ラザールの封書
「あぁぁ・・・・・・・なんでこんなことに」
その言葉が吐き出されるのもこれで3回目だ。最初は鉄格子にしがみつきながら、2回目は牢屋内をぐるぐると練り歩きながら、そして今は隅っこで膝を抱えて。5人も入れば手狭になる程度の広さしかない独房で、そこだけが一際ほの暗さを増している。このまま放っておいたら頭にキノコでも生えそうだ。
牢屋はずいぶんと頑強に作られていて、とても破壊して逃げ出すという算段は立てることも許さない。レンガ積みの壁をさらにセメントで塗り固めている。明り取りの窓は極めて小さく、小柄なマリオンでも通り抜けることはできない。
捕えた賊や問題を起こした兵士を閉じ込めるための建物なのだから、脱走目的で破壊されないよう頑丈なのは当たり前だ。それがジオには絶望的だった。
さすがにこう陰気臭くされていては同居人であるマリオンも気が滅入ってくる。
「もう少し大人しくしろよ、今さらクヨクヨしたってしょうがないだろ」
「なんでそんな冷静でいられるのさ・・・・・・牢屋だよ、逮捕されたんだよ、罪人なんだよ・・・・・・」
「別に取って食われるわけじゃない――たぶん」
「ほらその『たぶん』が怖いんだってば! なんでさっきから言うこと全部『たぶん』なの!?」
独房に入れられたばかりの頃こそジオを落ち着かせるためにあれこれと慰めていたマリオンも、現状に関して不安がまったくないわけではない。前回の記憶においてもこんな展開はなかったから、今後どうなるかは皆目見当もつかないのだ。ただ少なくともリヒルトという人間の人柄に関してそれなりの信頼を寄せてはいるので、そう酷い事態にはならないだろうと踏んでいるに過ぎない。それでも確証がないから、どうしても語尾も弱気になってしまう。
「騎士を倒したのは正当防衛だったんだ。戦うしかなかったのはお前だってわかってるだろ」
「そうだけど・・・・・・そうだけどぉ」
それでもこうして牢屋に入れられていると、どこか気の弱いジオには堪えるものがあるらしい。
「そうか、お前は牢屋に放り込まれるのは初めてだもんな」
「・・・・・・マリオン、さん? もしかして逮捕されるの、これが初めてじゃないの?」
「・・・・・・むかし、いろいろあって」
じっと見つめられ、マリオンが顔をそむかせる。
「い、いいじゃないか別に、もう昔のことなんだし」
あまり思い出したくない記憶に声のトーンが下がる。たしかに投獄されるのはこれが初めてではないが、前回のそれは決してやましい罪によるものではない、と今でも信じてはいる。必要なことだったからと何度も自分に言い聞かせてきたし、結果としてそれは正しい選択だったはずだ。
そうだ、昔のことなど今はどうでもいい。肝心なのはこれからだ。これから先の展開は未来を知っているはずのマリオンであっても予期することができないのだ。はっきり言って事態はマリオンの予想を大きく外れてしまっている。顔や態度にこそ出しはしないけど、内心では不安を感じている。なぜこうまで不測の、起こりえない出来事が立て続けに起きるのだろうか。
――オレの行動が、未来を変えているのか。そう考えたことはあった。ジオを助けたこと、ともに駐屯地へ行ったこと、他の他愛ない細かいことですら、もしかしたら――と。だがそんな疑問もグイードとラザールの存在がかき消してしまった。【ジオ】が【マリオン】になる前から、グイードはチェーク砦にいて、取って代わったのがラザールという男だったのだから。
牢屋に投獄されてからすでに2時間ほどが経ち、その間ずっとマリオンは考えているのだが、どうせ今日も答えは出ないのだろうと諦め嘆息する。すぐそばでメソメソといじけているジオがいい加減に鬱陶しくなってくる。
マリオンはてっきり、すぐ事情聴取が始まるものだとばかり思っていた。リヒルトは優秀な騎士だし、いつ何時も対応は迅速かつ的確だ。だというのに、この動きの遅さは何だろう。砦の司令官ともなると忙しいのかもしれないが、こうも捨て置かれるとは。
まさか本当に、ただの罪人と思われているのか。もしかして大人しく捕まったのは間違いだったのか。じわりとそんな後悔が胸の内に湧きつつあると、床を叩く硬質な足音が冷たい牢屋内に静かに反響した。
マリオンは俯けていた顔を上げ、鉄格子に縋りついたジオが何かを言おうとして言葉に詰まる。咄嗟に言葉が出ないようだった。
現れたのはグイードを伴ったリヒルト、その人だった。
「いやあすまん、ちょっと立て込んでいたものでな」
どこか飄々とした物言いには、貴族騎士としての傲慢さ、司令官としての厳格さはなく、聞いているこちらが拍子抜けしてしまいそうだ。その掴みどころのない雰囲気は軽薄そうで、しかしそうではないのだとマリオンは知っている。頼もしいが同時に恐ろしい、そんな男なのだ、リヒルトというのは。
「独房に入るなんてそうそうない経験だろう、どうだい居心地は?」
「いいように見えますか?」
そう言うマリオンの冷ややかな視線をリヒルトが追う。ジオは泣きそうになっている。本当に泣き虫な奴だ、とマリオンは思う。まぁ昔の自分自身なわけだが。
「どうやらそこの少年には不興のようだな」
「あ、あの! おれッ」
震える声を遮ったのは、挙げられたリヒルトの節ばった手である。
「言いたいことはあるだろうが、こちらも暇ではないんでね。質問に答えてもらうが、そちらからの質問には応じかねる。いいか」
いいか、と言いつつも、有無を言わさぬものが感じられる。
それで構わない、とマリオンが返答すると満足そうにリヒルトが頷く。
「3名の騎士に襲われこれを撃退、襲撃者らは騎士と思われ、それらはラザールの駐屯地方面からやってきた、というのが朝方聞いたお前たちの言い分、で合っているな」
「はい、その通りです」
「襲われた理由は不明、心当たりもなし」
「少なくともオレは、ですけど」
マリオンは言外に、ジオなら何か知っているかも、というニュアンスを含ませる。
それを汲み取ったリヒルトが、矛先をジオへと転じさせる。
「あーっと、ジオ、だったか。何か思い当たるものは?」
「えっ、そんなこと言われても・・・・・・」
無論ジオにそんなものあるわけもない。一介の徴募兵と貴族の司令官が仲良くできるわけもなく、ましてやラザールは根っからの貴族、ジオたち辺境民を軽んじること憚らない性格をしている。お近づきどころかまともに言葉を交わしたことだってなかったのだ。思い当たることなどあるはずがない。
それでも根が真面目なのだろう、必死に記憶をまさぐるジオの様子を見て、リヒルトが笑みを浮かべる。
「たとえば、そうだな・・・・・・ラザールが何かしらの汚職をしている場面を目撃してしまった、とか」
「えぇー・・・・・・」
それこそ、そんなこといわれても、である。ジオはより一層思い出そうとするけど、やはりそんな記憶はない。ラザールはイヤなヤツだし嫌いだけど、汚職をしているというのは聞いたことがない。
「すいません、わかりません・・・・・・」
素直にそう謝ると、さして期待していなかった様子のリヒルトが肩をすくめる。
「まぁ、そうだろうな。噂になるようなことをヤツがするはずはない。ところで」
背後のグイードに目配せをする。一礼したグイードが懐から出したのは、ジオたちが届けたはずの封書であった。
なんでそんなものを――マリオンは目を細める。
「お前たちは、これの中身を読んだか?」
「読んでいるわけありません。封印はされたままだったはずです」
「そうだな、たしかに封印は破られてはいなかった。では当然、この中身は知らないわけだ」
「軍事機密というやつなのでしょう? オレはただの旅人だし、そこのジオだって一兵士に過ぎませんよ」
「ふぅん・・・・・・なるほどね」
ひらり、と封書の中身をひるがえす。紙面には何も書かれていない。それを見たマリオンが「はっ?」と気の抜けた声を出した。後から覗き込んできたジオも驚いたような表情を浮かべる。
「・・・・・・これは?」
「軍事機密ってやつだな、お前が言うところの」
「・・・・・・冗談を」
「冗談なものか。これが封書の中身だ、それも2通ともだ。この何も書かれていない真っ白な紙切れを、私はお前たちから受け取ったということだ。冗談と言いたいのはこちらの方さ、これはどういうことなのか、とね」
「じゃあおれたちは」
ジオには信じられなかった。初めて任された大役が、まったく意味のない、いや意味の分からない何かに変ってしまった気がした。重要なもののはずなのだ、それを届けるよう任されたはずなのだ。
「こんなものが定期通信外の緊急的なものだとは、どうしても思えないんだよねなぁ」
しかしそんなジオの思いはバッサリと切り捨てられる。
投げ捨てられるようにリヒルトの指を離れた紙切れが、ひらひらと地面へ落ちる。それをジオは目で追い、そしてまたリヒルトを見上げる。命がけで届けた封書が、いま、哀しくも冷たい石畳の床に転がっている。
「あちらの言い分では、お前たちがとにかく騎士を殺した、とだけしか言っていない。もしお前たちが故意に、明確な殺意を持って、能動的に騎士たちを殺したというのなら、馬鹿正直にここへ来てその任務を全うしようとはしないはずだろう。さっさとどこかへ逃げるのが当たり前だ」
それはあくまでリヒルトの推察でしかないのだが、誰しもがそうするであろうという、ごく自然な考え方でもある。やましい気持ちがあるのであれば、誰だって遠くへ逃げようとする。
「では、オレたちの主張を信じていただけると?」
確認をとるようにマリオンがそう問うと、リヒルトは首肯して見せた。
「他でもないお前たちの行動がそれを知らしめている。だから気になるのが、襲われた理由なんだ。ラザールには、お前たちを殺したい理由があったんだろう。処刑以外の方法でな」
そうとしか考えられないと言うリヒルトの言葉には、何か確信めいたものの力強さが感じられる。さすがに頭脳のキレは抜群だとマリオンも舌を巻く思いだ。思えばこの頭脳に何度助けられただろう。ここでもまた、自分はリヒルトに助けられるらしい。それを妙に嬉しく思う自分がいる。
「となれば、だ」
ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべ、地に落ちた紙切れをリヒルトが拾う。
「グイード、出発の準備だ。そろそろこちらも動こうか」
「かしこまりました」
恭しく一礼するグード。
リヒルトは白紙をマリオンに突き付ける。
「理由は本人から直接聞きたいよな、お前たちも」
それは暗に、ついて来いと言われているのと同じだと、マリオンは否でも理解できてしまっていた。リヒルトの優秀さはマリオンには計り知れない、何を考えているのかも、わかりはしないのだ。