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マリオン、いじめられる




――いまさら何をするということもないだろう。あんな男のために叔父御殿の侍女をいじめさせるのも忍びない。出発までの間、適当に相手をしてやれ。

そう言ってリヒルトに送り出されたものの、内心では憤懣やるかたないものがマリオンにはある。自分の騎士がいじめられるのはいいのか。

もちろんマリオンだって多少なりともリヒルトの考えを読む努力はした。ラザールは自身の不正を暴かれた最初のきっかけを、マリオンにあると思い込んでいる。


マリオンが魔獣を倒したから。


マリオンが駐屯地に来たから。


マリオンが刺客を撃退したから。


マリオンが偽の封書を届けたから。


マリオンがリヒルトを連れてきたから。


リヒルトの命をマリオンが救ったから。


それらの積み重ねが自分自身の栄達に暗い影を落としたと、そう逆恨みしている。それは果てしない憎しみと同時に、強烈なまでの苦手意識をラザールに抱かせたはずなのだ。

決定的な挫折の象徴ともいえるマリオンは何としても拒絶せねばならない対象である。そのマリオンをあえて侍女として傍に置かせるのには、『余計なことを考えるなよ』という警告の意味をもっている。

そこまではマリオンにも理解できる。ようはラザールを監視するのには、マリオンを侍女に仕立て上げるのが手っ取り早いということなのだろう。

そんな裏事情、当の本人にとっては迷惑至極でしかないのだが。

ただリヒルトにも読み切れなかったものがあった。


――パシャッ


マリオンの身に着けているエプロンに、熱湯のお茶が無慈悲にかけられる。もしも素肌であれば火傷をしてしまうほどの温度だ。幸いエプロンが大半を守ってはくれたが、それでも多少の熱がマリオンの胸に広がる。

空になって湯気を上らせるカップを片手に、冷たい視線がマリオンを見つめる。


「こんな不味い泥水を、私に飲めというのか?」


吐き捨てるようにラザールは言った。カップには口をつけた形跡はない。

盆を手にするマリオンは、思わず激昂してしまいそうになる口元をぎゅっと結んで、言葉が飛び出さないようにするので精いっぱいだ。


「まったく、どうしたら茶を泥水に変えられるんだ、この下民は。まったく信じられんな」


侮蔑もあらわにラザールが吐き捨てる。


「所詮は下賤な女だな」

「――ッッッ」

「ん、なんだ? なにか言いたそうな顔をしているな? 下女の分際で、この私に逆らうというのか?」


斬りたい。斬ってしまいたいッ!!

マリオンの心は決して広くない。ましてや大嫌いな人間からこんな仕打ちをされて、黙っていられるような性分でもない。

しかし形の上ではマリオンは、ラザールの侍女である。逆らうという不敬は許されない。

父親の助けを得られた事で無罪放免になったと解釈したラザールの中にあったマリオンへの憎しみは、苦手意識をも凌駕して膨らんでしまっていた。リヒルトが考えていた以上に、ラザールと言う男は単純な人間だった。もはや恐れるものなどなにもないとばかりに、立場の弱いマリオンをイジメるようになるのに、そう時間はかからなかった。


「謝罪も言えんのか」

「――ッ申しわけ、ありませんッ」


マリオンの唇は震えている。怒りを抑えるあまり、言葉が波打っている。

しかしそれがラザールの優越を刺激する。恨み骨髄のマリオンを支配しているというのは、なんとも気持ちの良いものなのだろう。


「もういい下がれ。貴様がいたら空気までドブ臭くなる」


わざとらしく鼻を押さえる仕草をされ、マリオンは髪が逆立ちそうになるのを我慢して、「失礼します」と退室するためにドアを開ける。

だが直前、後ろから「ああまて」と呼び止められる。


「私の騎士を連れてこい、いますぐに」


マリオンは少し迷った。ラザールに勝手なことをさせないためのお目付け役として自分が配されたのだから、ここは断るべきだろうか。


「・・・・・・なぜです?」


仕事として当然のようにマリオンは尋ねるが、それに対して憎らし気な視線が返ってくる。


「貴様が知る必要はない、いいから連れてこい、この愚図がッ!」


頭に血が上る。吹き飛びかねない理性をかき集めて、「わかりました」となんとか応える。ふんっという鼻の鳴らされる音を背中に、今度こそドアを閉める。

閉じた扉の向こうで、ラザールの下品な笑い声が聞こえてくる。

ドアを握るマリオンの手がブルブルと震える。俯いた顔はなかなか上がらない。

そこへ運がいいのか悪いのか、リヒルトが通りかかる。リヒルトはラザールの部屋の前で俯くマリオンの後ろ姿を見かけて、おやと首をかしげる。


「マリオン、どうし――ッ!?」


言葉が飛んだ。振り向いたマリオンは、まさかの涙目になっていたからだ。おおよそ涙とは無縁そうな女が、涙を浮かべている。


「・・・・リヒルトォォ・・・・・・」


もはや敬称すら置き去りにして、マリオンの声は震えていた。


「いつだ!!」

「――は?」

「いつ出発するんだと聞いているッ!!!」


詰め寄って詰問するマリオンには余裕などどこにもない。前回の旅でも、ここまで屈辱的な思いをしたことなどなかった。悔しさと情けなさで涙をこらえることも出来ず、主人であるリヒルトを無遠慮に睨み上げる。

もとがかなり美人の部類に入るマリオンに睨まれ、すこしだけたじろいだリヒルトは、ついっと視線をドアに向けた。

マリオンがいじめを受けていることは承知していたが、まさかここまで追い込まれるとは。


「陰湿そうなやつだものなぁ」

「あの野郎、毎日毎日ネチネチネチネチとッ! いっそ手でも出された方が百倍マシだ! そうすればやりかえせるのにッ!」


直接的な危害を加えるようなことは少ないが、執拗に精神的に追い詰めてくるので質が悪い。必ず部屋の掃除には難癖をつけてくるし、せっかく入れた茶を目の前で捨てられた挙句、それを掃除させられたり。先ほどはアツアツのお茶をぶっかけられた。そしてそのたびにこちらの人格や人間性を全否定するような攻撃をしてくる。

あれでは確かに並みの侍女では耐えられないだろう。まぁマリオンももう限界なわけだが。

ラザールの侍女になって2日、マリオンはずっと責められ続けている。どうでもいいようなことで呼び出され、責められ、それをずっと繰り返しているのだ。

ふむ、と顎に手を添えて考え込むリヒルトが、絶望的な宣告を下す。


「わからん」

「はっ?」

「だからわからんのだ、出発がいつになるのか」


その言葉の意味がマリオンには理解できない。


「な、なんで・・・・・・」


当初の話しでは、物資の調達がすみ、騎士たちの慰労が済めば出立と聞いていた。精々4日から5日程度だと。

だからマリオンも耐えに耐えたのだ。

だがリヒルトの口から出てきた言葉は、その前提を大いに覆すものだ。


「ラザールの罪状は実家のちからでほぼなかったものにされてしまったが、それでも我々のラザールの護送の任が解けたわけでもない。少なくともやつがここにいる間は、我々もやつを監視しなければならない」


そういうリヒルトも困ったというようにため息をついた。


「ところがだ、やつの父親であるバーツラフ卿は、どうやらこの機会に我らアデイラ家と誼を通じたいらしく、何かと叔父御殿をもてなそうとしている」

「そ、それって、つまり」

「ああ・・・・・・やつらが帰途につかない限り、我らも出発できない、ということだな」


まったく困ったものだ。そんなリヒルトの言葉が遠くに聞こえる。それではこの地獄はいつまでも続くということではないか。

終わりが遠のいていき、目の前が真っ暗になる。こんな絶望、そうそう味わえるものではない。

これならまだ、かつての旅で戦った強大な力を持った魔獣と戦っていた時の方がまだずっとマシだ。

膝から崩れ落ちそうな感覚がしてきた瞬間、ドアが勢いよくあけられる。


「おい、いつまでそこで騒いでいる!! さっさと呼びに行け、この役たッ――」


怒鳴るラザールだったが、リヒルトの姿に気づいた途端、言葉を失った。

にっこりとリヒルトが笑みを浮かべる。


「やあやあ三男殿、お元気そうで何より」


ニコニコと柔和な表情で近づく。しかし目元が笑っていない。


「どうやら私の部下を気に入っていただけたようで、毎日可愛がってくれているようだな」

「な、なんだよ・・・・・・」


先ほどまでの勢いなどどこにもなく、顔を引きつらせる。

より一層強く笑みを深めるリヒルトが、ラザールの肩に手を添える。

そして耳元で、ぼそりと囁く。


「父上の努力を無駄にしないよう気を付けたまえよ、男爵の三男殿。――私も侯爵家の人間だということを忘れずに」


それはどこまでも冷たく重い一言だった。静かでありながら、首下に刃を押し当てられているような、そんな錯覚にラザールの面が青くなる。

沈黙したラザールから距離をとったリヒルトが、今度はマリオンの背に声をかける。


「なにか仕事があるのだろう? いきなさい」

「あ、はい」


そうだ、ラザールの騎士たちを呼んでこないといけないのだ。

そのこと自体はあとでリヒルトに報告するとして、とりあえずやるべきことはやらねばならない。やりたくはないけど。

しかし出発がいつになるかわからない・・・・・・。その事実がマリオンに重くのしかかる。


――このままでは胃に穴が空いてしまう。




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