辺境の駐屯地
日の出前から降り始めた霧雨は、どうにも止む気配がない。薄曇りの空に青い隙間などどこにもなくて、見上げる限り広い範囲に細かな水の粒を降らせているようだった。
雨具にはいくつかの種類がある。都市部では傘を差す者が多くいるが、長距離を移動する場合はほぼ間違いなくカッパが用いられる。このカッパもいくつかの種類に分かれていて、獣の革を鞣したものは撥水性に優れていて大変優秀だが値段が高く、安いものでは藁を編みこんで作られたものもある。
どの村どの集落にも大概はいる、カッパ職人という者が。
素早く慣れた手つきで藁を編みこんでいき、麻糸で縛り上げていく。1着作るのに1地時間もかけないのが彼らである。
ジオとマリオンは村長からの好意で藁編み込みのカッパをいただくことができた。村を出るとき、すでに大地は濡れていた。
帝国には6つの主要街道がある。
――ドッピオ街道
――エンデイラ街道
――ガウ街道
――ジンバ街道
――アネー街道
――フィレイ街道
帝都サーランから延びるこれらの街道は、帝国がその歴史の中で征服していった地方とを結ぶ大動脈である。
アネー地方を南北にぶった切るように通る街道の終着地点は、アベルという都市だ。かつてこの地にあった王国の首都だった街で、いまはアネー地方の行政の中心となっている。
そのアベルから北西にあるアネー地方第3の都市カラカサにジオが所属する国境警備隊の総本部がある。カラカサが監督する駐屯地は23箇所あり、そのうちの一つがいま目指している目的地だ。
村を出発して、時折休息を挟みながら延々と足を前に出し続けて、日はすっかり上っているだろうに陽光の温かさはどこにもない。
2人は無言だった。はじめこそジオがあれこれと話していたが、話題はすぐに尽きた。もともと出会って間もないのに、共通の話題などあるはずもないから当たり前だ。
それに歩きながら話すにしても、それはそれで体力を消耗する。自然と口数は減っていき、やがて無言になるのは道理だった。
先頭を行くジオから数歩遅れてその後姿を見つめながら、マリオンは昨夜のことをぼんやりと思い出していた。
――駐屯地へ帰るの、いっしょに来てほしいんだ
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。いや、ジオの考えていることは手に取るようにわかる。何しろ自分自身のことだ。来るときは仲間が一緒だったが、いまは一人だけ、心細いのだろう。道中ならず者と出くわさないとも限らない。兵士の格好をした若造が一人でいたら、たちまち襲われてしまうだろう。山賊にしろ盗賊にしろ、彼らは兵士や騎士というものが大嫌いなのだから。
マリオンは単独でフリッグベアを倒した。ジオはそれを頼りに、無事駐屯地へ帰る腹積もりなのだ。マリオンはいわば用心棒。
しかしマリオンの本音としては、そんな情けない言葉は聞きたくなかったし、見たくもなかった。だってそうだろう、それはつまり過去の自分が、本当にみっともなく情けなかったと認めざるを得ないのだから。だが現実は現実として受け止めるしかない。
ジオを一人で行かせて、万一があっても困る。ジオの死は世界の死に直結しかねない。
いつかの過去、自分がジオだったころの過去、マリオンの言った言葉がある。
『オレとお前はもう、一蓮托生なんだよ!』
当時は自分がマリオンに受け入れられた言葉として喜んでいたが、いまならわかる、あれはそんな生易しい言葉ではなかったのだと。文字通りジオとマリオンは一蓮托生の存在だったのだと。
ここでジオとは違う道を行くという選択肢は、選択肢として確かに目の前にある。そうすれば自分はマリオンとしてジオをかばって死ぬこともないかもしれない。
だがそれは許されることなのか?
というか。というか、だ。自分とマリオンは恋人同士だったから、マリオンは自分をかばってくれたのかもしれない。その時のことを思い出して胸が締め付けられるが、翻って今の状況を考えると、自分がジオをかばって死ぬ未来に違和感を覚える。
だってそうだろう。今のマリオンは、マリオンであってマリオンではない。たとえ身体はマリオンでも、その魂とも呼べる人格は間違いなくジオだ。マリオンが恋人としてジオを庇ったというのなら、この時間上の自分たちには当てはまらない未来だ。
なぜならマリオンとしてのジオは少なくとも、目の前を歩く男に好意を寄せることなどあり得ないからだ。肉体的にどうであれ、魂が男の自分が男(それも自分)を好きになるなんてありえない。そんなつもりもない。だから自分はマリオンとして生きていても、決してジオと結ばれることはない、ないから恋人として庇うこともないし、つまりその結果命を落とすこともない。
そこまで考えて、はっとジオは息をのんだ。霧雨の中に光を見出したような、そんな晴れやかな考えが浮かんできたのだ。はたと思わず足が止まった。
「――たら――ず――かも」
小さいが、その思いは言葉になっていた。
振り返ったジオが不思議そうに首をかしげる。
「マリオンさん?」
なにか喋ったらしいので、なんとなしに名前を呼んだだけだったが、当のマリオンは俯いて何やらぶつぶつ呟いている。あやしい。
ほんと、なんなんだ、この人は。偽らざるジオの本音だ。出会ってからこちら、ジオの中のマリオンの立ち位置は『とにかくおかしい女』という不名誉極まりないものだった。
そんなジオをよそになおもマリオンは思考の底に沈んでいたが、これまた唐突に顔を上げると、その表情は幾ばくか晴れやかなものになっていた。
「どうしたジオ、早くいくぞ」
などと言い出して、ジオを追い抜いて歩いていく。今度はジオが、小さな背中を見つめる番だった。心なしか足取りがとても軽そうだ。
「・・・・・・なんなんだ、あの人ほんとに」
マリオンという少女のことがますますわからなくなるジオだった。
――もしかしたら、オレ、死なずに済むかも――
そんな希望がマリオンの胸の内に灯っていることなど、ジオにわかるはずもなかった。
帝国の国境を警備している部隊の駐屯地は、規模で言うと村一つに相当するものがある。人数や施設に画一的な基準が設けられていることはないため、その部隊によって様々ではあるが。
ジオの所属するアネー地方のラザール隊駐屯地の場合で言うと、総員は50人ほどで平均的な人数だ。施設とはそれらの人数が寝食し、訓練し、物資を貯蔵するために必要とされる建物などのことを差す。
それらを合わせて村一つ分ということだ。
建物の周りを柵と堀とがぐるりと囲んでいる。柵は樹の幹や枝を交互に組み合わせ、荒縄で縛り上げたものを高さ約2メートル程のものとして立てている。深さ3メートルある堀は幅も同じくらいあって、出入り用の門以外に内部への侵入を許さない。流石に軍事施設だけあって、防備の面ではそこらの集落とは雲泥の差がある。
霧雨のなかを近づいてくる人影に気づいた門衛が、仲間と顔を見合わせる。人影であることに間違いはなさそうなのだが、如何せん霧雨の靄の中ではぼんやりと崩れた輪郭しか見て取ることしかできない。
たとえ盗賊であってもたった2人、脅威と呼べるほどでもないが、一応は門衛の仕事として矛の切っ先を正面に向けて警戒する。
「何者かッ!」
鋭く呼びかける。姿は良く見えなくとも、声は届く距離にある。2つの影のうちの一つが、駆け出すようにその動きを激しくさせる。かけた言葉は別の声になって帰ってきた。
「ま、魔獣討伐に出たエセル様の隊のジオです! も、戻ってきました!」
「エセル様の隊の?」
それは数日前に、ラグー村近郊の森に現れたという魔獣を討伐するために編成された部隊だった、と門衛は記憶していた。騎士兵士併せて20人の部隊だったはずだ。エセルはこの駐屯地に詰めている騎士の1人で、副官としてもう1人の騎士も随行していたはずだった。
しかし20人だ。ほかの兵士たちの姿は見えない。
「お前だけか? ほかの人たちは?」
「それは――」と言いかけたジオが振り向くと、すぐ後ろまでマリオンが追い付いてきたところだった。
門衛が目を細める。見覚えのない顔だったからだ。
「あんなやついたか?」
「さぁ・・・・・・おれは知らんぞ」
「ジオ、こいつ誰だ?」
「えぇっとこの人は」
――なんて答えたらいいんだろう? ジオは的確にマリオンの正体を現す言葉をもっていなかった。何しろジオ自身がよくわかっていないのだ、説明するのは難しい。
ジオのやや後ろまで来たマリオンはふうっと息を吐いて、前髪をかき上げた。霧雨で前髪がぺったりと額にくっついていた。
あらわになった素顔に、門衛たちもドキリとする。べっぴんだ、と言いそうにさえなった。
新兵のジオと、謎の美少女。よくわからない組み合わせだ。
マリオンのことをどう説明していいかわからないジオは、あーだのうーだのと言葉にもなっていない声だけ零している。こいつはダメと見切りをつけた門衛が、仕方なしにマリオンに直接素性を問いただす。
もちろん、それはそれで今度はマリオンが困る番だ。とりあえずジオに吹っ掛けた嘘の身の上を、ここでも披露する羽目になってしまった。
「つまり、お前は旅のもので、水浴びをしていたら猿に荷物を盗られて、探していたら魔獣に襲われているジオを見つけて、ひとりで魔獣を倒して助けた? 全裸で?」
「そ、そう、です、はい」と答えながら、全裸は余計だと叫びたくなる。マリオンはあえて全裸な部分には触れないでいたのに、なぜかジオがそれをばらしてしまった。
「すごかったんです! 服も鎧もつけていない素っ裸なのに、剣一本であのデカい魔獣を倒したんですよ!」
だからハダカを話題に出すな! という怨嗟のこもった視線でジオを睨むも、なぜか興奮気味に話すジオは気づきもしない。
「全裸でなぁ」「全裸でねぇ」門衛が揃って言いながら、じっとマリオンを――正確にはマリオンの身体を見つめて、ゴクリと喉を鳴らす。美少女の裸体を想像しているのだろう。男の悲しい性である。そのイヤラシイ視線に耐性のないマリオンの肌が粟だつ。思わず門衛をねめつけてしまうのも無理からぬことだ。
そんなマリオンの非難めいた視線に気づいた門衛が、わざとらしく咳払いして、改めてジオに尋ねる。
「ということは、エセル様たちは・・・・・・戦死された、ということか?」
事実はそういうことになる。顔を俯けたジオが、小さく首を縦に振った。
「はい・・・・・・オレだけ生き残ってしまって」
「信じられんなぁ、みんな死んだことも、その女が一人で倒したってのも」
「ほ、本当なんです! おれも殺されそうになって、この人がいなかったら、今頃――」
あの時のことを思い出し、そしてもしかしたら現実になっていたかもしれない最悪の結末を想像して、ジオの身体がブルリと震える。出来ることなら二度としたくない体験だった。
「まぁいい、そういうことは司令官殿にお伝えしろ」
こんな門前で長々と説明されたところで、門衛としてもどうすることも出来ない。指揮官だった騎士のエセルが戦死している以上、報告義務を果たすのは生き残りのジオにある。自分が司令官に報告をしなくてはならない・・・・・・という事実に、ジオの表情が目に見えて暗くなる。
「どうかしたのか?」と、さすがにマリオンも疑問に思う。マリオンの記憶にある駐屯地の司令官は柔和な人物だったという印象が残っている。さすがに平民と士族という身分差があるため、親しい間柄であったわけではないが、特段の苦手意識を持つことはなかった。それはジオにとっても同じはずなのだが。
ジオが不安げにまなじりを下げながら、小さくぼそぼそと呟く。
「おれ、あの人苦手なんだ・・・・・・なんというか、おっかなくて」
「おっかない?」
――妙だな、と思う。何かがおかしい。
しかしその違和感の正体を掴む間もなく、ジオは司令官の元へ向かわされ、部外者であるマリオンも魔獣を倒したということで事情を聴くためにジオと同行することになった。
駐屯地の敷地内を懐かしみながら周囲をきょろきょろと眺めてしまうマリオンは、それだけの様子なら年相応の少女のように見える。まりで物珍しいものを見ている子供の様だろう。実際は過ぎ去った過去を懐かしんでいるのだが。
ほどなくして司令官が執務に使用している建物へと通される。藁で葺かれた小屋や、布張りのテントも多い中、司令官の仕事場は木造である。それだけで僅かながらにも力があることが感じられる。
木製のテーブルに書簡を広げている男が顔を上げる。ラザールという目つきの鋭い男だ。
「・・・・・・報告を」
と短く告げる。どことなく威圧感がある。たしかにジオのような気の弱い人間からは怖がられる風貌をしている。
背筋を伸ばしたジオの声が上ずる。ところどころつっかえながら、簡潔とはいいがたい報告を続ける。しどろもどろと冷や汗をかいているジオの斜め後ろにマリオンは立っている。
ジオの説明は5分近くにも及び、その間よほどイラついていたのか、険しい表情をしたラザールが人差し指でなんども机を小突いていた。マリオンも少なからずイラっとしていた。つっかえたりしたというのもあるが、同じことを何度も繰り返し言ったりして、中々話しが先に進まないでいたのだ。
いっそ自分が替わろうかとも思ったが、「い、以上になります!」とようやく報告を締めくくる言葉が放たれて、トントントントンと小刻みに鳴っていたラザールの指の音も止まった。
そして一層厳しく鋭くなった視線がジオに向けられる。そこには怒りすら込められているような気さえしてくる。
ますますジオが身体を硬くさせる。
「簡潔に説明できんのか貴様は」
「す、すみませんッ!」
「まぁ辺境の下民などはこんなものか」
本人を前にして身分階級の蔑称を平然と言ってのけるのは、この男が貴族であるからだが、罵られたジオよりむしろマリオンの心に波を立たせた。下民とは庶民の中でもさらに下々の者、という意味がある。貧民や元罪人、そして辺境の小さな村落の者などを差すことの多い、主に貴族の使う侮蔑の言葉だ。
マリオンはこの呼ばれ方が嫌いだった。というより好んで呼ばれたい者などいない。【宇宙を貪るもの】をめぐる旅を通して世界を知り、たくさんの人々と出会い経験を積んだからこそ、この言葉の醜さをマリオンは思い知らされたのだ。
当の本人であるジオも、傷つきこそするがマリオンほど動揺はない。悔しくはあるけれども、それだけの身分的差があるからだ。良くも悪くもジオはドがつく田舎者なのだ。
「エセルとギュオは戦死したか」ラザールは確認するように呟く。ギュオとはエセルの副官を務めていた騎士の名だ。
「それで――」視線がついと横に移動する。下民と呼んだ男の斜め後ろにいる少女へと。
「貴様が魔獣を倒した、と?」
いかにも怪しそうに尋ねられる。さっきの侮蔑の言葉でささくれだった心情は、その質問に反発しようとしたが、ここの問題を起こすほど世間知らずでもない。言いたいことはぐっとこらえて、「そうです」とマリオンは静かに言った。
違和感がますます大きくなっていく。なにか――何かが食い違っているようなそんな違和感。
「もういい、さがれ」
しばし考え込んでいたかと思えば、唐突にラザールが退出を命じてくる。ずっとハラハラとしていたジオは、ここぞとばかりに返事をして踵を返した。一刻も早く部屋を出ていきたかった。もう息が詰まって窒息死してしまいそうだった。
理由のわからない違和感に付きまとわれているマリオンも、この部屋を出ていくことに否はない。はっきり言えることは目の前の男はマリオンが嫌いなタイプの貴族だということだ。庶民を見下す貴族がマリオンは嫌いだ。同じ空間にいること自体が苦痛だ。数歩遅れてマリオンも部屋を出ていく。
2人分の人間の気配のなくなった部屋に、舌打ちが忌々しく響く。
「奴らめ、面倒な・・・・・・どうしたものか」
それがどういう意味の言葉なのか問う者はここにはいない。