バーツラフ
足音が一歩ずつ増やされるたびに、ラザールの気持ちは途方もなく沈んでゆく。考えることに疲れ果て、絶望することにすら疲れ果てた。しかし諦観しきったつもりでもまだ心は落ち続けるようだ。
逃げ出すというのも一つの手ではあろうが、両脇を屈強な騎士に挟まれてはそれも望み薄だ。鍛錬を怠っていた自身がこの騎士2人を相手に勝てる算段など立てられない。
先頭を歩くリヒルトを人質に取ろうにも丸腰ではどうしようもない。リヒルトは腰に剣を差しているのに、どうこう出来るわけもない。
アベルの心臓部であり行政機能の集約する館は、領主の居館でもある。その大きさは騎士の館などよりもはるかに巨大だ。
タイルを敷きならべた廊下をもうどれほど歩いたか。館に到着してからここまで、すでに数時間は歩いたような気もする。実際はもちろんそこまで時間が経ってるわけもなく、精々数十分経過したかどうかという程度であろう。
足が重い。どんどん重くなっていく。だが少しでも歩調を乱せば、左右の騎士どもがせっついてくる。ひたすら足を前に出すしかない。まるで断頭台に進んでいる気分になってくる。
はたとリヒルトが立ち止まる。それに合わせて騎士たちも止まる。そうなるとラザールも歩みを止めざるを得ない。
「さぁ着いたぞ」
とある木製の扉の前でリヒルトは立ち止まった。扉は白く塗られ染み一つない。扉の両側には衛兵がそれぞれ警護についている。陰のある表情でラザールは扉を見つめた。
――ホルスト・アデイラが、ここに。
「リヒルト・アデイラだ」
リヒルトが名乗ると、それだけで衛兵たちは背筋を伸ばして扉を開ける。ただそれだけのことで、ラザールは足裏で床に張り付いてしまったような錯覚がした。入室していくリヒルトとラザールとの間に感覚が広がる。ラザールは前に勧めないでいる。入りたくなかった。騎士が半ば無理やりラザールを前に押し出して部屋へと入れた。
部屋は広いが、それに見合うだけの調度品が揃っていないように感じられる。殺風景と言っていい。机がある。椅子もある。しかしそれ以外には何もない。領主の失政室かと思い込んでいたラザールはその部屋を寒々しいとさえ感じた。
だがそんな部屋で、館の主であるホルスト・アデイラ伯爵の声は暖かかった。
「リヒルト、待っていたぞ」
「お久しぶりです叔父御殿。変らずお元気そうで」
「おお元気だとも」
そう言ってホルストは大いに笑ってリヒルトを出迎える。もみあげと繋がった髭はまるで魔獣の下あごのように雄々しいが、笑顔は屈託なく朗らかだ。背はリヒルトよりも幾ばくか高く、肩幅もがっしりと広い。ラザールと比べれば頭一つ分は違うだろう。
アネー地方最大の街を領し、国境地帯を守る武人の貫禄がある。ホルストが領地の跡目を継いでからすでに30年余り経つが、その間にこの地域では反乱など起きたためしは一度もない。その一方でアネーの最大勢力として夜盗などの取り締まりに目を光らせてきた。アデイラ一門の武威を体現したような男だ。
「随分と精悍な顔つきになったではないか」
「駐屯地を5つも任されれば、こうもなりますよ」
「言うようになった。結構なことだ」
リヒルトがもう一人の男を見る。
「こちらは?」
「ああ」
ホルストが言葉を濁す。叔父と甥の再会を静かに見守っていた痩身の男が、数歩歩み寄ってくる。
「さすが卿ご自慢の甥御殿。逞しくらっしゃる」
至極穏やかな調子で男はリヒルトの印象を語った。そこには嫌味たらしさはなく、持ち上げようとする卑しさもない。
男のその声に、入室してからずっと俯いていたラザールが顔を上げた。
「父上!」
ラザールの発した言葉に、リヒルトもわずかに目を見開く。
――父上だと? ではこの男が・・・・・・。
まじまじとリヒルトは、ラザールが父と呼ぶ男の顔を見つめた。
「お初にお目にかかりますな。私はバーリの地頭を任されております、バーツラフと申します」
そういって男は帝国式の礼をとる。所作は洗練されていて、毎日その動作を繰り返しているのだろうことが伺える。その腰の低さは騎士らしい勇ましさとは真逆の、商人的な気質をも垣間見ることが出来た。
「・・・・・・リヒルトです。よろしく」
言葉少なに礼をとると、ふむ、とバーツラフの目が細められる。
「良い青年ではありませんか」
向き直ってホルストにそう微笑みかける。本心から言っているようにも聞こえるが、内心がどこにあるのかリヒルトには窺い知ることが出来ない。
人の表情や声の調子、所作などの機微でその人間が何を考え、動揺しているのかを知る術があり、それはリヒルトも相応に身に着けているのだがバーツラフからは真意を読み取ることができない。武人の強みとはまた違う種類の力強さが感じられた。
只者ではないとリヒルトは腹の底に胆力をこめる。しかしそうしてリヒルトが警戒心を抱くほどの男であるのに、後ろで項垂れていたはずのラザールは途端に喜色を浮かべて前へ出ていた。
「迎えに来てくれたのですね、父上!」
ラザールにしてみれば、そういうことなのだろう。不当に貶められ裁判にかけられようとしている息子を、父が救いに来てくれた。そういう筋書きがラザールの頭の中で楽観的に組み上がっているらしい。そして、それを事実として疑うこともしていない。
はたしてこのバーツラフと言う人間が、そこまで甘いものであろうか。リヒルトは疑問に思いつつもラザールに呆れていると、父が子の頬を叩く音が部屋に響いた。
バーツラフがラザールの頬を叩いたのだ。
「この馬鹿者が。余計なことをしてくれて」
たしなめるように、吐き捨てるように、罵倒するように、そのすべての感情をこめてバーツラフは自らの息子を見下ろした。
頬を押さえたラザールは自分が何をされたのか、理解できてないように呆然としている。
呆ける息子を無視して、バーツラフはリヒルトの方を向いた。
「愚息がご迷惑をおかけし、面目ありません」
己よりずっと年下の青年に謝罪することに、躊躇う様子は見られなかった。
「事情を知っているので?」
リヒルトに尋ねられたバーツラフが瞳を伏せる。
「裁判院から通知がありましたので。息子が軍事費を着服し、報告義務を怠るなどの職務怠慢、軍規違反、はてはそれを問いただした貴公に刃を向けたと」
たしかにそれがラザールの罪状であり、リヒルトが裁判院に提出した提訴状の内容そのものだ。
裁判を司る裁判院から通知が届いて、すぐにバーツラフは動いた。ここへ来たのは間違いなく、ラザールを迎えに来たということなのだろう。誠実そうに見えたこの男が、ラザールの罪をカネで解決したのだ。保釈権をもぎ取り、あるいは裁判官をも買収しているかもしれない。
おそらく裁判自体は行われるであろうが、量刑は限りなく軽くなると思われる。精々が官職のはく奪と言うところだろうか。中央に戻りたがっているラザールにしてみればそれだけでも大いにダメージとなるだろうが。
「悪く思わないでいただきたい。我が家にも体面がありますので」
バーツラフはそう釈明する。わからなくもない、という気持ちがリヒルトにはあった。それはこういうことが決して珍しいことではないからだ。財力のある家が裁判院を買収するということは、よく行われていることだった。罪科をつけられるくらいならばそうしたほうがマシという風潮がある。
こうなるかもしれないという考えはリヒルトも抱いていたから、そのことに関して忸怩たる思いというものはなかった。やはりこうなったか、という諦観にも似た感慨があるだけだった。
神妙にした様子のバーツラフは、イスに立てかけていたバッグを掴むと、それをリヒルトに差し出した。
「これは」
「ご迷惑をおかけしたのです。手ぶらと言うわけにはいきますまい」
――困ったな。
リヒルトは横目で叔父の方を見た。好きにしろ、という返事が返ってくる。
ようはこれで全て手打ちにしてほしいということなのだろう。中身は黄金か銀であろうか。慰謝料としては十分すぎるほどだ。
受け取るもう受け取らないも、それはリヒルトの胸三寸だ。バーツラフとしてはなんとしても受け取って貰いたいだろう。これで貸し借りなしにしたいのだから。あとはリヒルトの気持ちの問題であった。
しばし逡巡して、リヒルトは、バッグを受け取った。これが政治というものか、という諦めもあった。断れば自分は、この男との間に軋轢を生むしかない。そうしてまで意固地を貫くわけにもいかない。アデイラという名を背負う以上、リヒルト自身も軽挙妄動は慎むしかなかった。
「二度とお互いの間に、このようなことがないことを願っています」
リヒルトはそういい、バーツラフも頷いた。つまり二度目はないということだ。それでこの問題は落着となった。
部屋を辞した父子は、無言で帰りの廊下を歩いている。ラザールはこのまま実家でありバーリヘ戻されることが決まっていた。そこから改めて帝都の裁判院へ出向くことになっている。
ラザールは俯いたままトボトボと歩いている。駐屯地にいた時のような居丈高な雰囲気はまったくない。父が迎えに来たのだと知った時の喜びもない。ただ黙って父の後をついていくだけの人形だった。
「・・・・・・この馬鹿者が」
ぼそっと呟かれた言葉に、ラザールが肩を跳ねさせた。
「父上」
「よりにもよってアデイラに喧嘩を売るなどッ。戦争にでもなったらどうするつもりだったのだ!」
「し、しかし父上ッ」
「お前は昔からそうだ。やることなすこと中途半端で詰めが甘い。だから中央でも失敗するのだ。せっかく私が官職を与えたというのに、お前と言うやつはッ」
ラザールが中央で官職につけたのは本人の努力や功績ではない。すべてバーツラフがお膳立てしたものだった。役職に実力が伴わなかったくせに権力を志向したために、辺境へと左遷させられたのが事の次第であった。
そういう意味ではそのこと自体はバーツラフの落ち度でもあったのだが、バーツラフも中央で働く貴族として相応の野心はある。そのためにラザールを中央へ送り込んだのだ。またそうさせたのは、ラザールの兄弟たちの存在もあった。
「兄たちはみな上手くやっている。なぜお前はそうできんのだ」
ラザールには2人の兄がいて、彼らもまた中央で官職を得ている。兄たちは才覚があったのか、徐々に実力をつけ始めていた。
「お前を送ったのは失敗だった。私も事を急いていたのかもしれない。お前はもう中央へは復帰できまい。大人しく領地の経営に力を尽くせ」
それはラザールにとって死刑宣告にも等しい断罪だった。
「父上、私はッ!」
立ち止まって叫んだラザールを、鷹のように鋭い視線が射抜き、ラザールは息を飲んで立ち竦むしかなかった。
「もう何もするな」
それだけを言い残してバーツラフは再び歩き出した。ラザールはしばらく身動きも出来ず、呼吸さえ忘れたように、己を失っていた。




