希望の子
私ね、この世界なんてどうでもよかったんだ。
ただ1人でこの世界を救った娘はそう口を開いた。風の吹き抜ける丘の上で、ふわりふわりと左右にマントを揺らしながら。
だって、私を助けてくれる人なんていなかったでしょ?だから私もこの世界を助けたいなんて思ってなかったんだ。
娘は疎まれた子供だった。母からも父からも愛されることは無く、ただ死なれると都合が悪いからという理由だけで生かされていた。不気味で呪われた女の子。その噂から町でも娘に話しかける人は誰も居なかった。
君だけだったよ。私に手を伸ばしてくれたの。
少年はただの旅人だった。世界が好きで人が好きで旅が好きなただの人だった。そして噂を知ってもそれを気にせず笑って手を差しのべるだけの力がある人だった。
君だけだったよ。私をちゃんと呼んでくれたの。
娘に名前はなかった。ただ、あれとかそれとか呪われた子とだけ呼ばれていた。娘は名前に憧れて自分で自分の名前をつけた。それを名乗る相手は居なかったけれど名前を持っているだけで満足だった。けれど少年は名前を尋ねた。そうして初めて娘は名前を名乗り少年は娘の名前を呼んだ。それは娘にとって何より嬉しい事だった。
君がこの世界を好きだったから。
僕この世界が大好きなんだ。透き通るほど青い空も、手が届かないほどの遠くで光る星たちも、風が吹き渡る緑に輝く草原も、白い波の合間で青と緑に煌めく海も、真っ白な羽のように空を舞う雪も、全部全部大好きなんだ。その笑った横顔が眩しくて綺麗でそれを守りたくて娘の心は決まった。
だからね。私はこの世界を救ったんだよ。
ただ少年が好きだと言ったから。それだけの理由で娘は世界を救った。それが娘にはできたから。呪われたと呼ばれる原因となった強大な力があったから。世界に呪われた娘は少年の言葉のために世界を救った。
理由なんてそれだけ。
愛を知らなかった娘は愛を知った。少年から途方もない大きさの愛を受け取った。娘にとってそれは一生をかけてもいいくらいの大きな大きな愛だった。だから何か返したかった。だったら少年の好きな世界を救えばそれは恩返しになるんじゃないかと思った。だから世界を救った。
君が居たから。
誰一人見向きもしなかった娘に愛を与えた少年が居たから。それが世界が救われた理由。そんなよくあるちっぽけで何でもない事でさえ、娘にとっては宝物だった。世界を救う意味があるほどの宝物だった。
君が世界を愛してたから。
その少年が世界を愛してたから。娘じゃなく、少年が世界を愛してたから。自分が愛していないのにただ少年の愛に応えたくて。そのために娘はひたすら戦った。
君が。
その少年が娘に出会ったから。偶然なのか必然だったのかはわからない。ただ、世界を救える人に世界を愛した人が出会ったのは確かな奇跡だった。
君がね。私の名前を呼んでくれたから。
その少年が誰も知らなかった娘の名前を呼んだから。それが世界を救うなんて誰一人、それを言った少年だって思っていなかった。
ただ一言。レニ。そう君が言ってくれたから。
その一言を言っただけ。それだけ。たったそれだけ。それで世界は救われた。
それだけで私は。私の全てが救われた。
その言葉だけで呪われた子は救われた。
だからこんな醜い世界を救った。
娘にとって世界は醜いものでしかない。少年の見る美しい世界など知らない。今でもまだ世界を美しいなど思えない。 涙と同じ色した空も、孤独な夜を思い出させる星たちも、広いけれど逃げ場のない草原も、先へ進めない行き止まりの海も、凍えるしかできないほど冷たい雪も、全部全部大嫌いで。けれどただ一つだけ少年だけが輝いて見えた。それだけを愛した。
私、君のために世界を救ったの。
娘にとって世界はどうでもよかった。ただ少年さえ居ればよかった。少年が旅をするのが好きだったからそれを奪わせないために世界を救った。
君がこの世界に居たから世界を救ったの。
娘にとって自分も周りも価値などなかった。滅んでもいいとさえ思っていた。ただ少年が居たから、少年に生きていてほしかったから世界を救った。
それでね、君に少しだけわがままを聞いてほしかったの。
娘にとって初めて願ったわがままがあった。世界を救ったその時に少年に会ってそれを言ってみたかった。それが叶っても叶わなくても構わなかった。ただわがままを言ってみたかった。
君に頑張ったねって言ってほしかった。
決して言われることなどなかったその言葉を言ってほしかった。
君に頭を撫でてほしかった。
決してされることなどなかったその行為をしてほしかった。
君に笑ってほしかった。
決して向けられることなどなかった笑顔をまた見たかった。
ううん。そんなのほんとうはどうでもよかったの。
けれどそれよりも何よりも望んでいた事があった。
ただ君に生きていてほしかった。
少年は旅の途中で命を落とした。人の醜い嫉妬によって。それでも少年は世界を愛していた。最期まで笑っていた。だから娘は少年のために世界を救った。少年が愛した世界を滅ぼさないために少年を殺した世界を救った。
でももうそれも叶わないね。
小さな墓の前で娘はそっと足を止めた。からんと音を立てて右手から剣が滑り落ち、地面へと転がった。
ああ、なんだかすごく疲れたの。
ふらりと娘の体が揺らぎ、そのまま地面に倒れ込む。折れた右足はもう使い物にはならず、既に立ち上がる気力は残っていなかった。額や腹や他にも体中のあちこちから流れ落ちる血は次々と地面を赤く染めていく。左の手を伸ばそうとして肘から先が無くなっていた事を思い出し、代わりに血塗れの右手を伸ばし小さな墓を撫でる。ボロボロになった髪の間からは抉れた左目の痕と潰れた喉が覗いていた。残った右目からは絶え間なく涙が流れ続け、口から出した声は掠れて言葉にならずただ少し空気を震わせるだけだった。
ね、少しだけ君の傍で眠ってもいいかな?
小さな墓へ微笑んで娘は静かに目を閉じた。その目が開かれることはもう無く、空を舞う鳥だけが娘の最期を見つめていた。