だけが、部屋に響いた。「もう、いいよ。仕方ない」自分の声ではない気がした。
「もう、いわないで。おとなしく、してるから」
声が震えていた。
唯一、信じていた大人の母が、終わりを告げたのだから、他に選択肢はなかった。
12年しか生きてないから、涙の止め方も知らなかった。
弟と三人、川の字で横になっていた。
死を、待っていた。
そんな重苦しい空気の中で、弟が突然黙って立ち上がり、台所へ行って元栓を閉めた。
戻ってきた弟は、
「死にたくない」と言って向こう向きに、寝た。
翌朝、何事もなかったかのように起きたが、弟は今でもあの夜を、覚えていない。
何日も経たぬうちに、両親は正式に離婚した。
世界でただ一人、許せない糞野郎も、もうこの世にはいない。
37年後、現在。
香津奈と、夜空を見上げてる。
ブルームーンとかなんとか言う、夜。
あの日より、オゾン層が薄くなったせいか、星々が綺麗だ。
白く輝く星が、雪のように降り注いでくるようだ。
「綺麗だね」香津奈に言うと、
「クラスの子は言わないけど、大人の人には言われるよ、てへっ!」と、香津奈。
こりゃ、長生きするな。
この幸せを、いつまでも、いつまでも、いつまでも。
おわり