ラザールの怨嗟
すでに戦闘はあらかた収束の兆しを見せていて、金属同士が擦りあう鍔迫り合いの甲高い音すら聞こえてこない。転がっている死体はほとんどがラザールの騎士ばかりで、まれにリヒルトの部下のものもありはした。
しかし思いのほか死者の数が少ない。そう感じたマリオンに、「それがよぉ」とグリフがおかしそうにくつくつと笑っている。
「敵わないと判断したのか、さっさと剣を捨てて命乞いするやつがいたんだよ。仮にも騎士がだぜ?」
騎士とは言え人間だ。主人に対する忠誠の訓示をそれなりに受けはしても、死への恐怖を拭い去るのは簡単ではない。それを乗り越えて剣を握り構えるのが騎士である。騎士は主人とともにあり、共に戦って共に死ぬものとされている。それこそが税の代わりに徴兵される兵士や、金で雇われる傭兵との最大の違いである。命乞いをする騎士と言うのは、まったくいないとも言い切れないが、まずいないと言っていい。
それをラザールの騎士たちは、1人ならず複数人が忠誠を捨てて剣を投げたというのだから、もはやせせら笑うしかない。
騎士としての覚悟が足りていない、といえば正にそれに尽きるだろう。
「それはもう騎士とは言えないな」
マリオンの率直な感想に「だよなぁ」とグリフが同調して見せる。
「忠心より先に損得が来るってのは、ラザールが好きで仕えてるわけじゃねぇってこったな。とりあえず騎士やってれば美味い酒が飲める、その酒に忠誠心がすっかり薄まっちまったんだろうさ」
それはもはや騎士と言うより傭兵の考えに近い。ただ雇われているだけの騎士。それは騎士と呼べるのだろうか。
「グリフさんはリヒルト様のことが好きで騎士をやってるんですか?」
ジオの問いにうーんと唸りながら、グリフは曖昧に答える。
「自分でもわかんねぇなぁ。少なくとも信頼に値するお方だとは思う。部下思いだし、行動力も決断力もある。強い方だ。ただこの人のためなら喜んで死ねるかは、その時になってみないとわかんねぇ。けどよ」
と言いかけて、道行に転がっているラザールの騎士の躯を一瞥する。
「少なくとも戦場で命乞いはしないだけの気概はあるつもりだぜ。そういう意味じゃあ死んでいった奴らは、弱いなりにちゃんと騎士だったってことだな」
「そういうものなのかな・・・・・・」
「どうしたどうした、難しい顔して」
自分の右腕――剣を握っていた手を見つめるジオの表情は幾ばくか暗い。手には感触が残っている。闇雲にふるった刃が、敵の肘の薄いの肉を裂き、筋を絶ち、骨を砕いて両断する感触。やわらかく、硬く、そして振り抜いた瞬間の拍子抜けするほどの軽さ。それは小街道でマリオンを助けるために突き刺した刃の感触とも違っていた。
もう一つの、殺した感触。騎士でもない自分は、何のために戦ったのか。生き残るため、ただそれだけのため。死なないため、ただそれだけのため、自分は自分のために人を殺した。
それが兵士だというのなら、こんな恐ろしい役目は嫌だ、とさえ思ってしまう。それを簡単に行えてしまうマリオンやグリフが、少しだけ恐ろしく感じる。
そんなジオの葛藤は兵士として失格なのかもしれないが、それもいつかは慣れるのか。嫌だ、と思う。慣れることさえ怖い。
マリオンにはそういうジオの苦しみが手に取るようにわかる。わかるのだが、どう声をかければいいのか、それがわからない。記憶の中のマリオンもこういう時は言葉が少なかった。ただ、何かを言わねばならないという気持ちだけはあった。
「ジオ、自分が生き残るために戦うことは、決して悪いことじゃない。そうしないと自分が死ぬのなら、戦うしかないじゃないか」
この言葉は以前にも投げかけた言葉だ。なんてこともない慰めの言葉だが、大いに真理でもある。殺すか、殺されるか。それだけのことだ。
「そうそう、それにお前さんは命乞いしなかったんだろ? 立派だよ、ただの兵士にしとくのは勿体ないくらいだ」
「それは誉め言葉なのか?」
「褒めてるぜ? お嬢さんも殺ったのかい?」
「1人な」
「へへっ、べっぴんの割にお強いことで」
「・・・・・・なんかバカにされているようで不愉快だ」
どうにもこの男の軽口は琴線に触れて仕方がない。
辺りに散っていた兵士たちも、静かになったことでそろそろと戻り始めている。
ラザールは敗軍の将よろしく、剣を投げて命乞いをした騎士らとともに地面に跪いている。生き残った騎士は5人、所在なさげに肩を小さくして身を寄せ合っている。その周囲をリヒルトの騎士たちが包囲していて、逃げ道はどこにもない。
「哀れだねぇ」とグリフが小さく洩らす。たしかに今のラザールには、あの威張り散らしていた時の居丈高さはすっかり鳴りを潜めていて、みすぼらしい雰囲気すらある。
ラザールの前に立ったリヒルトは、己の騎士剣を肩に担いで、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「騎士たちの調練が足りていないようですなぁ、三男殿」
ほとんど損害のないリヒルトの騎士たちは、その多くが返り血に濡れている。きっとリヒルトには悪鬼が列を為してそびえる壁のように見えることだろう。
「さて」とリヒルトが呟くと、傍目にもわかるほどラザールの身体が震えた。
「これほどの騒動を起こしたのだ、罪はさらに重くなると心得よ」
「・・・・・・にが」
「ん、なにか?」
「何が問題だというのだ! 軍資金ぐらいが!」
目を剥いたラザールが吠える。口角をこれでもかと広げて、唾を吐きだしながら。唐突な主人のヒステリックに騎士たちまでもが驚いているが、リヒルトはどこ吹く風で瞳の温度を若干下げた。
「問題しかないだろう。国境警備は帝国の大事だ。そのために必要とされる資金を着服するなど、帝国を危機に陥れているのと同じ、つまり反逆と同義だ。もし魔獣が大量に発生したらどうする、隣国が攻めてきたら? それにそなえるための――」
「そんな事態があるものか! この十数年、隣国と戦争になったことなど無いではないか! それより私が中央へ戻ることの方がはるかに重要だ! 私はハルツ男爵家の生まれだぞ!? 中央の政治にも関わる家柄だ! それがこんな辺境の田舎に追いやられるなど、間違っている!」
息継ぎもせずに勢いに任せて流れ出る言葉には、焦り、怒り、自尊心がない交ぜになって滅茶苦茶な声音となっていた。相変わらずリヒルトは白けているが、そんなことはもうラザールが気にすることではなかった。止まることのない激情は、途方もない憎しみに化けている。
「私は戻らねばならないのだ! こんなところは私の居場所ではない! 私に相応しくない! そうだ、こんなところは貴様のような無能な五男が任されていればよいのだ! 私は違う、違うチガウウゥ!!!」
叫べば叫ぶほど、悲痛なまでに理屈から頭も尾も切り離されていく。中央へ、華やかな権力の中枢へ、そこへ返り咲くことへの妄執だけがラザールの内を満たしている。それしかない。それをリヒルトは冷たく、惨めに見下ろしている。無様だとかそういう感想はリヒルトにはない。そう感じられるような哀愁がラザールからは感じられないのだ。
ただただ権力に固執しているだけ。権力争いに敗れてこの辺境に流されてきた愚かな男。
しかし、と思う。
「だから貴様は無能なんだよ」
リヒルトが吐き捨てる。
「ここは辺境の田舎だが、国境に面している。そこの警備は帝国にとって重要な仕事だ。我々は平和の最前線に立っている。それを理解せず蔑ろにして左遷の先にしている中央の連中も気に入らんが、そこで真面目に実績を積み上げようとせず不正に横領して貢いで這い上がろうとするその精魂が気に入らん」
「貴様だって流された身だろう! 誰が好き好んでこんなところへ来るものか! 貴様だって本当は賄賂を贈っているに決まっている! そうに決まっている!! 貴様はただ我が一家を陥れたいだけだ!」
「一緒にしないでもらいたいな、三男殿。我がアデイラ家は誉れ高い武門の家、その子息は地方の基地で叩きあげられるのが当家の習わしだ。貴様とは境遇も違えば覚悟も違う。私はこの役目に誇りを持っている」
「ならば貴様だけここで朽ち果てればいい! 私は戻る! 戻るのだ!」
「それはできないよ三男殿。私は貴様を裁かねばならん。アデイラ家の人間の誉れとして、私は軍律に従い膿を出さねばならない」
「わたしはぁッ!!!」
もはやラザールは発狂する一歩手前まで己を失いかけている。何がどうあってもリヒルトに従う気はない。従うわけにはいかない。戻らねばならない。こんな野と森しかない辺境から、煌びやかな帝都へと――
これ以上は無駄であると断じたリヒルトが、ジオとマリオンを呼ぶ。リヒルトにいちいち呼ばれるたびにジオは緊張している。それを見るたびマリオンは額を押さえて俯きたくなる。もう少しシャキッとしてくれと言いたいが、過去の自分もこうだったのかと振り返るとそうも言えないのが悲しい。
リヒルトは白紙の紙をひらひらとそよ風に揺らしている。
「お前たち、この男が貴様らに虚偽の封書を持たせたことは間違いないな?」
不意にそんなことを問われ、キョトンとしているジオの横腹をマリオンが小突く。一応立場としてはマリオンよりジオの方が上なのだ。ジオが応えねばならない。
これは裁判官が罪人の罪を詳らかにするための儀式。ジオの返答はそのすべてがラザールの不義を証明するものとなる。白紙の封書は虚偽の報告の証拠、ジオはその生き証人だ。
慌てながらジオが「あ、そ、そうです!」と声を詰まらせながらも応える。
「魔獣討伐の際、従軍して生き残ったのも貴様だけだな?」
「あ、はい、そのときはこっちのマリオンさん・・・・・・という人が助けてくれたので、なんとか魔獣を倒すことが出来ました」
リヒルトはその証言を受けて、確認をとるようにマリオンを見やる。「間違いないか?」という質問に対する答えは「はい」の一言しかない。実際すべてがその通りだ。
「多くの戦死者が出たと聞いたが間違いは?」
「えっと・・・・・・ありません。おれ以外はみんな死にました・・・・・・」
「と、いうことだが」
リヒルトがつま先を鳴らす。ジャ、ジャと土を蹴る音が繰り返される。
「そのような重大な報告すら私は正式に受けていない。本来ならば書面で表すものだぞ。それも怠っている」
ラザールは叫ぶだけ叫んだせいか、声を出すことが出来ないでいる。あえぐように声を絞るが、焼け付いた声帯が音を出すことはない。それ以前に言い返せる言葉がもうなかった。報告をしなかったのは、自身の評価に関わるから。それを知られたくないがために、生き残りのジオとマリオンを殺害しようとしたことが、巡り巡って自らの首を絞めることになるなど、頭の片隅で欠片ほども想像していない未来だった。
この結末はラザールにとって信じられない、信じがたいものだ。すべて上手くいくはずだったのだ。なぜこうなった? リヒルトの口上を聞き流しながら自問自答する。ジオが生き残ったことがいけないのか、マリオンが魔獣を倒したことがいけないのか、マリオンが駐屯地にいたことがいけないのか、白紙の封書か、騎士に襲わせたことか――
「貴様は損害を出したことすら隠ぺいしようとした、ということになる。そんなものをこれ以上私の指揮下にいれてはおれない。横領して賄賂も送っている。職務を放棄し、私利私欲に奔る。度し難いことこの上ない。まだまだ余罪もあろう。まずは牢にいれて――」
と、そこまで言いかけた時だった。貴族騎士が礼装のとき儀礼的に装備している懐剣、それをラザールは抜いていた。護身用程度の小さなものだが、それでもそれなりに殺傷力はある。煌びやかな装飾を施されたそれが、ラザールの掠れた雄叫びとともにリヒルトの懐に吸い込まれていく。衝動的にラザールは動いていた。リヒルトが消えればすべては闇の中へ葬り去ることが出来る。それしかラザールにはない。
意表、あまりに意表を突いた動きだった。傍らの騎士たちが制止することもできず、グイードらも初動が遅れるほど、いきなり。
耳に刺さる音が響く。唯一反応したのはもっとも身軽で軽快に動ける少女――マリオンだけが辛うじて動いていた。ギリギリである。ようやくの距離でマリオンは短剣の刃を片手剣で弾くことが出来ていた。マリオン自身、背筋の凍る思いのした瞬間だった。間に合うかどうか、とすら思っていた。無意識に近い反射的な行動であったが、それでもリヒルトの胸を刺される事態だけは免れた。
どちらも勢いよく飛び出したため、互いにぶつかり合いもんどりうつ。受け身も取れず背中から倒れたマリオンは傷みでしばらく動けなかった。
わっと動き出したのはリヒルトの騎士たちだ。グイードがリヒルトの前に立って剣を構え、数名の騎士がラザールを抑え込んでいる。ラザールの騎士たちは敵意がないとばかりに両手を上げている。
「マリオンさん!」
慌てて駆け寄ってきたジオがマリオンの身体を抱き起す。背中の傷みがじわじわと全身に広がっていくようで、うっすらと開いた視界ではチカチカと何かが煌めいている。ぼんやりと映り込んだジオの表情はとても心配そうだった。
「大丈夫!?」
「うっ・・・・・・まに、あったか?」
「ああ、間に合った」
応えたのはリヒルトだ。リヒルトも一瞬なにが起きたのかわからないでいた。気が付いたらマリオンがラザールにぶつかりに行っていたのだ。リヒルト自身が反応できなかったものに対応してのけた少女に、感謝するように微笑んで見せる。整った顔立ちの笑みは女性であればとろけてしまうだろうが、生憎マリオンには効かないが。
とりあえず無事なようで安心したマリオンは、予想外の暴挙に出たラザールを見やる。目が合った。憎しみに染まり切った形相と瞳で、地に組み伏せられたラザールがマリオンを睨みつけてくる。
「きさ、まだ・・・・・・!」
それは怨嗟の呪言だ。
「貴様が来てからッ、なにも、かも、おかしくなって――! キサマのォッ」
それは言いがかりに等しいが、ラザールにとっては真実だった。マリオンが魔獣を倒してジオを助けたから、マリオンが小街道で騎士たちを殺したから、マリオンが偽の封書をリヒルトに届けたから――!!
ラザールは極まった感情の末に悔し涙を流して、何度も繰り返す。キサマが、キサマが――
糸の切れた人形のように力を失い、騎士たちに担がれてラザールは牢へと送られていく。それをマリオンはただ黙って見つめた。なんという感情も起きない。かわいそうだとも思わない、憎いとも思わない。何もない。ただこの騒動が収まって、ようやくほっと胸を撫で下ろす気分だ。
いや、ひとつだけ、ラザールへ向ける言葉がある。
「・・・・・・おれにとっては、お前こそいちゃいけない存在なんだがな」
その言葉は小さかったが、傍らで聞いていたジオにはまったく意味の分からない言葉でしかなかった。